[吉本]
ですから、子どもたちにも
「あんまり表に出てないところで ちゃんと太ってるんだよ、 ちゃんと豊かになってるんだよ」
ということに目をむかせたほうがいいんです。
ここで僕が思うことは、コミュニケーションではなくて、
「反コミュニケーション」か、または
「非コミュニケーション」と言ったらいいのか、そういうことなんです。
つまり、コミュニケーション以外のもので塀をぶち壊して出口を作る以外にないだろうなと思います。
コミュニケーションの発達は、そもそも科学のものだから、科学以外のところで何をしたって、それはどうなるものでもないんです。
例えば、ここにいながらにして、アメリカならアメリカの職人さんたちが何をして、どういう身体の動かし方をしているかが、たちどころにわかる、と、そういうことになるでしょう。
そうなってしまったあとも、まだ
「コミュニケーション、グローバル」
とか言うでしょうけど、そういうことはあまり意味はありません。
グローバル競争とかいう、そういうアホなことはやめて、どこかに邪魔っけな石をどさっと置くようにしたほうがいい。
それを意識的にやるんです。
つまり、コミュニケーションの発達に邪魔をして、
「少しは邪魔っけがあるんだ」ということを、子どもたちに体験させたほうがいいんじゃないか、ということです。
そういったアンチテーゼの置き方は、それぞれの分野で考えなければいけませんけれども、コミュニケーションのおかげで子どもたちがここまで縮こまっているんだったらもう、しょうがないですよ。
これは、もうあとは壊すだけ、ということでいいでしょう。
[糸井]
いまは、自問自答どころか答えに一気に行こうとしますし、そのスピード自体が問題になっているんですよ。
[吉本]
そのとおりなんですよ、ですから何か、邪魔っけをね。
コミュニケーションに邪魔っけな石を置く、自問自答のようなものをさしあたり何と名づけたらいいのかというと、もしかしたらそれは
「芸術」という言い方で、できるんじゃないでしょうか。
いや、いまのところそう言っておくのがいちばん近いような気がするんです。
こんなふうに僕が思う発達の方向は、今日の学校や教育機関のほとんどが考えていることとは逆のことです。
だから、みんな気に入らないです。
まあ、邪魔しようと言ってるわけだから、気に入らないに決まってるでしょうけど(笑)。
コミュニケーションだ発達だ、ということをやめて、単純に、原始化したほうがいいとも言えるのかもしれません。
(明日につづきます)
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