糸井 |
ぼくが、宮沢くんのラブソングが
聴きたいという背景には、
「みんながラブソングを作らなくなったな」
ということがあるんです。
歌謡曲の人しか作らなくなったな、と。
演歌だけは残っていたんだけれど、
その演歌さえも少なくなってきた。
じゃあ若い子が作ってるかっていうと
そんなこともなくて、
なんだか「勇気を出せば」みたいな歌が多い。
百人一首からなにから全部ラブソングなのに。
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宮沢 |
ぼくは沖縄が大好きなんですけど、
沖縄民謡のラブソングって一流なんですよ。
品があって。琉歌(りゅうか)の流れがあるんで、
昔の言葉の美しさを踏まえてるし、
こんなにラブソングの多い民謡って
無いと思うんです。
そもそも民謡にラブソングって
ほとんど無いじゃないですか。
琉歌(りゅうか)は、奄美群島・沖縄諸島・宮古諸島・
八重山諸島に伝承される歌謡。
ウタとも言われ、奄美群島においては、
主に島唄と呼ばれる。 |
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糸井 |
そうだよね、働く歌が多いよね。
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宮沢 |
“今日の仕事は”とか、“船を作る”だとか。
けれども沖縄民謡には、
“あなたにはもう一生会えないのは分かってる”
“でも、今夜一夜限り、この月の下で結ばれたい”
というような歌があるんです。
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糸井 |
そういうのを聴きたいよ‥‥。
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宮沢 |
“月夜の下で、あなたに会えないのは分かってて、
今夜もあなたを思ってこの歌を歌います”
──すごく素敵だなと。
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糸井 |
素敵なことだね。
宮沢くん、歌ってよ、それを。
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宮沢 |
そうですね! いまのいままで
ぼくは思いつきませんでしたけど。
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糸井 |
聴いてただけだった?
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宮沢 |
はい。その曲は聴いていただけでした。
今度歌ってみます。
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糸井 |
それでもいいと思う。
あるいは自分で作ってもいいし。
この民謡と天秤ばかりにかけて
こっち側に乗っけられる自分の民謡はないかな?
って考えても、面白いよね。
アッコちゃん(矢野顕子さん)と作るときは
以前ふたりで作った
『自転車でおいで』(1987年)に
勝つ歌を作りたいね、
って言いながらスタートして、
負けてます(笑)。
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宮沢 |
(笑)負けてますか。
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糸井 |
負けます。やっぱり瞬間風速で
勝っちゃうことってありますからね。
だから、「しょうがないなー」
と思いながら作るんだけれども。
やっぱり民謡みたいなものっていうのは、
それだけの試合をする相手ですよね。
そしてあたらしい歌が、
ちゃんと東北のおじいさん、おばあさんを
ほろりとさせたら、冥利に尽きるよ。
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宮沢 |
そうなんですよ。ほんとそうなんです。
沖縄民謡には、例えば屋嘉村っていう村には
収容所があったんですけれど、
そこに連れてかれるときに歌った歌とか、
その戦下での恋の歌とかがあって、
リアルなんですよね。
実際にいま糸井さんがおっしゃったような情感が
沖縄には“ある”んです。
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糸井 |
あるだろうね。それで、残したのは恋の歌だった、
っていうのが、人間の持ってる強さであり、
弱さであり素敵さであり‥‥。
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宮沢 |
ぼくはね、年も取っていくし、
デビューしてもう23年です。
『釣りに行こう』
(1989年アルバム『サイレンのおひさま』)から
もう23年ぐらい経ってるんですが、
途中から「ウッ」と思うわけですよ。
ラブソングを作るにしても、
「いや、30には30のラブソングがある」
「35には35の、40には40の」
「いやいや60には60のラブソングがあるよ」
っていう一つの真理。
これは正しいな、と思うんです。
もう一つは「いやいや、あの頃の、
十代の、あれが恋だから、
あれをいつまでも歌い続けるんだ」と。
そういう人もいますよね。
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糸井 |
両方ありますね。
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宮沢 |
両方あって、
「ぼくは前者かな」っていうふうに
思ってたんです。
でも同時に
「もう一つ違うところへ行きたいな」
っていうのがあって。
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糸井 |
突破したいですよね。
60は60なりの、
分相応のお化粧の仕方があるっていうのは、
それは分かる。
だけど、「おばちゃん、どうしちゃったの
そんな間違った服着て」っていう恋の仕方は、
あると思うんです。
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宮沢 |
あー!
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糸井 |
シワだらけなのに、そんなことさえ忘れて、
見苦しく飛び込んで行く腕の中っていうのは、
現実の世界としてはおかしなことかもしれないけど、
心の世界としては全然見苦しくないですよね。
そこんところは、すごく興味があるなあ。
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宮沢 |
恋っていうこと自体、
ものすごいときめくじゃないですか。
「月の下であなたを想っています」
というようなことを、
ただ歌にすればいいんだろうな、
っていうところまで来てるんですけど、
まだ具体的にそれが
形になってない自分が歯がゆかったり。
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糸井 |
多少でも言葉を触ってると
すぐ思いますよね、
「これは陳腐な言葉だ」と。
自分が書いても、人が言っても。
でも、その言葉をどこにはめるかで
陳腐じゃなくなるわけです。
例えば子どもが初めて発した
「好き」っていう言葉があったときに、
それは陳腐だって言えないですよね。
置く場所によって
ただのガラス玉が宝石になるわけだし、
そのガラス玉をフルに最高に
かっこよく使ってやろうっていう
超絶技巧だってあるわけです。
そう考えると、
「つまんない言葉なんて、あんまりない」
っていうふうに、
ぼくは、どんどん自分を鍛えていきたい。
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宮沢 |
それは面白いなあ。 |
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(つづきます) |