糸井 |
東北って、いつか社員旅行で
行こうと思ってたんだけれど、
それ以外考えたことも無かったんですよ。
けれども、知ると、すごいんだ、
すごい人がいっぱいいるんだよ。
いつも帰ってくるときに
「いやー、面白かったー」って帰ってくるんです。
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宮沢 |
例えば気仙沼のおじいちゃんとか、
漁師のおじさんとかには
「糸井重里さん」が
誰だか分かんないっていうことも
きっとあると思うんです。
どんな仕事をされてきた人だっていうことも
全く関係なくフラットに触れ合えることが。
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糸井 |
そうですね。
ぼくを知らない人とぼくが付き合うのは
ぼくにとっては全く不自由は無いんです。
“鶴瓶の家族に乾杯”的なことを、
できる人ではあるんですよ。もともとぼくは。
その意味では知らない人と付き合うのも、
上手になってきてるんでしょうね。
「歌が上手くなっちゃうのはごめんなさいね」
みたいなところがあります。
対談をするとか、
知らない人んとこに入っていくとかっていうのは、
やっぱり、ほんとの無手勝流じゃできない。
相手が喜んでくれないと成り立たないことだから。
その意味ではちょっとだけ上手になってって、
それが積み重なっているんだと思う。
「誰も知らない、
自分も知らないしみんなも知らない人が、
面白いんだよー!」っていうのが、
できるようになったんでしょうね。
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宮沢 |
糸井さんの思い描いている“未来”って、
こういうことのなかにあるような気がしますね。
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糸井 |
東北を手工業のメッカにしたいんです。
「被災地が作ったからいいでしょ?」
っていう押し付けじゃなくって、
誰もが欲しい手工業製品っていうものを作る
仕事がしたいと思ってて。
付加価値の付け方っていうのも
やはり文体があるので、
「作ったのはこういう人で、
こんなことを考えてつくったんですよ」
という味つけにしたい。
ここでも、どれだけ文体が大事か、
という話になるんだよね。
「被災者が作りました」は
一回しか使えないし、
そのお客さんは二度と来てくれない。
いい関係にならないですよね。
文体、スタイルって、
ほんとうにいろいろありますよね。
先日「ブータンには『さよなら』という言葉がない」
と知ったんです。
要するに「I miss you」の意味の
「さよなら」がない。
会えなくなる人とも、
明日会う人みたいに別れるんだって。
でね、自分の中にそういう要素があって、
「俺はブータン人かもしれない」と思うくらい。
でね、ふと気がついたのが、
そうか、日本には「またね」とか
そういう言葉になるんだな、
そして「またね」とか「じゃぁね」を、
マイナーコードで歌えば、
「I miss you」の意味になるよな、って。
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宮沢 |
うんうん。
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糸井 |
つまり、「バカヤロウ!」って言いながら
別れるとする。でも、その『バカヤロウ』は、
言い方とかは、メロディで
別のものになりますよね。
日本人って、そこが、
ものすごく大好きなんじゃないかな。
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宮沢 |
ああ。そうですね!
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糸井 |
ぼくらは、『ばか』っていうのと
『バカッ!』っていうのは違うっていう話について、
いっくらでも、誰とでもしゃべれるじゃないですか。
そこに何か日本の歌の行き先があるかもしれないし、
歌ばっかりじゃなくって仕事にもあると思う。
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宮沢 |
歌にも行き先の流れがありますよね。
傾向。
例えば主語がいまは少なくなってます。
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糸井 |
ああ、ああ。そうか。
OurとかWeの振りをしたいんだな。
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宮沢 |
“あなた”っていうこともあんまり言わない。
“君”も言わないし。
胸の中の感覚を、日記のように‥‥
っていうものが多いなって思う。
意外に思うのは──ま、これは
音楽的な理由でもあるんですが、
言葉、増えてますね。歌詞の量が。
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糸井 |
ほぉ、ほぉ!
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宮沢 |
我々、なるべく、つまんでつまんで、
ってやりたくなるんですけど、
いまは音楽的にも音符を細かくするんです。
十六分音符、三十二分音符とかってやってくと、
言葉が増えてく。
それは英語っぽいといえば英語っぽいんですけどね。
そうすると必然的に詩も増えるっていう
傾向があるみたいですね。
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糸井 |
そうですか。残念ですね。
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宮沢 |
阿久悠さんの『津軽海峡・冬景色』が
なんですごいのかっていう話があって。
「上野発の夜行列車降りたときから
青森駅は雪の中」
という2行で700キロ旅してるんです。
すごいマジックだなと思ったんですよね。
あの歌ってもう竜飛岬以外は
あまり青森のことも歌ってないし。
でも、我々にはもう
「青森ってこうだー!」って
あの当時日本国民全員が思った。
そういう、“意味”でもないものが、
歌には、やっぱりあるんですね。
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糸井 |
それを“詩”というんでしょう。
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宮沢 |
ですね。“意味”じゃないし、
情報量でもないし。
なのにものすごく的確で。
日本にはね、そういう歌がいっぱいあるのに
まるで無かったことのようになってますよね。
それはもったいなさすぎる。
そうじゃないぞって、
震災後みんなも気がついただろうし。
『朧月夜』だって、『荒城の月』だって、
「こんないい歌あるじゃん!」って。
ぼくはぐっとこう帆を張って、
そっちへ行ってみたいな、って思うんです。
ロックへの憧れとか、アメリカ人ってかっこいいな、
みたいなのはもうとうの昔にやめてるんですけど、
さらに、行きたいな。
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糸井 |
その文脈と全然違うんだけど、
“フォスター”っていう人いるでしょう。
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宮沢 |
スティーブン・フォスター。
いいんですよねぇ。
なんでいいんですかね。
そこまで話してくと、
きりがないんですけど、いいんですよ。
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糸井 |
いいよね、フォスターって。
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宮沢 |
石垣島に“とぅばらーま”っていう歌があって、
八重山を代表する名曲なんです。
沖縄本島の民謡と八重山の民謡って
ちょっと違いまして、
本島のほうはどっちかっていうと
お座敷芸的な美意識を大事にするところがあって、
三味線の弾き方もすごい細かいですし、
譜面に書けないようなところがあります。
八重山のほうっていうのはもう、
“月夜の下で、どこまで届く? 俺の声”
っていう歌いかたをするから、
細かいことはいいんですよ。
パーン、パーン、パーン。
その“とぅばらーま”っていう曲、
とぅばらーま大会っていうのが
毎年行われるぐらい大事な歌で。
ぼくは沖縄が好きだっていうのはあるんだけど、
それをいくらさし引いても、
いつ聴いても涙が出てくるんですよ。
全く沖縄にぼく、縁もゆかりも、
ましてや八重山なんでね。
言葉もぼくはもう知っちゃってるんだけど、
でも最初聴いたときはもちろん知らなかったし。
スティーブン・フォスターもそうで。
最初に聴いたときにもう、浄化されて、
ほんと生まれ変わりましたって思うぐらい感動が‥‥。
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糸井 |
宮沢くんもそうですか。
あの人はもうぼくはもう日本人扱いしてますね。
ちっちゃい時に聴かせられたっていう感じはあるから、
自分の材料の中に
入り込んでるのかなぁとも思うんだけど。
人がなんか歌うのに困ってたら
「フォスター歌えばいいのに」っていつも思う。
民謡っていうものが持ってる普遍性みたいなものって、
文体は違ってもスタイルはあるっていうことでの、
いい表現ができてるんだろうな。
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宮沢 |
ぼくが音楽で感じるのは、
そこで湿度っていうのが結構あって。
やっぱりぼくら東日本の人間は、
少し湿ってるほうが、いいんだろうな。
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糸井 |
湿ってるの、いいですね。
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宮沢 |
南米のフォルクローレとか、
カラッカラに乾いてるじゃないですか。
ポルトガルのファドとかも。
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糸井 |
その悲しさは“痛い”。
乾いてる悲しさはね、ちょっとヒリヒリ痛いの。
湿ってるのはね、「受け止めましょう」ってなる。
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宮沢 |
っていうのが我々の、東アジアの、
気質なんだろうなと思いますね。
悲しみは一緒ですから。
(次回、最終回につづきます) |