第5回 断定
あの、たまたま知った海外のニュースで、
ブラジルかどこかの田舎で、
子どもたちが電車の屋根に乗って
遊ぶことが社会問題になっている
っていうのがあったんですよ。
走る電車の屋根に乗って、
向こうから迫ってくる高架線みたいなものを
ジャンプして飛び越えたり
くぐったりして遊んでるみたいなんです。
糸井 へええ。
で、当然、危険ですし、
それで死んでる子どもも出ていて、
オトナたちはなんとかやめさせようと
必死に呼びかけている、
っていうニュースなんですけど。
でも、それを伝えながらもカメラは
屋根できゃあきゃあ遊んでる
子どもたちを映してるんです。
で、それを観たときに感じたのは、
たぶん、彼らはこれをやめないんだろうな
ということで。
糸井 あああ。
そういうニュースになったら、なおさらね。
はい。いいとか悪いとかではなく。
「危ないから降りなさい」って理屈が
大人にとって整合性があることとしても、
彼らは「危ないからやってる」わけですからね。
危なくないならやらないです。
そこは相容れないとこなんだろうなって。
糸井 両方の視点がわかると複雑になるんですよね。
だから、そのニュースに対して
どうこういうのではなく、
なにかに対するものの見方ということでいえば、
違う視点を持てるようになってからのほうが
自分の考えというのは豊かになる。
そのぶん、悩みは深くなるんですが。
ええ。
糸井 いろんな視点が持てるようになればなるほど、
自分が何を考えているかを表現するとき
慎重にならざるをえないんですよね。
だから、ぼくなんかは
自分が本当にそう考えていて、
自信を持って「オレの考えだ」って
言えることだけを言いたいなって
思っているんですけど。
ああ、はい。
ぼくもそれに近いのかもしれないけど、
実際のところでいうと、ぼくの場合、
そう考えたら自信を持って
「オレの考えだ」って言えることが
ほとんどなくなってしまうんですよ。

糸井 ああ、なるほど。
それもよくわかります。
だから、とくに最近は
断定ができなくなっちゃってるんですね。
自分に対する評論や批評を読むと、
「森は何に対しても
 最後は『わからない』で終わってる」
というのがあって、
たしかにそうだなあと思うんです。
でも、何かに対して断定できなかったら
ものを書いたり映画にしたりする
資格がないわけじゃないだろうとも思うし。
取材ものなんかでも、
途中までは、おもしろいし、好きなんですよ。
でも、最後になると、なんというか、
何も断定できなくなるというのが、
最近、とみに強くなっていますね。
糸井 うん。あの、断定ごっこ、というか、
体裁を整えるために、
最後にいちおうの断定を置くみたいなことは
きっとできるんだと思うんですね。
うん。
糸井 だけど、ごっこを越えて、
それを読んだり観たりした人が
本当にそれを信じて動いちゃったときに
どうなるかということについてまで考えると、
怖さが生まれてくるんですよね。
だから限定されたサロンで、
あれこれ話をするだけというのであれば、
鉄砲を仕入れて、ここを占拠して、
みたいな話をいくらしても
かまわないと思いますよ。
でも、サロンの外に
それを盗み聞きしてる少年がいて
ほんとにやっちゃったりね、
あるいはサロンの外に出たときに、
「なぜお前はやらないんだ?」
っていう人が現れたりということを思うとね、
何も言えなくなってしまう。
サロンの種類にもよるんですけどね。
好きな子にふられちゃったんですけど
どうしましょう、みたいなサロンには
いくらでもいられますよ。
あるいは、これはきれいですね、
っていうサロンにもいられる。
でも、ひとつ語ったあとで、
「そのあともあるぜ?」
っていう動きが出てくるようなサロンでは
年をとるにつれて口数が減っていきますよね。
思う分量はまったく減ってないんだけど、
黙ることを覚えていっているというか。

うん、うん。
糸井 森さんが仕事をやってて、
いつかやりたいなって思っているのも
そのあたりの領域なんですよね。
そうですね。
 
(続きます)

2007-02-20-TUE


 
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN