森
あの、たまたま知った海外のニュースで、
ブラジルかどこかの田舎で、
子どもたちが電車の屋根に乗って
遊ぶことが社会問題になっている
っていうのがあったんですよ。
走る電車の屋根に乗って、
向こうから迫ってくる高架線みたいなものを
ジャンプして飛び越えたり
くぐったりして遊んでるみたいなんです。
糸井
へええ。
森
で、当然、危険ですし、
それで死んでる子どもも出ていて、
オトナたちはなんとかやめさせようと
必死に呼びかけている、
っていうニュースなんですけど。
でも、それを伝えながらもカメラは
屋根できゃあきゃあ遊んでる
子どもたちを映してるんです。
で、それを観たときに感じたのは、
たぶん、彼らはこれをやめないんだろうな
ということで。
糸井
あああ。
そういうニュースになったら、なおさらね。
森
はい。いいとか悪いとかではなく。
「危ないから降りなさい」って理屈が
大人にとって整合性があることとしても、
彼らは「危ないからやってる」わけですからね。
危なくないならやらないです。
そこは相容れないとこなんだろうなって。
糸井
両方の視点がわかると複雑になるんですよね。
だから、そのニュースに対して
どうこういうのではなく、
なにかに対するものの見方ということでいえば、
違う視点を持てるようになってからのほうが
自分の考えというのは豊かになる。
そのぶん、悩みは深くなるんですが。
森
ええ。
糸井
いろんな視点が持てるようになればなるほど、
自分が何を考えているかを表現するとき
慎重にならざるをえないんですよね。
だから、ぼくなんかは
自分が本当にそう考えていて、
自信を持って「オレの考えだ」って
言えることだけを言いたいなって
思っているんですけど。
森
ああ、はい。
ぼくもそれに近いのかもしれないけど、
実際のところでいうと、ぼくの場合、
そう考えたら自信を持って
「オレの考えだ」って言えることが
ほとんどなくなってしまうんですよ。
糸井
ああ、なるほど。
それもよくわかります。
森
だから、とくに最近は
断定ができなくなっちゃってるんですね。
自分に対する評論や批評を読むと、
「森は何に対しても
最後は『わからない』で終わってる」
というのがあって、
たしかにそうだなあと思うんです。
でも、何かに対して断定できなかったら
ものを書いたり映画にしたりする
資格がないわけじゃないだろうとも思うし。
取材ものなんかでも、
途中までは、おもしろいし、好きなんですよ。
でも、最後になると、なんというか、
何も断定できなくなるというのが、
最近、とみに強くなっていますね。
糸井
うん。あの、断定ごっこ、というか、
体裁を整えるために、
最後にいちおうの断定を置くみたいなことは
きっとできるんだと思うんですね。
森
うん。
糸井
だけど、ごっこを越えて、
それを読んだり観たりした人が
本当にそれを信じて動いちゃったときに
どうなるかということについてまで考えると、
怖さが生まれてくるんですよね。
だから限定されたサロンで、
あれこれ話をするだけというのであれば、
鉄砲を仕入れて、ここを占拠して、
みたいな話をいくらしても
かまわないと思いますよ。
でも、サロンの外に
それを盗み聞きしてる少年がいて
ほんとにやっちゃったりね、
あるいはサロンの外に出たときに、
「なぜお前はやらないんだ?」
っていう人が現れたりということを思うとね、
何も言えなくなってしまう。
サロンの種類にもよるんですけどね。
好きな子にふられちゃったんですけど
どうしましょう、みたいなサロンには
いくらでもいられますよ。
あるいは、これはきれいですね、
っていうサロンにもいられる。
でも、ひとつ語ったあとで、
「そのあともあるぜ?」
っていう動きが出てくるようなサロンでは
年をとるにつれて口数が減っていきますよね。
思う分量はまったく減ってないんだけど、
黙ることを覚えていっているというか。
森
うん、うん。
糸井
森さんが仕事をやってて、
いつかやりたいなって思っているのも
そのあたりの領域なんですよね。
森
そうですね。
(続きます)
2007-02-20-TUE
(C) HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN