漫画『おぼっちゃまくん』の編集者から
大ブームとなったミニ四駆を担当し、
さらに「劇場版ポケットモンスター」の
エグゼグティブ・プロデューサーへ。
雑誌の編集者から映像のプロデュースへ
仕事を広げていった、
小学館の久保雅一さんにうかがいます。
編集者という仕事の先にあった、
プロデューサーという今のお仕事のこと。
そこでは、かつて雑誌の編集者として
学んだことが、どう活かされているのか。
いま、編集者という職業への思いは。
担当は「ほぼ日」奥野です。

>久保雅一さんのプロフィール

久保雅一(くぼまさかず)

1959年札幌市生まれ。早稲田大学卒業後、小学館に入社。コロコロコミック編集部、「劇場版ポケットモンスター」エグゼグティブ・プロデューサー等を経て、現在は㈱小学館取締役、㈱小学館集英社プロダクション常務取締役。「ミニ四駆」、「ポケットモンスター」等、数々のTV番組や映画の企画・プロデュースを手がける。世界中で大ブームとなった“ポケモン”では、ゲーム、コミック、TVアニメ、キャラクター商品といったメディアミックス展開の仕掛け人として知られ、1998年に統括プロデューサーを務めた「劇場版ポケットモンスター」は、米国で公開された日本映画として過去最高の興行収入を記録した。日本知財学会理事副会長、東京国際映画祭実行委員なども務める。2008年藤本賞受賞。2018年アメリカ映画協会”Ace Award 2018″受賞。

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第3回 1億台も売れた、ミニ四駆。

──
すこし前に、さいとう・たかを先生の
『ゴルゴ13』が
「発行巻数世界一」ということで
ギネス世界記録に認定されましたよね。
コミックスも200巻を超えて。
久保
ええ。
──
漫画に特徴的なことだと思うんですが、
ひとつの作品を
それだけ長く描き続けることって、
とんでもなくすごいこと‥‥ですよね。
ヒット作をうみだすこともすごいけど、
長く続けることも、同じくらい。
久保
そうだと思います。
──
久保さんは、『おぼっちゃまくん』の
4代目の編集者を
7年間も担当されていたわけですが、
就任した時点で、作品としては、
できあがってる状態だったんですよね。
久保
そうですね。
ヒット作家にとって、
高いモチベーションで長く連載するのって、
本当に大変なことだと思うんです。
新しい作品を立ち上げたいという気持ちも
芽生えてきますし。
読者にも、
新作のほうが興味を持たれやすいですし。
──
そうですよね、ええ。
久保
漫画でもアニメや映画でも、
「すでに当たっている作品」を
「当て続ける」仕事が、
とてつもなく
ハードでクリエイティブな作業だと思います。
──
なるほど‥‥。
久保
だって、長く続ければ続けるほど、
時代とのズレもうまれてくるし、
刺激にたいする
読者の感覚も、鈍くなってくるし。
作家も編集者も、
何か新しい作品をやろうというほうが
ワクワクしたりもします。
──
はい。
久保
漫画家の先生とワイワイお話ししながら、
ああしようこうしようなんて言って、
人に会ったり、取材に行ったり、
連載開始へ向けて、
とりあえず、こことこことここに
旗を立てましょうかと
やっていくほうが、
冒険みたいでね、
モチベーションも上がるし、楽しいし。
──
ええ。
久保
一方、長く描き続けてきて、
たまに読者アンケートの順位が下がったりして
「次回はどんな話にしましょうか」
と話し合うのは、
やっぱり、しんどいこともあります。
ただ、小学館という会社は、
「ヒットを続けていく」ということに関しては、
比較的うまいと思いますが。
──
そうですよね。
長く続いている作品、たくさんありますもんね。
『ドラえもん』をはじめ‥‥。
久保
そうですね。「ポケモン」にしたって、
『名探偵コナン』にしたって、
もう25年以上、続いていますからね。
──
それだけ続けていること自体が、名作の証だし、
並大抵のことじゃないってことですね。
久保
担当編集者にしても、
初代のがんばりだけでは無理かもしれませんね。
2代目、3代目‥‥と、
あとを引き継いでいった編集者たちの
発明と言ったら大げさだけど、
作品を続けさせる
相当な「貢献」がなければね。
──
きっと惰性では続かないものですよね。
何でもそうだと思いますが、
とりわけ、物語というものについては。
久保
ヒット作の「当たりくじ」は、
いろいろな方をめぐります。
でも、きちんとマーケティングをして、
才能ある作家にお願いして、
おたがいに
モチベーションを高くして臨んでいけば、
必ずチャンスはあると思うんです。
──
ええ、ええ。
久保
一方、ひとつの連載を長く続けるのには、
あれもやりたい、これもやりたい、
でも、もう似たようなことやっちゃって、
何もできない‥‥という、
そういう状態で引き継ぐこともあるから。
──
そう聞くと、
いま長く続いている漫画の作品に対して、
いっそうの尊敬を感じます。
久保
そうそう、ちょっと前に
NHKの『ブラタモリ』を見てたときに
知ったんですけど、
『進撃の巨人』の作者の諫山創先生って、
大分県日田市の出身で、
生まれた町が
「大きな盆地」なんだそうですね。
──
ああ、だから‥‥!
久保
そう、周囲を見渡すと高い山が360度、
「壁」のように連なってるんです。
ああ、こういう場所で生まれ育ったから、
ああいう漫画が
浮かんだのかもしれない‥‥って。
──
ルドンの《キュプロクス》とか、
『もののけ姫』のデイダラボッチとかの、
山の向こうから
巨人にじっと見られてる‥‥
見上げてる、
みたいなことだったのかもしれないです。
あの漫画の恐怖感って、そう考えると。
久保
生まれ育った環境だとか経験を元にして、
物語を発想する先生もいると思います。
そのとき、先生が描きたい世界観を、
どうやって前にすすめて、かたちにして、
連載して、ヒットさせるか‥‥は、
編集者としての醍醐味ですね。
──
担当作がどんどんヒットしていくのって、
ワクワクするでしょうね、編集として。
久保
はい。自分が「これだ」と信じた才能が、
キラキラ輝いていらっしゃる姿を見るのは、
とっても素敵な時間ですね。
──
でも、読者として
はじめて『進撃の巨人』を読んだときは、
正直びっくりしました。
人間が食べられる場面とか大丈夫かなと。
でも、担当編集者さんは、
そこを見抜いたってことなんですものね。
久保
ぼくもあの作品のラフを持ち込まれたら、
「えっ」と思ったかもしれない。
ただ、その懸念を払拭するほどの
エネルギーがありましたよね、作品に。
日本の漫画って、
やっぱり、いちばん競争の激しい場所で、
勝負しているから。

──
日本という、漫画の最激戦地帯で。
久保
読者も編集者も目が肥えているわけです。
そんな
厳しいマーケットでなお目をひく作品は、
やっぱり、本物のちからを持っています。
だからこそ、日本の漫画を
海外に持っていっても人気なんですよね。
──
なるほど。
久保
もちろん海外の漫画の業界にも、
素晴らしい作家はたくさんいるんですが、
それでも、
日本の漫画が文化を超えて人気なのは、
日本がいちばん厳しいマーケットだから。
そのことは、事実だと思います。
──
ヒットと言えば‥‥なんですが、
久保さんは、
テレビアニメ『ポケットモンスター』に
ずっと関わってらっしゃいますし、
その前は、
「ミニ四駆」大ブームの仕掛人ですけど、
プロデューサー的な仕事って、
いつくらいから、やっていたんですか?
久保
まず、テレビ東京で
『ポケモン』の放映をスタートしたのが、
97年の4月ですね。
ただ、その前に
ミニ四駆の『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』
という番組を、
96年の1月くらいからやってました。
──
なるほど。
ミニ四駆についても、
ほとんどドンピシャの世代なんですけど、
あのブームには、
どういうかたちで関わっていたんですか。
久保
まず、ブームの兆しがあったんですよね。
『ダッシュ!四駆郎』という漫画です。
──
はい、ありました。
80年代の『コロコロコミック』ですね。
大ブームになりましたよね。
久保
そのブームが落ち着くと、
その次は
『SDガンダム』が大ブームになりました。
ライバルの『コミックボンボン』の。
当時「コロコロ」的には厳しい時期で、
起死回生、もういちど
「ミニ四駆」でヒットを狙おう‥‥
ということになったんです、編集部で。
──
ええ、ええ。
久保
物語をつくるにあたっては、
兄弟のタイプの違う車が競い合う話で、
当時ドッヂボールの漫画を描いていた
こしたてつひろ先生に
お願いすることになりました。
そうやって満を持してはじめたのが、
『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』でした。
──
なるほど。
久保
この漫画を、なんとかアニメにしたい。
そして『SDガンダム』に勝ちたい。
そういう、強い思いがあったんですね。
そのあたりから、
本格的にアニメプロデューサー的な仕事を
はじめました。
──
当時は『コロコロコミック』の‥‥。
久保
デスクだったかなあ。
──
じゃあ、「コロコロ」の編集をやりながら、
ミニ四駆の開発にも関わったんですか。
久保
タミヤさんと「コロコロ」の編集者たちと、
子どもたちを夢中にさせちゃうような
新しいミニ四駆をつくろうと、
それまでのオフロードっぽいデザインから、
フルカウルな
オンロードっぽいデザインにして、
粘土細工から、みんなで一緒にやりました。
──
フルカウルはネイキッドの反対の概念で、
タイヤまわりなんかが
カバーされているタイプの車両ですよね。
でも‥‥そうだったんですか。
久保
主人公がミニ四駆と一緒に走りながら
「行けー!」って叫ぶと、
ミニ四駆がズギューンと加速していく。
毎回そこが物語の見せ場なんですけど、
まあ、現実には、
ミニ四駆が
かけ声で加速するはずはないんです。
──
ですよね(笑)。
久保
でも、そういう演出で話をつくったら、
子どもたちがよろこんでくれた。
もうね、夢中になってくれたんですよ。
さらには、
従来からの「改造の楽しみ」を通して、
自分だけのミニ四駆をつくれたり。
ジャパンカップという
実際にミニ四駆で勝負をする場も、
さらに盛り上がりました。
──
そうやって、あの空前の大ブームが。
みんな持ってたもんなあ‥‥。
久保
で、ミニ四駆がうまくいっていたので、
任天堂さんが、
ぼくに声をかけてくださったんですね。
──
つまり、
そこからじょじょに「ポケモン」へと?
久保
そうなんです。
まだミニ四駆ブームの真っ只中のとき、
ポケモンがはじまってるんです。
ミニ四駆の映画の公開と
ポケモンのテレビアニメの放映開始が、
同じ年なんですよ。
──
そこ、かぶってるんですか! ひー。
ポケモンについても、
のちほどうかがいたいんですけれど、
まず、ミニ四駆って、
どうしてあんなにブームになったと
思いますか。
久保
子どもたちが、
あんな大きさの車のプラモデルをつくっていると、
お父さんたちが
「何やってんの?」って寄ってくる。
とくに昔、プラモが好きだったお父さんだったら、
「どれ、見せてみな」って。
──
目に浮かびますね。
久保
でも、子どもたちがつくったミニ四駆と、
お父さんがつくったミニ四駆を
競争させると、絶対親が負けるんですよ。
なぜなら、何のノウハウもないからです。
「コロコロ」読んでないし。
──
読んでないし! ですね(笑)。
久保
そうすると、
お父さんも「なんだよ」ってムキになる。
そうなるともう、待ってました(笑)、
お父さんの「経済力」が、
一気に、ミニ四駆になだれ込むんですよ。
──
なるほど! 
お父さんのハートに火がついた‥‥結果、
お父さんの、大人の財布が開いた(笑)。
久保
親のほうも、楽しかったんですよね。
子どもとの接点になるし、
ここのパーツがどうだとか何だとか、
そうやって、
ああだこうだ話し合えるわけだから。
──
たしかに、親子の遊びでもありました。
一緒の目線になれたということですね。
久保
そう‥‥サッカーでも野球でも何でも、
親と子が
まったくの同じ目線で遊んだりできて、
それどころか子どもが勝っちゃう‥‥
みたいなことって、
なかなか難しいと思うんですけど、
ミニ四駆なら、それができたんですよ。
だって、「1億台」も売れたんですよ。

──
いっ、1億台! 
久保
そう(笑)。
──
親と子のコミュニケーションの広場を
つくったってことなんですね。
それって、すごく、編集者的というか、
プロデューサー的というか。
久保
そうですね。
ミニ四駆をつくった‥‥というよりも、
場所や機会をつくったんですよね。
ミニ四駆の関係者全員で。
そこで、たくさんの親と子に
遊んでもらえたんだろうなと思います。
──
はい、そうだと思います。
久保
リチウムイオン電池の発明者のひとりで
ノーベル化学賞を受賞された吉野彰さんが、
インタビューでおっしゃっていたのですが、
「充電して再利用可能な
リチウムイオン電池でしたが、
発売後、なかなか売れなかったのですが
95年に急に売れだした」と。
ぼくはすぐに、
ミニ四駆で使われたからだと思いました。
──
仮に、ミニ四駆の大ヒットも
ノーベル賞につながっていたとしたら‥‥
痛快だなあ。
久保
編集者冥利に尽きますね。
幸せな時間でした。

(つづきます)

2021-10-27-WED

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