漫画『おぼっちゃまくん』の編集者から
大ブームとなったミニ四駆を担当し、
さらに「劇場版ポケットモンスター」の
エグゼグティブ・プロデューサーへ。
雑誌の編集者から映像のプロデュースへ
仕事を広げていった、
小学館の久保雅一さんにうかがいます。
編集者という仕事の先にあった、
プロデューサーという今のお仕事のこと。
そこでは、かつて雑誌の編集者として
学んだことが、どう活かされているのか。
いま、編集者という職業への思いは。
担当は「ほぼ日」奥野です。

>久保雅一さんのプロフィール

久保雅一(くぼまさかず)

1959年札幌市生まれ。早稲田大学卒業後、小学館に入社。コロコロコミック編集部、「劇場版ポケットモンスター」エグゼグティブ・プロデューサー等を経て、現在は㈱小学館取締役、㈱小学館集英社プロダクション常務取締役。「ミニ四駆」、「ポケットモンスター」等、数々のTV番組や映画の企画・プロデュースを手がける。世界中で大ブームとなった“ポケモン”では、ゲーム、コミック、TVアニメ、キャラクター商品といったメディアミックス展開の仕掛け人として知られ、1998年に統括プロデューサーを務めた「劇場版ポケットモンスター」は、米国で公開された日本映画として過去最高の興行収入を記録した。日本知財学会理事副会長、東京国際映画祭実行委員なども務める。2008年藤本賞受賞。2018年アメリカ映画協会”Ace Award 2018″受賞。

前へ目次ページへ次へ

第4回 「ポケモン」との出会い。

──
久保さんが、「ポケモン」のアニメを
手掛けるようになったきっかけは‥‥。
久保
ミニ四駆の大ヒットがあって、
任天堂さんからお声がかかったんです。
ゲームの発売は96年の2月末ですが、
ぼくが、はじめてさわったのは、
たしか95年の11月くらいでしたね。
──
当時は、まだまだ、
ミニ四駆が日本中で大ヒットしていて。
久保
そう、そういう時期に、
神田の任天堂東京支社に呼ばれて行った。
そのときに、はじめて
現在、株式会社ポケモンCEOの
石原恒和さんに、お会いしたんです。
それで‥‥その場でご相談を受けたのは、
この『ポケットモンスター』という
新しいゲームを、
「コロコロ」で漫画化できないかと。
──
そのときは、どう思われたんですか?
久保
当時は、小学生の7割がゲームボーイを
持っていた時代なんですね。
だから、ぼくたちとしては、
読者のマーケットに合っているのかなと。
また、糸井重里さんの『MOTHER』の
開発スタッフが関わっていると聞き、
おもしろそうだなとは、思っていました。

──
なるほど。
久保
ただ、初見でここまでのビッグヒットを
見通せたかというと、
まったく、そんなことはなかったですね。
──
いまや、全世界で超有名になってますが、
まあ‥‥それは、そうですよね。
ヒットの規模が、とんでもないわけだし。
久保
ゲームの発売に合わせて、
漫画の連載もはじめることになりました。
ただ、最初は主役はピカチュウじゃなく、
『ふしぎポケモンピッピ』という、
ピッピを主人公にしたギャグ漫画でした。
──
えっ、そうなんですか!
ピカチュウじゃなかったんですか、主役。
自分はポケモン世代じゃないので、
よく知られたお話でしたら、すみません。
久保
いえいえ。
その時点で、
漫画はそこそこウケてたんですが、
アニメではピッピではなく、
ピカチュウが主役に変わっていくんです。
──
そうなんですか。へえ‥‥。
久保
ギャグ漫画のほうが
子どもにウケるなとは思ったんですけど、
ポケモンアニメのメインストーリーは、
原作者の方々やアニメ監督たちと
相談すべきだろうなと思いました。
──
そうやって、
アニメの主役がピカチュウに変わって、
お話も、いまの
テレビや映画の『ポケモン』のように。
久保
主人公のサトシが冒険に連れ出すのは、
ごく自然に
一緒にいるようなポケモンがいいなと、
湯山邦彦監督は思っていたみたいです。
関係者の打ち合わせの結果、
選ばれたのが「ピカチュウ」でした。
──
なるほど。
久保
そうなってからが、すごかったんですよ。
これは余談なんですが、
湯山監督は、
ピカチュウは「ピカピカ」と言いつつも、
そのうち人間の言葉を覚えて、
人間の言葉を話す設定を考えていました。
──
ええ。へえ‥‥。
久保
ところが、優れた声優の大谷育江さんが、
「ピカピカ」だけで、
すべてを表現しきれちゃったんですよね。
──
なんと。
久保
え、ここまで表現できるのなら、
そのままでいいんじゃないかとなって、
ピカチュウのセリフは、
ただ「ピカピカ」だけになったんです。
──
そうなんですか。おもしろいなあ。
久保
そう、だから、全世界で放映している
ポケモンのテレビ番組や映画では、
ピカチュウの声だけは、
まったく吹き替えしてないんですよね。
どの国でも大谷さんの声でやってます。
すごいんです、声優として。
──
久保さんが「ポケモン」を見ていて
「これは、すごいことになる!」
と感じたのは、いつくらいでしたか。
久保
あるときゲームボーイの「ポケモン」に、
まぼろしの
151匹目のポケモンがいる‥‥という
噂が流れたんです。
これは開発プログラマーの方が、
ゲーム容量に少しだけ空きがあったので、
いたずら心で、ひっそり、
151匹目のポケモンを入れたんですね。
──
ソフトの空き容量に、隠れキャラ的に。
久保
誰にも気づかれないものだったんですよ、
本来であれば。
知ってるのは自分たちだけのはずでした。
でも、プレイをしてると、何かの拍子に、
その151匹目の「ミュウ」が出ちゃう。
で、パッと消える‥‥いう現象が、
日本全国の子どもたちに目撃されまして。
──
それは‥‥噂になっちゃいますね。
久保
そう、まぼろしのポケモンに違いないと、
大きな話題になったんです。
そこで、そんなに話題になっているなら、
ためしに
「コロコロ」でプレゼントしてみようと。
──
プレゼント‥‥というと?
久保
まぼろしの「ミュウ」という151番めの
ポケモンを、
20名にプレゼントすることにしたんです。
合計20名の当選者に、
ゲームのROMカセットを送ってもらって、
そこにミュウを入れて返す‥‥
ということをしたんです。
──
はああ‥‥すごい。たったの、20名に。
久保
そうです、たったの20名。
その枠に、8万通ぐらい応募が来たんです。
──
8万!
久保
そのときに「これは‥‥」と、思いました。
何だかすごい反響がきてるぞということで
もう、1回やったんです。
また20名にプレゼントしたんですけれど、
また8万通、応募が来ました。
──
さらに8万!
久保
それが96年のGWあたりのことです。
これはすごいことになるかもしれないなと。
そして、その年の冬に、
「ポケットモンスター 青」も限定発売しました。
「ポケモン」には、
赤と緑の2バージョンの他に、
「青いバージョン」も
存在すると教えていただきまして。
そこで、通販限定のやり方で
「コロコロ」で販売することになりまして。
──
「青」版を。
久保
いざ、その号を発売してみたら‥‥
ちょっと処理しきれないほどの反響でした。
毎日毎日、
朝からずっと編集部の電話が鳴りっぱなし。
──
青がほしい‥‥と。
すでに社会現象ですね、そうなってくると。
久保
編集部だけでなく、
社内の電話がジャンジャン鳴って、
「読者のみなさま、本当に、すいません!」
って感じでした。
当初は、どんなに売れても
30万本くらいだろうと予測していたのが、
60万本の注文が入ったんです。
10月に販売を開始していたんですが、
12月のクリスマスまでに、
すべての注文を発送できなかったほどです。
──
わあ‥‥。
久保
クリスマスに間に合わなかったみなさま、
本当に、すみませんでした。
──
あらためて、この場を借りてのおわび!
いやあ、でも、
倍の注文が来ちゃったら仕方ないですよ。
ちなみにですが、そういう
プロデューサーのお仕事というのは、
編集者と似ているようで、
けっこう違うところもありますよね。
久保
そうですね。プロデューサーとして
映画がヒットすることは
大きなよろこびですけど、
同時に、
応援していただいている
ファミリーの
思い出づくりのお手伝いができたことも、
本当にうれしいです。
──
はい、みんなの思い出になってますよね。
ポケモンって、いまや。
日本だけでなく海外の人たちにとっても。
久保
このあたりの感覚は、
編集者もプロデューサーも変わらないと
思います。
ただ宣伝や広報といった仕事は、
よりプロデューサーっぽい感じはします。
──
なるほど。
久保
たとえば、ANAのポケモンジェットですね。
98年の夏休み映画の
『ミュウツーの逆襲』の公開に合わせて、
就航したんですが、
あのときはもう、本当に、うれしかった。
──
そうですか。プロデューサーとして。
なにしろ、
ポケモンが空を飛ぶんですもんね!
久保
ポケモンジェットが飛ぶのを心待ちにしていて
乗ってくださったお客さんもいれば、
空の彼方から
ポケモンジェットが飛んでくるのを、
ターミナルの屋上で、
ずーっと待っている子どもたちもたくさんいて。
──
ええ、ええ。
久保
ANAのみなさんがおっしゃっていたのは、
「子どもたちが、あんな目をして、
ANAの飛行機を
見上げてくれるのを見たのは、はじめてだ」
って‥‥。
──
そんなの聞いたら、感動しちゃいますね‥‥。
久保
本当に、うれしかったです。
でも、現在は
数万のSNSフォロワーを持っている
編集者もいますので、
それだと十分な宣伝力もありますよね。
その意味で、
編集者とプロデューサーは
より近い存在に
なってきているのかもしれません。
──
ちなみにですけど、話はさかのぼって、
アニメの
『おぼっちゃまくん』のときには、
久保さん、
プロデューサー的なお仕事というのは。
久保
まだ、やってませんでしたね。
放映はテレビ朝日だったんですけど、
裏では、
ドラクエのアニメをやってたんです。
──
あ、『ダイの大冒険』ですか。
久保
そう。かなり厳しい戦いでした。
強敵だったんです、視聴率を争う上で。
──
なにせ、大ヒットしたゲームですし。
「ジャンプ」の漫画ですし。
実際は‥‥どうだったんでしょうか。
久保
勝ったんですよ。うれしいことに。
もちろん「コロコロ」でも応援したりして
いろんな宣伝を試しました。
アニメのプロデューサーっておもしろいな、
と思ったんです、そのときに。
──
うれしそうだなあ(笑)。
久保
編集者もプロデューサーも
どっちも
ふつうの人の感覚が大事だということは
変わらないんですが、
かかっているお金と、
関わっている人数と、
ライバルとの競合関係については、
少し違うかもしれません。
──
お金と人数はわかりますが、
ライバルとの競合関係‥‥というのは。
久保
漫画の場合、別の雑誌に出ている作品と
直接のライバル関係になることは
あまりないと思います。
──
なるほど、同じ時間帯に放映していたら
直接対決って感じですもんね。
久保
なので、アニメのほうが
戦いが熾烈になることもあるんでんすよ。
──
のちに実写映画の制作に関わるのも、
アニメのプロデューサーからの流れで、
広がっていった仕事のひとつですか。
久保
そうですね。
ずっと小学館に貢献してくださっていた
『釣りバカ日誌』のやまさき十三先生が、
映画を撮影されるというので、
ぜひ、お手伝いさせていただきたいなと。
であるならば、
自分がプロデューサーをやるしかないと。
──
おお‥‥そういった思いが。
久保
お金を調整するという仕事だけでなくて、
ロケ地の宮崎の撮影現場にも、
ずっと帯同しました。
あのときに、アニメとは違う、
実写映画のことをいろいろ勉強したんです。
──
久保さんがすごいんだと思うんですけど、
でも、編集の仕事の先に、
「実写映画のプロデューサー」まで
可能性が開けているのは、
なんだか、おもしろいなあと思いました。
久保
でね、あのときはじめて、
宮崎の焼酎が
20度だってことを知ったんですけどね。
──
ええ。宮崎の焼酎。はい。
久保
東京で飲む宮崎焼酎は25度なのに、
宮崎で飲む宮崎焼酎は20度なんですよ。
──
つまり、本場のほうが、ちょっと低い。
久保
だから、気持ちよく飲めちゃうんですよ。
だから、その勢いのまんま
東京で飲むと、
もうね、ベロベロに酔っぱらっちゃうの。
──
そういうことも勉強されて(笑)。
久保
そうなんです(笑)。

(つづきます)

2021-10-28-THU

前へ目次ページへ次へ