29 刀鍛冶 工藤将成さん

>工藤将成さんプロフィール

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工藤将成(くどう・まさしげ)

本名、工藤芳洋(くどうよしひろ)
昭和51(1976)年、群馬県桐生市生
埼玉県入間市出身
入間市立東町小・中学校卒

平成7(1995)年、埼玉県立所沢北高等学校卒
福島県福島市、藤安正博「将平鍛刀場」に入門

平成15(2003)年、「将平鍛刀場」独立

平成16(2004)年、
日本美術刀剣保存協会 新作刀展覧会 初出品
〈太刀 刀の部〉努力賞一席 新人賞

平成17(2005)年、桐生市に「将成鍛刀場」を開設
日本美術刀剣保存協会 新作刀展覧会
〈太刀刀の部〉優秀賞 三席

平成18(2006)年、日本美術刀剣保存協会
新作名刀展 〈小脇差短刀の部〉努力賞 一席

平成21(2009)年、
愛知県名古屋市熱田神宮において、
「刀剣並技術奉納奉賛会」の依頼により、
神前にて小太刀を鍛錬製作し、奉納

平成26(2014)年、
ロシア連邦モスクワ市において太刀を鍛錬、製作し、
当作品を日本美術刀剣保存協会ロシア支部に寄託
後にロシア武道連盟に寄贈

平成28(2016)年、前橋市東照宮において
啓蒙のための公開製作

令和3(2021)年、日本美術刀剣保存協会
現代刀職展 〈太刀刀の部〉優秀賞 三席
〈短刀剣の部〉努力賞 一席
イギリス公共放送
BBC SPORT 2020 TOKYO OLYMPICのための
テレビCM撮影
※日本抜刀道連盟全国大会において、
当作を用いた剣士が二、三段実技の部にて優勝

令和4年(2022)年、BS日テレ
「発見!ニッポンの神業スペシャル!」出演

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第2回 8年間の修行を経て独立。

──
工藤さんは、どうして、
刀鍛冶になりたいと思ったんですか。
工藤
高校2年のとき、登校前に
テレビ番組を何気なく見ていたんです。
そしたら、刀鍛冶が出てきたんです。
その瞬間「あ、これやりたい」って。
──
そんな瞬間的に?
もともと刀に興味があったんですか。
工藤
ないです。ぜんぜん。
──
じゃあなんで、そう思ったんですか。
工藤
わからないんです(笑)。
職人が刀をつくってるシーンを見て、
「あ、これやる」って思ったんです。
──
そんな、運命的な。
じゃあ、そこから、
どうすれば刀鍛冶になれるか調べて。
工藤
そうですね。
(工藤さんの拠点の群馬県桐生市の)
となりの太田市に、
当時人間国宝の刀鍛冶がいたんです。
その方に手紙を書いて、
何度か訪問させていただきましたが、
「これ以上は弟子を取らない」と、
すでに、おっしゃっていたんですね。
なので、最終的には、
その方のきょうだい弟子にあたる
親方のところで、
お世話になることになりました。
──
それはつまり、高校を出てから?
工藤
はい。高校在学中にも、
泊りで何日か体験したりしてました。
──
そんな人、まわりにいませんよね?
工藤
いないです(笑)。
わたし以外のクラス全員、進学希望。
就職希望で出したのは、
わたし以外にいなかったと思います。
──
しかも「就職希望」と言っても、
ふつうの就職とはわけがちがいますよね。
「刀鍛冶の親方に弟子入り」って。
工藤
内弟子つまり、住み込みで
親方と一緒に生活をして修行する環境に、
身を置きたかったんです。
「高校を出たら、お世話になりたいです」
と親方にお伝えしたら
「うちは10年だぞ」って、開口一番に。
──
うわ、修行期間が10年!
じゃあ、20代の半ば過ぎまで修行。
工藤
結局、8年間で独立しましたけど。
──
お許しが出たわけですか。
工藤
はい、ありがたいことに。
──
刀鍛冶の修行というのは、
最初はどういうことをするんですか。
工藤
はじめは雑用ですね。完全に。
兄弟子が2人いたので、
まずは家の仕事、掃除、片づけなど。
最初の最初の仕事は、
木炭を小割にすることなんですけど、
それすらも
ぜんぜんやらせてもらえない。
だから、何をやってたんでしょうね。
まったく覚えてないです。
──
無我夢中でしょうしね。
高校のときにテレビで刀鍛冶を知り、
憧れた刀鍛冶の世界、
現実とのギャップってありましたか。
工藤
修行は厳しいものだと思ってたので、
「夢と現実の落差」というものは、
さほど感じませんでした。
ただ多くの人は厳しいと感じるのか、
途中で辞めちゃうんです。
──
なるほど。
工藤さんは厳しさは覚悟の上だった。
工藤
厳しいだろうけど、その厳しさが
自分のプラスになるだろうな、と。
まず「住み込み」というかたち自体、
当時ですら、めずらしかったんです。
他の鍛冶屋さんたちからも、
あの師匠のところでやり切れたら、
もうどこでもやっていけるぞって。
ただ、厳しいと言っても、
毎日いれば、慣れてもくるんですよ。
──
そうなんですか。
工藤
大変だけど、こんなもんだよねと。
──
当時、師匠は何歳だったんですか。
工藤
30コ上なので、50の手前ですね。
兄弟子ができるようにならないと、
自分に仕事がまわって来ないので、
生意気なんですが、
もっと早く覚えてほしいみたいな、
もどかしい気持ちはありました。
でも、その上の人たちが、
ぽつりぽつりと辞めていったんで、
だんだん仕事が増えていきました。
──
8年目で独立ということですけど、
その日って、
いきなり来たりとかするんですか。
工藤
あるときに
「おまえ、ちょっと1本つくってみろ」
と言われたんです。
卒業試験のようなものだと思ったので、
一生懸命につくって見せたら、
「何だこれは!」って。
──
えっ。
工藤
放り投げられました。
──
ひゃー。
工藤
ずっと追い求めていた
平安・鎌倉時代のトップクラスの刀を
表現しようとして、
余計なことをやっちゃっていたんです。
テクニックをひけらかすような‥‥
いかにも「やってやりました」という、
そういう刀になってしまった。
結果もういちどつくらせていただいて、
まあ、いいだろうってことで。
──
合格。
工藤
それがコンクールへの最初の出品刀で、
努力賞と新人賞をいただいて、
何とかデビューしましたって感じです。
──
刀を一本つくるのには、
どれくらいの時間がかかるものですか。
工藤
最短で「2か月から3か月」ですね。
外注の職人さんたちのスケジュールも
うまく調整できて、
何の問題もなく順調にいけば、ですが。
──
何かあったら、もっとかかる。
工藤
半年から1年、
それ以上かかることもあります。
──
おおお。
工藤
注文をいただいてから納められるまで、
そのくらいはかかりますね。
自分のやり方は、平安・鎌倉時代当時、
どんなふうにつくっていたかを
追い求めながらつくっているんですね。
現代のつくりかたに比べて、
製造工程上、
相当リスキーなことをやってるんです。
だから、
うまくいかないことのほうが多くて、
どうしても時間がかかっちゃうんです。
──
リスキーというのは、どんなふうに。
工藤
できるだけ少ない手数で、
最高の状態に持っていこうとしてます。
ただ、手数が少ないと、
ものとしては不安定になりがちなので、
どうしても瑕疵が出やすいんです。
手数が多ければ多いほど、
欠点は出にくいものなんですね。
できるだけ手数を少なくしつつ、
欠点も出てこないギリギリのところを、
追求しているんです。
──
平安・鎌倉時代の刀劍も
「手数が少なかった」ってことですか。
工藤
そう。少ないんです、圧倒的に。
──
手数が少ないことは、見てわかる?
工藤
見る人が見れば。
──
平安・鎌倉時代の刀を見て、
そんなに手を入れてないなってわかる。
工藤
わかります。
──
文献が残ってたりするんですか。
つくりかたのレシピ、みたいな。
工藤
文献は残っていないんです。まったく。
技術的な記録は何も伝わってないので、
江戸時代の職人も、幕末の職人も、
承継されてきた技術をもとに、
勘と手探りで刀をつくっていたんです。

(つづきます)

2024-05-02-THU

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  • 撮影:武耕平
    イラスト:大桃洋祐

  • この熱、この音、この美しさ。 刀づくりのようすを動画でどうぞ。

    群馬県桐生市のTAKE PHOTO KIRYU にて、 工藤さんはじめ、 5名の桐生の職人の写真展が開催されます。

    本連載のかっこいい写真は、
    工藤さんの地元である群馬県桐生市の写真家・
    武耕平さん撮影によるものなのですが、
    その武さんが、工藤さんはじめ
    桐生在住の職人さんたちの写真展を
    開催なさるそうです。
    90歳を超えてなお槌を振るい続け、
    先日、残念ながら急逝された野鍛冶・
    小黒定一さんの写真も見られるようです。
    会場は武さん主催のTAKE PHOTOギャラリー
    (群馬県桐生市錦町2-8-1)。
    入場料は無料、
    会期は5月2日(木)〜7月21日(日)ですが、
    そのうち「木曜日から日曜日までの営業」
    とのこと。(つまり月・火・水曜はお休み)。
    桐生近郊のみなさん、ぜひ。
    自分も実家が近いので、
    どこかで、かならずうかがおうと思ってます。