こんにちは。ほぼ日の永田泰大です。
オリンピックのたびに、
たくさんの投稿を編集して更新する
「観たぞ、オリンピック」という
コンテンツをつくっていました。
東京オリンピックでそれもひと区切りして、
この北京オリンピックはものすごく久しぶりに
ひとりでのんびり観戦しようと思っていたのですが、
なにもしないのも、なんだかちょっと落ち着かない。
そこで、このオリンピックの期間中、
自由に更新できる場所をつくっておくことにしました。
いつ、なにを、どのくらい書くか、決めてません。
一日に何度も更新するかもしれません。
意外にあんまり書かないかもしれません。
観ながら「 #mitazo 」のハッシュタグで、
あれこれTweetはすると思います。
とりあえず、やっぱりたのしみです、オリンピック。

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15 スピードスケート

メダルをとってほしい選手。

 
なにかを応援するときは、
すべて平等で真っ平らというわけにはいかない。
一方を応援するときは、
もう一方の負けを願っていることになる。
負けろ、とすごく積極的には思わないにしても、
応援する選手には競う相手がいる。
だから「みんながんばれ!」ということでは、
ほんとうの応援にはならない。
あるチームを応援するときや、
ある国を応援するときは、平等ではない。
嫌な言い方をあえてしよう。
たとえば、私たちがなにかの競技に出場した
日本人選手全員を応援しているときも、
じつはそこに順位をつけてしまっている。
めざせ、日本勢表彰台独占!
ワン、ツー、スリーフィニッシュ!
なんて思うときも、
表彰台に乗る順番がこうならいいなと
ぼんやりと意識していたりする。
とくにその競技がわかればわかるほど、
無意識に順位はつく。平等は失われていく。
で、それは当たり前のことであり、
まったく悪いことではない。
なにが言いたいかというと、
応援って、要するに贔屓なのだとぼくは思う。
スポーツという娯楽に、
贔屓という行為は含まれている。
贔屓は応援を生み、応援は興奮とつながっている。
あらゆる贔屓がなかったら、
スポーツを観る意味が大きく揺らぐだろう。
東京大学薬学部教授の池谷裕二さんが、
以前、こんなことをおっしゃっていた。
「『考える』ことと『偏見を持つ』ことは表裏一体。
いや、むしろ、イコールなんです。
あんな意見もあるよね、こんな意見もあるよね、
こんなこともあるよね、というのを全部、
平等に置いていたらどうなります? 
それは『考える』とは言いません。
『世の中にはさまざまありますね、以上』
これはなにも考えていないに等しい。ただの意見の陳列。
なにかの考えに重きを置くということは、
見方を偏らせることなんです。
『私はこれが大切だと思う』というのは、
世間では『考える』と言いますが、
『偏見を持つこと』と言い換えても同じなんです」
『考えをあらためるということ。』より)
偏らなければ思考にならない。
贔屓という偏りがなければ応援にならない。
違う話だけど共通するような気がした。
わざわざややこしい話をしているようですみません。
贔屓のこと、一回ちゃんと書いてみたかったんですよね。
オリンピックの話に戻る。
とても個人的なことだけれど、
オリンピックのたびに
ぼくのなかでは「このオリンピックの主人公」ができる。
根拠に乏しい勝手な選り好みで、
つまり、まさに贔屓である。
もっとわかりやすくいうと、
ああ、この人にメダルをとらせてあげたいなあ、
と強く思えるような人ができる。
この北京2022オリンピックでは、高木美帆選手だった。
それは、応援するときの自分の鼓動の速さでわかった。
どうしてほかの選手じゃなく高木選手なのか、
という理由はこれとはっきり挙げられない。
平野歩夢選手も羽生結弦選手もすごく応援しているけど、
どうしてもひとり選ぶとしたら
このオリンピックでは高木美帆選手で、
それがなぜかはわからない。
でも、贔屓することに理由はいらない。
ご存知のように高木美帆選手は
このオリンピックで5つの種目に出場した。
それはもう、当たり前だけど、理解できない領域だ。
3000メートル、6位。
1500メートル、銀メダル、
500メートル、銀メダル、
パシュート、銀メダル。
高木選手は今日まで3つの銀メダルを獲得していた。
金メダルにはぎりぎり届いていないが、
十分な戦績だともいえる。
だって、銀メダル3つだよ?
にもかかわらず、ぼくはどうしても
高木美帆選手に1位になってほしかった。
それで、レースを、より詳しくいえば、
じぶんでも具体的に祈れる、
「スタート」と「カーブ」が
うまくいきますようにと祈りながら観た。
スピードスケートという競技を観るとき、
とりわけふだんあまり観ていない人が
オリンピック期間中だけ熱心に観戦するとき、
タイムがあまり伸びない選手を、
これはよくない、とはきちんと思えない。
だって、すごい速さですべっているし(当たり前)、
解説者の人も「ここからですよ」なんて前向きに言ってるし、
たとえラップタイムの表示が1位から少し遅れていても、
そのコンマ数秒の赤い時間表示が
どのくらいの重さなのかよくわからず、
後半に強い選手って言われてるから
劇的に巻き返すんじゃないかとか勝手に思っている。
だから、その差が終わらないままレースが終わったりすると、
え、そうなのか、となんだかちょっと驚いてしまう。
しかし、おもしろいもので、
いま、この選手はうまくすべっているぞ、
というのは、にわかファンにもよくわかるのである。
タイムがのびない選手については
願望を含めて観てしまうからうまく把握できないが、
そのときほんとうにうまく速くすべっている選手については
解説者のことばやラップタイムを観ることなく
「速い!」と思える。
具体的にはスタートして最初のカーブを曲がって
出口から直線に向かう11秒から12秒にかけてのところで、
にわかファンでもこれは速いぞ、と思えた。
そして、そう思えれば思えるほど、
残りの難所を迎えるたびに鼓動が速まる。
(たとえば平野歩夢選手の後半2つのトリック!)
最終滑走じゃなかったのは観る者にとってもよかった。
「このままうまくすべれば金メダルだ!」
みたいな局面だったら、
もっともっとどきどきしていただろう。
ああ、こう書いているだけで落ち着かなくなってきた。
最初の銀メダルは呆然としながら獲得し、
思いがけず得た2個目の銀メダルでは素直に大喜びし、
仲間のアクシデントとともに受け取った
3つ目の銀メダルのときは混乱していたように思えた。
最終組で世界記録を持つアメリカのボウ選手がゴールし、
誰もじぶんの1:13.19を超えられないとわかったとき、
リンクのふちから立ち上がった高木美帆選手は
なぜかすこし不安そうに見えた。
爆発しなかった喜びがとてもリアルだった。
たぶん、ヨハンコーチを探してたのではないかと思う。
やがてコーチと長く抱き合ったとき、
よろこびよりも先に涙がどんどんあふれた。
国際放送のカメラはその抱擁を
おいおいちょっと遠慮しろよ
と思えるくらいの至近距離から撮っていて、
にじみ出る涙の粒さえよく見えた。
その後のゆったりとしたウィニングランでは
容器に水が注がれるみたいに笑顔が増えていった。
そして、セレモニーのあとのインタビューで、
彼女はようやく弱音をもらした。
「正直、身体のほうはけっこう限界が来ていて、
疲労感っていうよりは、咳が出ちゃうんですけど、
内臓っていうか身体の中のほうが、
ぎりぎりのところがあった」
そこまで言って高木美帆選手は大きく咳をした。
彼女がこれまでレースの前後で咳をこらえたり
隠れて咳をしていたりしたことを、
たぶん、応援している人たちはみんな知っていたと思う。
それを告白したとたん、安心したみたいに咳が出た。
もう咳を隠さなくてもいいんだな、と思った。
身体のことは心配だし、
連戦の疲れも対策が必要だろうけど、
ぼくはこのインタビューで
高木美帆選手の弱音が聞けたことがうれしかった。
弱音がはける、ということは、
ようやく高木美帆選手の
北京2022オリンピックが終わったということだ。
どれだけ果てしなかったことだろう、
5種目でメダルを争うというのは。
ほかにも、ノルディック団体が銅メダルをとったし
(ガイガー選手を追い上げるなんて!)
坂本花織選手は自己ベストで銅メダルをもらったし
(こちらははじけるような笑顔!)
女子カーリングは負けたのに準決勝進出を決めたし
(記者会見で知らされたときの反応!)
この日は、なんだか、いい日だった。

(つづきます)

2022-02-18-FRI

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