bonobosという、
スゴ腕ぞろいのメンバーのなかで、
ボーカルの蔡さんは、
もともと画家を目指す青年でした。
趣味でやっていたバンドで
デビューが決まり、
プロのバンドマンとなってからも、
しばらく自覚はなかったそうです。
でも、あるときから、
「自分の仕事はこれだ」と決める。
バンドがあったからこそ、
自分は歌ってるんだ‥‥とも言う。
蔡忠浩さんのバンド論、全6回。
担当は「ほぼ日」の奥野です。

>蔡忠浩さんのプロフィール

蔡忠浩(さいちゅんほ)

1975年うまれ、関西出身。bonobosのボーカル&ギターで作詞曲担当でもある。酸いも甘いも、多少包み隠しながら書く、人間味のある歌詞と、言葉にならない気持ちを音に変換させ、音楽を作り、奏でる。ここ数年はバンドやソロ活動の枠を越え、舞台の音楽監督や映像への音楽提供なども行う。

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第3回 バンドだから、続けられた。

──
趣味でやっていたバンド活動が、
どうやって
プロの道へつながっていくんですか。
高校の同級生とやっていたバンドに、
ベースの森本さんや
ドラムの辻くんが入ってきて、
5人とか6人の所帯になったんです。
──
ええ。
同時にライブもやり出したんですが、
当時は、ぼくと
もう一人のギターボーカルのやつが、
曲をつくってたんですね。
で、よく聴いていた音楽も、
他のみんなと
微妙に違っていたりしてたんですが、
半年くらい経ったときかなあ。
──
はい。
バンド辞めてくれないかって(笑)。
──
えええええ、マジですか。
ある夜、練習の予定だったんだけど
迎えに来ないなと思ってたら、
メンバーから、電話がかかってきて。
「いや、辞めてもらおうかと思って」
みたいな話で(笑)。
──
えっと、何でしょう、いわゆる、
世で言う「クビ」っていうやつ‥‥?
そう(笑)。
──
ひゃー‥‥バンドの人って、
そうやって脱けていったりするんだ。
それにしたって急だから、
ちょっとムカッとはきましたけれど、
そのときは、
「‥‥ま、いっか」と思ったんです。
──
え、俺には絵もあるし、と?
そう。ただ絵は描き続けていたけど、
行き詰まっていました。
ダメだ、俺にはぜんぜん才能がねぇ、
みたいな悪循環に陥っていて。
──
ものをつくっていると、
定期的に、やってくるやつですかね。
そうそう、その「谷」にはまったとき、
ギターで曲をつくったり、
アトリエをスタジオの代わりにして、
デモ音源を録音していたんです。
──
バンドは辞めてと言われたけれども、
音楽は、辞めることなく。
ですね。で、そうこうしてるうちに
ベースの森本さんが、
バンドを辞めることになったんです。
──
蔡さんにクビを言い渡したバンドを。
そのバンドは、
あと少しでデビューできるっていう
タイミングだったんですけど。
──
わあ。でも、辞めちゃって。
で、森本さんが言うんですよ。
「あたし、まだバンドやりたいから、
おまえ曲つくって歌え!」と(笑)。
で、気がついたら、俺以外の人が
メンバーを集めはじめて、
いつしかバンドになっていたんです。
──
それが、bonobos?
そうですね。
──
そういうはじまり‥‥だったんですか。
はい。ライブを2~3回やったら、
デモテープをつくろうって話になり、
それを聴いたレコード会社の人が
すぐにやってきて
「デビューしようか」みたいな感じ。
──
えええ、すごい。
クビからのスピード感が、半端ない。
自分のまわりで何が起こっているか、
実際、よくわかってなかったですね。
──
曲もたくさんつくってたんですか。
4曲か5曲くらいしかなかったです。
──
それでも、デビューできたんですか。
はい。
──
その、レコード会社の担当の方には、
bonobosの何が、
心に引っかかったんでしょうね。
わかんないです。
──
じゃ、蔡さんの気持ちとしては、
バンドが好きで
アマチュアでやっていた当時から、
急にプロになったことで‥‥。
いや、気持ちは変わんなかったです。
──
役割も?
はい、ボーカルで。おんなじですね。
他にできることもないし。
いちおうギターはぶら下げてたけど、
ほぼ弾けませんでしたから。
──
それ以上の何かが、あったんですね。
スカウトする側にしてみたら。
当時フィッシュマンズみたいな音が
好きだったんですけど、
レゲエだとか
ロックステディのギターの役割って、
いわゆる「裏打ち」なんです。
──
2拍目と4拍目にリズムをとること、
ですね。裏打ちって。
ンチャンチャンチャ‥‥って感じで。
これならできるかなとは思いました。
まわりのメンバーが上手だったので、
ぼくのつくった曲を、
みんなが
勝手にアレンジしていく感じでした。
──
蔡さん以外のメンバーは、
どなたも曲は書かなかったんですか。
そこは蔡さんの持ち場だってことで。
今は辞めちゃってますが、
ギターのコジロウは書いていました。
──
ああ、佐々木康之さん。
当時のディレクターから
「コジロウくんもどんどん書いてね」
と言われていて、
「じゃあ」って書いたのが
『THANK YOU FOR THE MUSIC』。
──
おお、名曲。
bonobosで世に出てヒットした曲って、
けっこうコジロウが書いてます。
でも、それ以外は、
基本的には、ぼくが書いてきました。
何でだろう‥‥ぼくの書いた曲を、
みんなでアレンジして
つくりあげることがほとんどでした。
──
美術の道を歩んでいた蔡さんの
曲を生み出すという創造性の部分を、
技術の高いメンバーたちが、
素晴らしく、かたちにしていったと。
ずっと、そうやってきてますね。
──
美術作家になりたかった人が、
プロの音楽家集団のフロントマンに。
だから、デビューしてからしばらく、
自信も自覚もなかったんです。
なんとか歌えはしたけど、それだけ。
──
どうして続けられたんですかね。
そうだなあ‥‥ああ、でも、
曲をつくるのは好きだったんですよ。
歌詞を書くことも、性に合ってたし。
──
なるほど、そこが支えたんですかね。
クリエイションへの欲求が。
子どものころ、ぼく、
クラシックピアノを習ってたんです。
真っしろな五線譜に
先生が、1~2小節だけメロディを
書き込むんですよ。
で「来週までに続きを書いてきてね」
という課題を毎週やっていて。
──
最初の作曲体験。
それが‥‥めちゃくちゃ楽しかった。
なーんにもない真っしろなところから、
好きなように
何かをつくりあげることの
楽しさとか自由さを、
ずっと味わわせてもらっていたんです。
──
絵を描くようなことですね、まさに。
蔡さんの「声」も、天賦の才ですよね。
まさしく「歌声」という感じだし。
歌い方だとか、声の出し方については、
変わってきているとは思いますけどね。
デビューのころの音源を聞いたら、
「何かカワイイ声してんな、コイツ!」
とかって思いますもん。
あんな声、いまはもう出ませんし。
──
蔡さんみたいに、
音楽的な素養はもともとあったけど、
絵のほうが好きだったとか、
運命のめぐり合わせとかで、
生涯、音楽やらない人もいますよね。
でしょうね。
──
でも、蔡さんの場合は
バンドというものに
ある意味、巻き込まれていったせいで。
そう、バンドマンになったんですよ。
まわりのおかげなんです。
自分ひとりだけだったら、
音楽をやろうとは思いもしなかった。
──
いまも絵を描いていたかもしれない。
そうですね、ひとりで。アトリエで。
ぼくは、バンドだったからこそ、
音楽を続けてこれたんだと思います。

(つづきます)

2021-02-03-WED

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    写真:田口純也

    協力:酒場FUKUSUKE