ほぼ日の學校で受けられる、
料理研究家の土井善晴さんの授業
「これでええんです、の料理講座」。
実は後日、土井先生が内容について、
さらなる解説をしてくださいました。
そのときのお話がとてもおもしろかったので、
映像時の内容にプラスして再編集したものを
「ほぼ日刊イトイ新聞」の読みものとして
紹介させていただきます。
もともとの授業でのお話が、
さらに新たな角度から見えてくる13回。
読むことで、料理が少し好きになって、
たぶんちょっぴり腕も上がります。
よければぜひ、読んでみてください。

>土井善晴さんプロフィール

土井善晴 プロフィール画像

土井善晴(どい・よしはる)

1957年大阪生まれ。
料理研究家、おいしいもの研究所代表。

十文字学園女子大学 特別招聘教授、
甲子園大学客員教授、
東京大学先端科学研究センター客員研究員。
テレビ朝日「おかずのクッキング」
NHK「きょうの料理」の各講師を
30年以上務める。
雑誌への登場やレシピ本も多数。
その考え方は、著書の
『一汁一菜でよいという提案』(新潮社)、
『おいしいもののまわり』(グラフィック社)、
『くらしのための料理学』(NHK出版)
政治学者の中島岳志さんとの共著
『料理と利他』(ミシマ社)などから
知ることができる。
単行本の最新刊は、娘の土井光さんとの共著
『お味噌知る。』(世界文化社)。

また2022年3月1日より、
平凡社の「別冊太陽」シリーズにて
『土井善晴 一汁一菜の未来』が発売。

Twitter @doiyoshiharu

和食アプリ「土井善晴の和食」

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10 ものを見る目を育てるには。

──
では、ここからは質疑応答で、
ほぼ日のメンバーそれぞれから
質問をさせてください。
土井
わかりました。
松家(ほぼ日)
わたしは物事の良し悪しの判断が苦手で、
周りの人が言った評価とかを、
疑うことなくそのまま
信じてしまうことが多いんですね。
そういった「ものを見る目」というのは、
どうすれば身につくものでしょうか。

土井
周りの人に影響を受けるというのは
自分が未熟だからです。
そういう意味で、まずは
「自分がわかってない」ということを
わからないとダメやね。
自分が何かを
「わかっている」と思っているときって、
まだわかっていない場合が多いんです。
だれでも、自分の見ているものを信じたい、
だって見えているんですからね。
わかったつもりになりたくて、
知ったふりをしていることが多いんですね。
自分が弱いから意見が言えないんじゃないかと
思わないで、まずは
「自分がわかってない、
自分の目は見えていない」
ということを自覚することです。
そこからはじまるんです。
松家
「わかっていない」ことをわかる。
土井
ええ。そうすればそれが
「わかりたい」という
強い気持ちになりますから。
「自分はわかっている」と思うと、
それで済んでしまうけれども、
まだわかってないという思いがあると、
「どういうことだろう」「なんでだろう」
「調べてみよう」「もう一回聞こう」
と次につながっていきますから。
松家
ああ、なるほど。
土井
また、若いときって大抵、
「好き(と)嫌い」 と
「いいもの(と)悪いもの」が
いっしょになって、
こんがらがっているものなんです。
自分が好きなものを、
いいものだと思ってしまうのです。
「いいものと」と「好きなもの」を
区別できないとダメなんです。
それと、ひとりの人のなかには、
いろんな自分がいるわけです。
「仕事の自分」と「生活者の自分」が、
考えていることはまったく別だったりする。
たとえばなにか買うときも、いろんな自分が
いろんなことを思っているわけです。
「仕事で必要だから」「好みだから」
「自分の暮らしが嬉しくなる」
「持ってないからほしい」
「珍しいからほしい」とか。
そういうものが入り混じっている。
そして日本人というのも、
自覚はしていないけれど、
実は何重もの構造を持っているんですね。
土着の縄文からのものだけでなく、
中国的なものの考え方や
西洋から入ってきた近代的な概念までが、
ひとりの人間のなかに在るわけです。
近代の西洋的な自分は
「合理的で理論で、説明しないといけない」
と思っている。
日本人的な自分は、
「曖昧でなんとなくだけど、それも分かる、
だけどうまく説明できない」
という感じです。
自分の中にさまざまな、矛盾があるわけです。
さらに「欲」も混じりますよね。
「世間で評価されているものを
自分も持ちたい」とかって。
「欲」には感性を抑え込むくらいの力まであって、
「こっちが儲かりそうだ」と思ったら
もう、ものは見えなくなって、
自分が望む判断ができなくなる。
それは自分のなかでも「違う自分」やね。
そこはやっぱり区別しないといけないんです。
そのためには、冷静でないといけません。
私たちはとても影響されやすい民族です。
優しいから、いや、弱いから‥‥ですね。

土井
だからいつでも、どの自分が、どういう理由で
ひとつひとつの行動をしているのか。
それを整理して、理解していくこと。
まずは少しずつでも、
それができていくといいよね。
松家
では、その上で、
実際にものを見る目を鍛えていくには、
「いいものをちゃんと見る」とか
「いい話を聞く」とか‥‥?
土井
それはもう、それしかないですよね。
わたしが20代で「吉兆」で働いていたとき、
あるお客さんが
「宗匠の高麗茶碗やったら、
5千万円はくだらへんで」って
お客さんが話してはるのを聞いたんです。
バブルの時代でしたけど。
だけどそのときのわたしには、
5千万円と5万円の器の違いがなにか、
わからなかったんですね。
つまり「自分にはその違いがわからない」
ということがわかったと。
そのときにわたし、
「あ、わかったもんの勝ちや」と思ったんです。
わかったもんが、価値を決めるんですね。
だから、これがわかる立場にならないと
ダメだという。
松家
ああー。
土井
それで、どうすればその目を養えるかを
いろんな人に聞いたら、ある人は
「自分で買わなあかん」と言うわけです。
身銭を切らないと、ほんとうにはわからないと。
また別のある人は
「たくさん見なあかん」と言うわけです。
それでわたしは美術館の年会員になって、
1時間でもあれば行って見る、
ということをずっとしてたんですけど。
見ないとわからない。
触らないとわからない。
体験しないとダメやね。
だけど、そういうことをしながら1年経つと、
「なにか見える」
「前よりすこしわかった気になったんちゃう」
「去年わからなかったことが
わかったかもしれない」
みたいなことが、少しずつ起きてくるんです。
「去年は包丁を研がれへんかったけど、
ことしはちょっとできるようになったな」とか。
そして1年経つ。するとまた
「あぁ、1年前の自分は
何もわかってへんかったな」
と思うわけです。
それは自分の成長が自覚できている
ということなんです。
そのときの自分は、去年と同じじゃない、
同じものを見ていたのに、
「いいなあ」と思うものが増えてきたり、
自分が変わっていることに気がつくはずです。
「自分が変わるということがわかる」
ということです。
これは養老孟司先生の言葉です。
だから、とにかくそれをずーっとやること。
ずーっとやることですね。
そういう意味ではわたしもいままで、
そういうことをずーっとやってきたんです。
いや、いまもやっています。
松家
はぁー。
土井
あとは本を読んだり人と話したりも、
ぜんぶ見る力を育てるのに役立つ。
何もかもが
「自分がどうしたいのか」の役に立つんです。
とにかく数に触れることで、
自分のなかに、無意識のうちに
美の様式みたいなものを蓄積していくこと。
そうやって自分のなかにためこんだ
美の要素がいっぱいあると、
新しいものでも、似たものに出会うと、
「こういうことだ」とわかってしまう。
それで普遍的評価をされている作品や道具は、
美の大家とでも、美を共有できるようになります。
さらに、それでおしまいではなくて、
誰も評価していない美を発見できれば
もっと幸せです。
ドキドキしたり、ワクワクしたり、
「あっ」と思って感動したり、
そういうことができるようになっている自分を
見つけることができるくらいになるんですね。
相手が何かを「これがいい」と言ったときも、
何を根拠に言っているかがわかって、
そこまで含めて判断できるようになる。
先ほどのブリア・サヴァランの
言葉ではないけれども
(「どんなものを食べているか言ってみたまえ。
君がどんな人か言い当ててみせよう」)、
人の持ち物を見て、
何かわかることってあるでしょう?
「この人こういうものが好きなんだ」って、
そこから読めるということが。
そうなるにはやっぱり何年もかけて、とか。
10年単位ぐらいかもしれんけど。
まあいちど学んだあと、そこから自由になるのが、
またなかなか大変ですけどね。
松家
ありがとうございます。
土井
「ものを見る目」の話で言えば、
こんな話もあるんです。
陶芸家の濱田庄司のもとに、
1人の若者が修行に来たんですね。
その若者はある陶芸の里の生まれで、
そこでの生活はもともと、
いちばん大切なものとつながっていたんです。
人間が自然と調和して生きる暮らしぶりがあって、
非常に美しいものが生まれる環境が
すでにできあがっていた。
だけど彼は新しい世界に興味を持って、
美術大学に入り、そのあと、
濱田庄司のところに修行にやってきた。
その彼に、濱田庄司が
こう言ったらしいんです。
「お前はもう見てしまったんだよ」と。
彼は思いますよね。
「見た‥‥何を見た?」
それはなにかというと、
「新しい世界を見た」ということ。
「新しい世界を見た以上、
すべてがわからないと君はダメだ」
ということ。
つまり、彼はそのまま陶芸の里にいたら、
それだけで全部ができあがっていたんです。
なのに彼は、その世界を捨てて美大に行き、
さらにそこも離れて濱田庄司の家へ来た。
と、いうことは、
もともといた陶芸の里でのことも、
美大で学んだことも、
濱田庄司の家でのことも、
いやもっと世界中の工芸やアートのことも
全部解ろうとしないと、
「そのすべてをわからないと
君は一流になれないよ」
そういうことを濱田庄司は、
「君は見たんだよ」言っているのです。
「表現する」って、
自分が何をしているかをわからないと
できないものですから。
だから、彼はもともと、
完成したひとつの世界を持っていたのに、
広い大きな世界に来て、違うことを見てしまった。
そうやって違う世界が部分的にわかると、
それまでの自分の基準というのを
なにもかも失ってしまう。
それまでの無邪気な自分が思っていた
「きれい」とかの感覚は、
一部でしかなくなるんです。
新しくやってきた広い世界で、
一流になって極めていこうと思ったら、
新たになにもかも勉強しないといけない。
それまでの自分の経験すべてを理解した上で、
あたらしいものの見方を
発見、発明しなければいけない。
だから、
「外に出たかぎりは、もうゼロからの
スタートですよ。
何もかも新しくわからないと、君は苦しむよ。
今から新しいものをはじめていきなさい。
そして、いつかすべてがわかったときに、
これからの君がはじまるんだよ。
その覚悟はあるか?」
といったようなことを、
濱田庄司は「お前は見たんだよ」という言葉で
その若者に伝えたわけです。
本質的な話ですけどね。
そういうことって、その通りなんですよ。
濱田庄司自身もイギリスに学んだし。
沖縄でも、中国や朝鮮半島の旅行でも、
あらゆるものを見て、
「人間とはなにか」「自然とはなにか」
といったことをものすごく考えた。
そうやって身体にいっぱい蓄えた経験とともに、
すばらしい仕事に到達していったわけです。

(つづきます)

2022-03-12-SAT

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