性や下ネタのパワーワードが
これでもかと登場する作風の小説家、
木下古栗(きのした・ふるくり)。
過剰な表現の数々に、読みながらつい
「ハハ‥‥」と失笑してしまいます。
その不思議な作品の魅力に惚れ込んだ
ほぼ日編集部の田中が、小説の創作方法について、
ご本人に話を聞きにいきました。
書かれる内容は、徹底的にバカバカしく軽い。
だが文章は妙に美しく、知性を感じる。
独自の表現には何か理由があるのでは‥‥
と思ったら、やはりそこには
はっきりとした意思がありました。
取材には最新刊『サピエンス前戯』の
担当編集者、渡辺さんも同席。
黙々と高みを目指す、孤独な山登りのような
創作の一面をのぞかせてもらいました。

※このコンテンツには性や下ネタの露骨なワードが
登場する箇所があります。苦手な方はご注意ください。

>木下古栗さんプロフィール

木下古栗(きのした・ふるくり)

小説家。1981年生まれ。
顔出しはしていない。

ナンセンスな下ネタやシュールな展開、
独特の言語センスから
エロ・バイオレンス・パロディを多用する
異色の作風が特徴──とWikipedia。
(2021年6月現在)

2006年、某新人文学賞を受賞しデビュー。
最初の単行本
『ポジティヴシンキングの末裔』(早川書房)から、
独自のやりかたで小説技法の探求を続ける。
『グローバライズ』(河出書房新社)は
「アメトーク!」の「読書芸人2016」の回で
光浦靖子さんが絶賛。
そのほかの短編集には『生成不純文学』
『人間界の諸相』(ともに集英社)がある。
最新作は初の長編小説集『サピエンス前戯』
(河出書房新社)。
こちらは表題作のほか
「オナニーサンダーバード藤沢」
「酷書不刊行会」を収録。

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2.  下品なものを書く理由。

──
作品のなかで古栗さんが
下ネタを多用される理由はなんですか?
古栗
それはさっき言ったことと同じで、
書くものにリアリティを与えるような
「重み」を出したくないとか、
そういうことがまずひとつですね。
たとえ虚構であっても、その創作の材料や燃料として、
個人的な問題とか社会的な問題とか、
自分や世の中に深く根付いたものを使うと、
それは真摯なものになって、
ウソなのに一種の「真実性」を帯びてしまう。
そうなると面白くないということもありますけど、
それだけじゃなくて、
それは創作の純粋性を損なってしまう
とも思うんです。
たとえば書き手が実生活において、
親と折り合いが悪くて、その葛藤を題材にして、
ある小説を書いたとします。
その場合、その個人的問題はあくまで
作品よりも前にあったもの、
つまり創作の材料や燃料にすぎないわけです。
この場合、親との葛藤が
薪(まき)や着火剤だとするなら、
小説という文章表現は
メラメラと燃える焚き火です。
ところが受け手は往々にして、
その作品はこれこれの問題を表している、
といった解釈をしたり、
その作品に関連付けて、
たとえば「毒親」の問題を語ったりもする。
薪と着火剤によって現れた
焚き火のありようを見ないで、
あたかも焚き火のほうが、
薪や着火剤のことを表現しているような、
まったく逆の話になってしまうんです。
「この作品のテーマは」「この作品のメッセージは」
といったように、
作品が別のことを表現する手段に
すり替えられてしまう。
作り手側がこの「逆の話」に
乗っかってしまうこともあります。
そうなると
「マンガでわかる微分方程式」
みたいな本と同じで、
「小説で共感できる毒親の問題」
みたいなことになってしまう。
実質的には実用書なわけです。

──
つまり
「できるだけ個人的な思い入れとか、
社会的に重みがある題材に頼ることなく、
純粋に創作したい、純粋に文章を書きたい」
ということですか?
古栗
そうですね。
それで、下ネタになるわけです。
だからあくまで軽いネタであって、
性的な意味でも、重みが出ないように
気をつけています。
もちろん書き手としての、
自分の感覚の範囲内での話ですけど。
──
はぁー。
古栗
ただ軽いものでも、シュールなお笑い
みたいなものってありますよね。
それはあまり好きではないんです。
そういう表現って書き手のセンスを訴える
みたいなところがあって、
詩的な発想というか、感性的ですよね。
受け手もそういう場合、
「これを分かる自分は通(つう)だ」
みたいになりがちです。
その意味でも
「なるべくストレートに下らないほうがいい」
と思っていて、
感性的なものではなく、
きちんと説明可能な手法として使っているつもりです。
──
なるほど。
そういうわけで徹底して下らないほうに。
古栗
もう少し説明を加えると、自分は創作において
「笑い」が非常に大事だと思っているんですね。
「笑い」ってどういうものかというと、
脳科学的には、主に「扁桃体」という部位が
深く関わっているとされているんです。
単純化しすぎるのもよくないんですけど、
おおざっぱに言えば、
扁桃体は脅威や危険を察知するところ。
入ってきた情報を扁桃体が
「快」と評価すると嬉しさや楽しさになって、
「不快」と評価すると不安や恐怖になる。
そして扁桃体が
「脅威だと感知したけど、実は脅威じゃなかった」
というときに笑いが生じるらしいんです。
分かりやすいのがくすぐりで、
チンパンジーとかも
くすぐりで笑うみたいなんですけど、
とくに脅威を感じる場所
──つまり急所ほど
スリリングで、よく笑うらしくて。
たとえば足の裏をくすぐられて、
毒蜘蛛に這われるような危険を感知する。
そのとき「くすぐり」とわかっていても、
脳の自動的な仕組みとして、
それを脅威だと感じてしまう。
でも相手が親しい人なら
遊びだとわかっているわけで、
その矛盾みたいなものが生じたときに
笑いが起こる。
「ヤバっ!」
と脅威を感知すると同時に
「いやお前、ヤバくないやろ、ワッハッハッ!」
って、脳が自分で
自分の勘違いを笑い飛ばすみたいな。
詳しくは茂木健一郎さんとか、専門の脳科学者の方に
解説をお願いしたほうがいいんですけど、
ざっくり言えば
「笑い」ってそういう仕組みらしいんです。
──
ええ、ええ。
古栗
それで下ネタってある意味不快だし、
性的なものって危険でもあるじゃないですか。
でも、それがフィクションだとわかっていれば
安全というか、実際の危険ではない。
だから、それが笑いを誘う。
そしてその「実際の危険ではない」というのを
別の言い方にすると、
「下らない」とか「バカバカしい」とかの、
軽さを表す言葉になる。
──
その説明はまさに古栗さんの小説、
という感じがありますね。
ちょっと危険を感じるほど過激だけれども、
ウソだとわかるから下らなくて、つい笑ってしまう。

古栗
あとは映画なんかでも、コメディとかって
ちょっと軽く見られるじゃないですか。
でもそういう軽くて笑える映画の登場人物って、
ある意味では、
いかにも重いシリアスな映画の登場人物よりも、
はるかにハードな体験をしていると思うんですね。
たとえば誕生日ケーキに爆弾が仕込まれていて、
それが爆発してパーティーが台無しになる
——そんなコメディの一場面があったとして、
実際にそんな出来事があったら
笑い事じゃ済みませんよね。
でも、観客はそれを笑う。
シリアスな映画でテロリストの爆弾が爆発したら、
それは笑わないのに。
悲惨な目に遭ったのに、片方は笑われて、
片方は真面目に受け取ってもらえる。
どっちの世界、どっちの登場人物のほうが
よりハードかと言ったら、
笑われてしまうほうだと思うんです。
それに似て、リアリティのなさを追求したり、
困難な書き方に挑戦したり
——そういう自分の創作のやり方って、
まあ正直、かなり大変なわけです。
でもその結果の作品が笑われたり、
軽く見られたりすれば、
そのハードなところは共有されない。
作品をそういう存在にしたいというか、
そういうのはありますね。
──
自分の作品をそういうふうにしたいのは、
なぜですか?
古栗
そっちのほうがすごいから、じゃないですか。
エベレストとかを登る人からすると、
「すごいね」って言われるより、
「あんなとこ登っても意味ないじゃん」って
言われるほうが厳しいじゃないですか。
誰も分かってくれないのにやるほうが、
すごいと思います。
一般的に共有されている価値に
頼っていませんから。
エベレストに登って、みんなが
「わあ、すごいね」って言ってくれるのと
言ってくれないのとでは、
言ってくれないほうが自分の力だけの、
孤独な挑戦ですよね。
だからさっき言った
「重み」とか「真実性」とかは、
高所登山で言えば
シェルパとか命綱みたいなものというか。
そういうものに頼らないで登頂したほうが
すごいですから。
──
そのほうが純粋性が高まる、みたいな。
古栗
そうですね。
──
小説で暴力的な表現を多用されるのも、
下ネタと同じ理由ですか?
古栗
だいたい同じ感じですね。
だから暴力的な表現についても、
なるべくありえないように、笑えるようにしたい。
「脅威だけど、本当の脅威ではない」
というやり方ですね、それも。
──
なるほど。
古栗
コメディ映画だって真剣に作られているように、
自分も執筆中は基本的に真剣ですけど、
校正のゲラで読み返すと自分でも
「こいつバカだな」って
登場人物のことを笑ったりしちゃうわけです。
自分も無責任な観客になっていて、
それが大事というか。
自分と作品がつながっているのは、
創作手法とか文章の書き方とか、
そういう「表現に特化した部分」。
それが通用口で、
日常的な道徳観とか社会的な価値観とか、
自分も当然持っている
「真実性」や「重み」からは、
切り離されたものにしたいんです。

──
過激な言葉を多用されることについてですけど、
いまはいろんな表現に対して、
かなり厳しく「この言葉はダメ」とか
言われるようになっていますよね。
古栗さんの作品って、そのあたりを
すごく超えていってる感じがするんですけど。
古栗
そこは正直、難しさを感じることもあります。
性とか暴力の話題って、
もろに引っかかるところですから。
たとえば「ファック」という言葉が
「サピエンス前戯」では多用されていますけど、
実生活ではそういう歌詞の洋楽を
ノリノリで口ずさむ時くらいしか、
使ったことはないわけです。
だから書き手としての自分と、
生活者としての自分がいて、
その使い分けがきっちりできていないと
ダメですね。
書き手としてはさっき説明したみたいに、
「脅威だけど、本当の脅威ではない」
という手法として使っているので、
その意味では書きにくさはない。
だけどやっぱり精神状態とかによって、
書き手になりきれない気分のときもある。
そういうときは生活者の感覚になってしまって、
自分でも引っかかりを覚えたりもする。
あとは小説を書き終えて編集者に送るとき、
それは直接に対人のものになる。
だから編集者のほうも
分別を持ってくれている人じゃないと、
「こんなもの送ったら異常者と思われるかも」
と気になってしまう(笑)。
だから分別のなさそうな相手の場合は
そもそも、執筆する時点からやりにくくなりますよね。
向こうも生活者とは別の、
専門的な意識を持っていてくれないと困るわけです。
もちろん一般には、
そういった話題を書くこと自体を
不謹慎だと考える人もいますけど、
それは割りきるしかないですね。
──
いわゆる「ポリコレ」とかはどう思いますか?
古栗
創作の範囲に限って言えば、
個人的にはあまり好ましくないと思います。
さっき語ったように、
創作が他のことを表現する手段として
扱われる傾向が強くなるからです。
とくに道徳的な価値観の
アピールや共有の手段ですね。
これは作り手にとっても、受け手にとってもそうです。
一部の進化心理学者は、そういうのを
「美徳シグナリング」と呼んでいるそうです。
ざっくり言えば、
「自分はこんなに道徳的な人間ですよ」
という社会的な広告ですね。
それが人類の進化において、
生き残ったり子孫を残したりするのに
有利だったと。
評判が高まってモテたり、同じ価値観の持ち主で
群れることができますから。
でもその広告的な性質が過激に傾いてしまうと、
うわべだけの「SDGs」とか「サステナブル」みたいな
ただのファッションや時勢迎合に近くなって、
空っぽで偽善的なものになってしまう。
また本質的なところを見る目を
養えなくなってしまう。
ちなみに自分の場合、
共感性とかテーマ性みたいな
「真実性」や「重み」も、創作にとって、
本質的ではない広告的な要素でもある
と考えているわけです。
ただ一方で、創作なら「何でもあり」だとも思わない。
とくに単に過激なだけのエロ・グロとか、
容姿に対する攻撃的な表現とかにありがちな、
「こんなにヤバいぜ」みたいなものは、
自分が年を取ってきたせいもあるかもしれませんけど、
うーんと感じることもあります。
正直、自分も10代の頃とかは、
怖いもの見たさの好奇心とか、
一種のカッコつけみたいな感覚で、
そういう作品を掘っていったこともありました。
そういうのはさっきの「美徳シグナリング」とは逆の、
「悪徳シグナリング」とでも言うべきものだと
思うんですね。
暴走族の爆音とか、若い頃にした悪さとか、
いわゆる「武勇伝」的なもの。
あるいはタブーを犯すようなサブカル趣味的なもの。
この「美徳」と「悪徳」の二つは一見、
正反対に見えますけど、
コインの裏表というか、同類だと思います。
だからここでも、
きちんと「創作の手法」として考えているかどうか、
そして「下らなさ」が重要になってくると思います。
下らないっていうのは別の言い方をすれば、
「無用」だということです。
一方で、道徳的な広告にしろ、反道徳的な広告にしろ、
これらはある意味で「実用」的なものです。
名声を得てモテたり、群れたりするための
アピールですから。
そしてその「無用」がなぜ「無用」なのかというと、
ここまで話してきたように、
それが「創作」だから。
つまり、創作とは無用性を追求するもの
——これが自分の基本的な態度ですね。

(つづきます)

2021-06-24-THU

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  • <書籍紹介>

     

    サピエンス前戯
    木下古栗・著
    [Amazon.co.jpのページへ]

     

    3作品を収録した、長編小説集。

    表題作「サピエンス前戯」は、
    全自動前戯器「ペロリーノ」を販売する
    サイバーペッティング社の代表・関ヶ原修治が
    たまたま出会った脳科学者とともに
    人類と前戯について考えをめぐらせる話。

    2つめの「オナニーサンダーバード藤沢」は
    ある作家の文体を模したような
    一人称単数で語られる、自慰をめぐる冒険。

    3つめの「酷書不刊行会」は、
    多くの人に文学に親しんでもらうため、
    世界の名作文学のタイトルを
    ポルノ風に転換したリストを作る話。

    失笑しながら奇妙な物語を読みすすめる、
    不思議な読書体験をすることができます。