家で過ごすことが増えたいま、
充電のために時間をつかいたいと
思っていらっしゃる方が
増えているのではないかと思います。
そんなときのオススメはもちろん、
ほぼ日の学校 オンライン・クラスですが、
それ以外にも読書や映画鑑賞の
幅を広げてみたいとお考えの方は
少なくないと思います。
本の虫である学校長が読んでいる本は
「ほぼ日の学校長だより」で
いつもご覧いただいている通りですが、
学校長の他にも、学校チームには
本好き・映画好きが集まっています。
オンライン・クラスの補助線になるような本、
まだ講座にはなっていないけれど、
一度は読みたい、読み返したい古典名作、
お子様といっしょに楽しみたい映画や絵本、
気分転換に読みたいエンターテインメントなど
さまざまな作品をご紹介していきたいと思っています。
「なんかおもしろいものないかなー」と思ったときの
参考にしていただけたら幸いです。
学校チームのメンバーが
それぞれオススメの作品を
不定期に更新していきます。
どうぞよろしくおつきあいください。
no.6
『持統天皇』瀧浪貞子
万葉集の生みの親は、
「一徹な情念に満ちた」妻であり、
母だった?
春過ぎて 夏来たるらし 白栲の
衣干したり 天の香具山
女帝・持統天皇といえば、万葉集のこの歌ですよね。
当時は、夏になると
白い衣を干す習わしがあったのでしょう。
でもそこは、
大和三山(畝傍山・耳成山・香久山)の新緑に、
白き衣が鮮やかに映るのよと女帝が歌うわけですから、
爽やかなだけでなく、
どこか貫禄を感じさせる歌だなと思うわけです。
『持統天皇 壬申の乱の「真の勝者」』
瀧浪貞子 (中公新書 990円)
今回、この本を紹介しようと思ったのは、
なにより、持統天皇という女帝の生涯が
波乱万丈にもほどがある! から。
大河ドラマにしようよ、個人的には宮﨑あおいで!
と思うくらい凄い人生ですよ。
まずお父さんが中大兄皇子、のちの天智天皇です。
鵜野讃良(うののさらら)のちの持統天皇の
生年が大化の改新=いまは乙巳(おっし)の変と
いいますが、西暦645年。
しかも5年後、中大兄皇子の後ろ盾であった
おじいさんが謎の自害、
お母さんもショックで亡くなってしまうのです。
さららちゃん、生まれてわずか5年でこれです。
13歳で天智天皇の弟、
大海人皇子(おおあまのみこ)のちの天武天皇、
つまり自分の叔父さんと結婚!
17歳のときに、朝鮮半島・白村江で
百済もろとも倭が大敗北。
大和の人々は唐が攻めてくるかもしれないと
恐怖に怯えていたことでしょう。
さらら27歳のとき、
お父さんの天智天皇が亡くなります。
そして夫・大海人皇子と天智の息子、
さららちゃんの3つ下の腹違いの弟・大友皇子との
古代最大の内戦、壬申の乱が起こります。このあたり、
この本では第4章・タイトルは「夫婦の絆」です。
著者は、この乱を「夫婦で起こした」と考えており、
吉野への出家・隠棲から、
武装蜂起、内戦勝利にいたる過程を緻密に考証しながら、
迫真の叙述で描きます。壬申の乱の勝利により、
大海人皇子が即位、天武天皇となります。
さららも皇后となり、実質的に夫を補佐し、
天智天皇の大化の改新路線を
カタチにしていくわけです。
しかし、42歳のとき、
最愛の夫・天武天皇を亡くします。
失意の彼女の心の支えは唯一つ、
息子の草壁皇子を即位させること。
それまでがんばることでした。
万葉集講座・第6回で俵万智さんがとりあげた
「大津皇子の悲劇」はこのときに起こったわけですが。
この真相にも著者は容赦なく切り込んでいます。
ところが、草壁皇子が28歳で急逝します。
さらら45歳のときでした。
相次ぐ不幸の中での彼女の最後の希望は、
草壁皇子の遺児、孫の珂瑠皇子(かるのみこ)
当時7歳を即位させることでした。
その覚悟のもと翌年、さららは即位。
遂に持統天皇の誕生です。
彼女は53歳で孫の珂瑠皇子に譲位(文武天皇)した後も、
702年58歳で亡くなる直前まで、
太上天皇として若い天皇を護るように並び立った。
すごい人生ですね。
持統天皇時代、著者が
力を込めて書いていることがふたつあります。
ふたつの「情念」といっていいでしょう。
まずは、9年間で31回に及ぶ
持統天皇の吉野行幸です。
ちなみに僕は関西人ですが、
まだ吉野に行ったことがありません。
そして吉野行幸をピタッとやめてはじめたこと、
それが万葉集の編纂です。
万葉集は、大伴家持によって完成するまで
多くの時間を有したわけですが、
持統が始めた編纂事業は、嫁の元明天皇から
その子、つまり持統の孫の元正天皇という
3人の女帝によって、「母体万葉」がつくられるのです。
面白いな〜。
しかも、しかもですよ、
「古事記」、「日本書紀」の言い出しっぺは
誰かというと、持統の夫、天武なんですよね〜。
面白いですね〜、すごい夫婦ですね〜。
最後の最後に、彼女は遣唐使を復活させるのですが、
その相手は中国史上唯一の女帝・則天武后でした。
そのときに日本国という名前をはじめて使います
(読みはヤマトだったようですが)。
律令国家となった証、倭国からの卒業です。
使節団の一員に山上憶良がいて、歌を詠んでいます。
もちろん万葉集に所収されています。
いざ子ども 早く日本へ 大伴の御津の浜松 待ち恋ぬらむ
(さあみんな、早く日の本の国、日本へ帰ろう。
大伴の御津の浜辺の松も、
われらの帰りを待ち焦がれていることであろう)
いま世界各地で国境が閉鎖され、
大切な人を待ち焦がれている人が
たくさんいることでしょう。
そんなことにも思いを馳せながら、
読んだ1冊でした。
(つづく)
2020-04-24-FRI