2018年1月に「ほぼ日の学校」は誕生しました。
そして、2021年の春に
「ほぼ日の學校」と改称し、
アプリになって生まれ変わります。

學校長の河野通和が、
日々の出来事や、
さまざまな人や本との出会いなど、
過ぎゆくいまを綴っていきます。

ほぼ毎週木曜日の午前8時に
メールマガジンでもお届けします。


↑登録受付は終了しました↑

2021年2月11日にこのページはリニューアルされました。
今までの「學校長だより」は以下のボタンからどうぞ。

>河野通和のプロフィール

河野通和 プロフィール画像

河野通和(こうのみちかず)

1953年、岡山市生まれ。編集者。
東京大学文学部ロシア語ロシア文学科卒業。
1978年〜2008年、中央公論社および中央公論新社にて
雑誌『婦人公論』『中央公論』編集長など歴任。
2009年、日本ビジネスプレス特別編集顧問に就任。
2010年〜2017年、
新潮社にて『考える人』編集長を務める。
2017年4月に株式会社ほぼ日入社。

[ 河野が登場するコンテンツ ]
読みもの
新しい「ほぼ日」のアートとサイエンスとライフ。
19歳の本棚。

動画
ほぼ日19周年記念企画特別講義「19歳になったら。」
ほぼ日の読書会

前へ目次ページへ次へ

NO.153

“育将”を育てる

サッカーを愛する人はもちろん、サッカーに興味のない人にも、ぜひ読んでいただきたい1冊です。とりわけ物語の後半で主人公を襲う不当な仕打ちの真相を、粘り強く、丹念に解き明かしていくプロセスは、著者ならでは熱い調査報道の白眉です。ズシンと胸に響きます。

タイトルは「徳不孤 必有隣」という、『論語』にある言葉。徳を積んでいる者は、決して孤立したままで終わることはない、必ず理解してくれる隣人たちが集まってくる、という意味で、理不尽な「解任劇」に巻き込まれ、追われてゆく主人公に、ある企業家が敬意をこめて贈った言葉です。

著者はその献辞をもって、作品の掉尾(ちょうび)を飾ります。

<今西和男。生涯に章飾なし。されど孤独にあらず。徳は孤ならず必ず隣有り。>

今西さんは、知る人ぞ知る、日本サッカー界の偉大な功労者のひとりです。

 

私は、その現役選手当時の雄姿を、かすかながらに覚えています。日本にプロのサッカーチームが誕生し、日本代表がW杯に出場するなど、夢のまた夢にしか思えなかった1960年代後半。日本サッカーリーグ(JSL)の実業団チーム、東洋工業のフルバックとして、常勝チームの黄金時代を築きます。

思い出すのは、ヤンマーディーゼルとの一戦で、不世出のストライカー釜本邦茂のストッパー役を務めた試合です。文字通り身体を張ったハードタックルで立ち向かっていく姿が目に浮かびます。どちらかといえば、いぶし銀的な存在で、華やかなプレーヤーではありません。

現役引退後、マツダ(東洋工業が社名変更)サッカー部の総監督として、いち早く外国人監督ハンス・オフト(後に「ドーハの悲劇」の際の日本代表監督)をオランダから招聘するなど、凋落の危機にあった名門チームの再建・復活に奮闘します。そしてJリーグ創設時、地元・広島にチームを立ち上げるために力を尽くし、サンフレッチェ広島の発足・発展の礎(いしずえ)を築きます。

 

今西さんを語る上で欠くことができないのは、多くの個性的な選手、名指導者を生んだ比類ない“教育者”であるという側面です。

彼ほど、人材の発掘と育成に長(た)けた人物は見当たりません。現日本代表監督の森保一(もりやすはじめ)、松田浩(元アビスパ福岡、ヴィッセル神戸、栃木SC監督)、小野剛(元サンフレッチェ広島、ロアッソ熊本、FC今治監督)、風間八宏(やひろ/元川崎フロンターレ、名古屋グランパス監督)、高木琢也(V・ファーレン長崎監督)、森山佳郎(U-15日本代表監督)ら、選手としてだけでなく、その後に指導者として目覚ましい成果を挙げている人材を次々に輩出します。

さらに、選手や監督にとどまらず、今西さんがかかわったチームでは、マネージャーから広報、運営など裏方のスタッフに至るまで、その薫陶を受けた人たちが各所にいます。また、長いサッカー人生を通じて、「地域の人々、サポーターに愛され、誇りに感じてもらえるチームづくり」を願い続けた結果として、地元の人たちからも親しまれ、慕われる存在になっています。

なぜサンフレッチェ広島に、高校生の良い選手が集まってくるのか? といえば、「プロとして伸びずに広島を退団した選手を今西が誰一人として路頭に迷わせなかったから」だといいます。

全国をまわり、頭を下げて就職の世話をし、選手の「その後」にまで心を砕きます。それを知った各地の高校の教員、指導者が、「教え子は今西さんのところへ預けたい」と考えたのも、しごく自然な流れだったというのです。

選手のセカンドキャリアを気にかける面倒見の良さだけではありません。その前提として今西さんは、「サッカー選手である前に良き社会人であれ」と口を酸っぱくして言い続けます。すべての選手に「必ず一日に一度‥‥自分に目を向けるんや。そのためには、生活のこと、サッカーのこと、今日は何ができてできんかったんか、どこを改善してどこを伸ばせばええんかを日誌に毎日つけるんじゃ」と命じます。みずから赤ペン指導までしたそうです。

 

1941年広島生まれ。4歳の時に被爆します。

<気が付けば血まみれで、足が酷(ひど)く焼けただれていた。このときの大火傷(おおやけど)によって、今西の左足の指は突っ張ったままで自在に動かせず、足首も90度以上は曲がらなくなってしまった。左腕、左足全体にケロイドが残り、以来、大きなコンプレックスとなった。>

「運動能力はあったし、勉強の方もそこそこできた」にもかかわらず、何事にも消極的な少年時代だったのは、ケロイドのコンプレックスに苛(さいな)まれたせいでした。それが開放的になれたのは、サッカーに出会ったおかげです。

サッカーに救われた恩返しをしたいとの思いもあって、引退から15年後にマツダの監督に就任します。そこからどのようにして指導者の道を歩み始めるのか。そしてサンフレッチェ広島発足時に、取締役強化部長兼総監督として、いかなる足跡を残したか。前半で詳しく語られます。

森保一さん(現サッカー日本代表監督)が、巻末の座談会で述べています。

<自分は今西さんに教育していただいたおかげで、選手として代表のキャリアを積めましたし、こうして指導者としても、素晴らしい環境の中で仕事をさせてもらっています。僕や横内さん(昭展/現サッカー日本代表ヘッドコーチ。引用者註)が教えてもらったのは、謙虚に学ぶこと。毎日をしっかりと生きること。そして可能性のある選手たちを信じて伸ばしていってチームとして組織的に戦うこと。>

さらに、「日本のサッカーが世界に出て行く過程の中で、その世界をひとつのチームの中で体感させていただいた」と語り、世界のサッカーを見る目を持たせてもらったこと、英語の習得を含めてグローバルに考えられる素地を作ってもらったことなどに、感謝の言葉を述べています。

1通の年賀状が森保さんの運命を変えました。「ぜひともプレーを見ていただきたい選手がいます」――。森保さんが高校2年の正月、サッカー部の監督が、大会で知り合ったばかりの今西さんに、その一文をしたためます。今西さんは春に、コーチのハンス・オフトさんを帯同して、広島から長崎まで出向きます。

 

<「あれが森保か」。練習を見る限り、オフトは全く興味を示さなかった。今西もまた「特別に上手くないし強くない、ストロングポイントのない選手」という印象を持った。ただ、ひとつだけ刮目(かつもく)したスキルがあった。
「姿勢がええのう。首を振ってよう見とる。目立たんがよう、視野が広いんじゃな。遠くが見られるけえ一列先にパスが出せる」。>

それから今西さんは、ひとりで長崎に通い、森保選手を見続けます。こうして全国的にはまったく無名だった森保さんのサッカー人生が開かれます。採用予定枠が1名減ったので、最初は関連会社への入社になりますが、この妙案ともいえる差配のおかげで、長崎の「被爆2世」はマツダサッカー部に晴れて入団するのです。

「他の選手に比べて、お前には速さも高さもない。ただ、試合の中で走ることはできるじゃろ。それを続けていくんじゃ」(今西)

細身であり、社会人の当たりの強さ、速さに慣れるまでには苦労もありますが、やがて視野の広さと、ハードワークを惜しまぬ運動量と献身的な姿勢が評価され、不動のレギュラーの座を獲得します。

森保さんの選手デビューを見る前に、監督を退任することになったオフトさんは、離日の際に「このチームには将来プロの指導者になれるやつが3人いる」と今西さんに漏らします。そこに、まだ1試合も出場していない森保さんが含まれていたことに驚きます。

長崎まで足を運んだ今西さんの情熱と慧眼(けいがん)、そして入社時のウルトラCがなかったならば、「オフトジャパンの心臓」の誕生も、サンフレッチェの黄金期も、そして日本代表監督も生まれなかったことは確かです。

「今の自分があるのは今西さんのおかげ」と森保さんが言って憚(はばか)らないのも当然です。

<名将、猛将、闘将、知将‥‥。集団を率いるリーダーを表す言葉は多彩であるが、やはり今西の場合は“育将”がぴったりくる。>

<“育将”というのはむろん、造語である。育(はぐく)む=成長を助ける、発展させる、育てる。今西を描くために呼称するにはこの育む将という言葉が当てはまると考える。>

「広島出身」の監督がなぜ次々に現れて、サッカー界を牽引していくのだろう? 実は、前々から不思議に思っていたナゾでした。この本を読んで合点がいった気がします。

「今西さんは本当に選手や後輩のために献身的に尽力されてきた。私はいろいろな人材担当の方と仕事をしてきましたが、彼の場合は無私の精神の度合いが違うんです。自分が生きていくのは社会に貢献するためだという考えは何より言葉ではなく、行動が示している。生きる目的が凄くしっかりしている。命は永遠のものではないからこそ、有効に費やしたい。それは、被爆体験をされているからですよ。常に死と生を考えて向き合ってきた原体験が大きいと思うのです」(人材育成会社ヒューマックス木村孝代表)

 

それだけに、後半に描かれるFC岐阜での不幸な出来事は、なんともやりきれない思いが募ります。多額の負債を抱え、今後の経営の見通しも立っていないクラブの代表取締役になることは、常識ではあり得ない選択でした。

サンフレッチェ広島での功績、その後の大分トリニータ、愛媛FCの立ち上げでも発揮した手腕に、Jリーグ幹部の期待と信頼もありました。岐阜県知事からも「余人をもって代えがたい」旨のオファーがありました。とはいえ、何の伝手(つて)もない、縁もゆかりもない岐阜というアウェーの地でのチャレンジです。

「義を見てせざるは勇なきなり」と思ったのか? その内面のドラマは想像の域を出ませんが、FC岐阜の内実を知悉(ちしつ)していた“金庫番”は、今西さんを評してこう述べます。

「兄貴肌と言うんでしょうね。困った人を見ていると放っておけないんですね。面倒見が良過ぎるんです。私に言わせれば、あの財務状況の段階で社長になるというのが、とんでもなくお人好しなんですよ。就任時の状態は普通の会社ならとっくに倒産していました」

今西さんは社長になるにあたって、実現させたいテーマがあると語ります。それは、「サッカークラブが地域に必要とされるような存在として認められるようにすること。すなわち試合に勝つだけではなく、地域貢献を恒常的にしていくことで地元の人の支えになるような理想のクラブを作ること」だ、と。

その目標に向かって、地道に足を運び、言葉を尽くし、礼を尽くしてことを進めます。FC岐阜を見放していた人たちも、今西さんと腹心のGM(ゼネラルマネージャー)服部順一さんの真摯な努力と振る舞いに次第に協力の姿勢を見せていきます。

岐阜財界の支援にもようやくメドが立ち、それがほどなく実を結ぶかと思いきや、その裏で、彼らのまったく預かり知らない陰謀が、Jリーグのクラブライセンス事務局と、それと結託した岐阜県庁の間でひそかに画策されていたのです。

その事実を調べ上げ、不当な“今西下ろし”に加担した当事者たちに、証拠を突きつけながら迫る後半は、本当に唖然とし、怒りがこみ上げるばかりです。まるで石もて追われるように理不尽な人事介入を受け、前任者がつくったチームの負債1億5千万円の保証人を押しつけられたまま、最後は上記のライセンス事務局職員からAD証(パス)まで剥奪される非情な仕打ちを受け、「日本サッカーのために、岐阜のために無私の気持ちで働き続けようとした」今西さんは、71歳にしてぼろぼろにされて放逐されます。

 

にもかかわらず、いまだに「今西本人は一切岐阜でのできごとについてはノーコメントを貫き、何も語っていない」そうで、解任されたその後も、スタジアムの一般席の最前列から、岐阜の選手たちに激励の声を送ったといいます。頑張れ! 落ち着いていけ! 練習どおりのプレーで見せてやれ!

「中に入れてもらえないのに大声で必死に叫んでいる姿を後ろで見ていたら、さすがに涙が溢(あふ)れ出てきました」

娘が語る、その後の父の姿です。

それだけに巻末につけられた今西門徒の森保一、横内昭展という現日本代表監督・ヘッドコーチをまじえた“育将”今西さんの語らいは、本当に胸に響きます。彼の誠実さ、信念の強さを伝えます。

今西和男氏近影 撮影/ニッショウプロ(納屋俊希)

そして、著者がこの本を執筆することになったきっかけが、電通スポーツ局サッカー事業室の部長による“直訴”だったことにも驚きました。きょうは名刺の肩書ではなく、ひとりの岐阜県出身者として来た、と言って現れます。

「FC岐阜の社長として孤軍奮闘していた今西和男さんの仕事ぶりを、私は近くで見ていて本当に感動したものです。しかし、理不尽なことに2年前にクラブを追われてしまいました。このままでは、単にクラブ経営に失敗した人になってしまいます。今西さんが岐阜のために全身全霊で尽くしたことについて、岐阜県人が何も知らないままでいいのか。サッカーを仕事としてきた自分として、それだけは許せないのです。ぜひ今西さんの本を書いて頂きたい」

こういう経緯を知ると、世の中「まだ捨てたものじゃない」と思います。同時に、いまを騒がすスポーツ界の現状を見るにつけ、<“育将”を育てる>ことの重要性を、改めて思わないわけにはいきません。

2021年2月25日
ほぼ日の學校長


*都合により来週は休みます。次回の配信は3月11日の予定です。
*ほぼ日の學校神田スタジオでの公開授業収録参加者を募集しています。募集授業一覧はこちらからご確認ください。(※感染防止対策を徹底した上で収録いたします。また今後の状況次第では急遽開催中止となることもございますので、ご理解の上ご応募ください。)

(また次回!)

2021-02-25-THU

前へ目次ページへ次へ