「今年の藝祭に来てくださいませんか?」
東京藝術大学の学生のみなさんから
そんなご連絡をいただき、糸井重里が
「藝祭2022」のトークショーに登場しました。
控室でのおしゃべり+1時間強のトークという
短い時間でしたが、フレッシュなみなさんからの
さまざまな質問に、糸井が真剣に答えました。
これからのAI時代に、人間はどう生きたらいいのか。
「作りたい」と「売れる・売れない」の兼ね合いは。
ゲーム『MOTHER』と「母性」の関係について。
新しい手帳のアイデアを考えてみました‥‥など。
前半は、東京藝術大学の日比野克彦学長と
3名の学生というみんなでのトーク、
後半は4名の学生による糸井への質問の時間。
大学の授業のあと、学生と先生がほんとうに
話したいことを素直に話すときのような、
あたたかなやりとりになりました。

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(2) 「完全に純粋な芸術表現」みたいな ものって、ないんじゃないか。

【トークショーの会場にて。】

──
「藝祭2022」のトークショー、
ゲストは糸井重里さんです。
前半では日比野克彦東京藝術大学学長と、
3人の藝大生とともにお話しいただきます。
学生は、指揮科学部の大森大輝さん、
先端芸術表現科の菅井啓汰さん、
絵画科油画専攻の金子萌さんです。
みなさん、よろしくお願いいたします。
全員
よろしくお願いします。
──
さっそくですが学生のみなさん、
糸井さんや日比野学長と話してみたいこと、
いかがでしょうか。

大森さん
指揮科の大森です。
ぼくはすこし前、糸井さんが
『もののけ姫』のために書かれた
「生きろ。」というキャッチコピーが、
おそらく意図されていないかたちで胸に刺さって、
すごく辛かったことがあるんです。
コロナ禍で、プライベートがすごく
大変だったときに、
「こんな状況でも生きなければならないのか」
という感覚になったんですね。
そんなふうに芸術って、
ときに鋭いメッセージや鋭い見方が、
作り手の想定を超えて、
大きな影響を及ぼすことがあると思うんです。
糸井さんはご自分の作品による
効果や影響について、
どんなふうに考えていらっしゃいますか?
糸井
実を言うとぼくは、自分が作るものの
「効果」の部分については、
あまり考えないようにしていると思います。
もちろん、ある程度の
「こうなったらいいな」は考えます。
たとえばさっきも控室で
みんなが集まったときに、ぼくは
「今日はお客さんが1人もいなくても
成立する会話をしたいね」と言いました。
そのくらいの見通しはつけています。
だけど、それ以上の「効果」みたいなことは、
特に考えないようにしていると思いますね。
「こういうことを言ったら
大勢の人に支持されるんじゃないか」
「嫌われるんじゃないか」みたいなことって、
早めに考えすぎてしまうと、
どこか言う内容が変わってくる気がするんです。
ですからその意味では、
ぼくも漠然とした見通しはつけます。
なにかするときに天気予報を見て
「台風がくる」「明日は晴れだ」と
意識するくらいの、
「ここにはこんな人が集まっているんだな」
は感じるし、考えることがあります。
けれどそれ以上のことはなるべく
「結果的にそうなったな」に委ねて、
設計やプランニングをしていることが
ぼくの場合は多いと思いますね。
大森さん
ありがとうございます。
糸井
‥‥こんな答えでいいんでしょうか。
なんだか物足りないことを
言ったような気がするんだけど。
日比野
今日は時間が短いので、言い足りなかった部分は
さらなる質問への答えのなかで
補っていただくようにしましょうか。
糸井
そうですね、わかりました。
──
いまの「作品と影響や効果」についてのお話、
日比野学長はいかがでしょうか?

日比野
なにかを表現するとき、
「あ、違う、誤解されてる」
「それは自分の言いたいことじゃない」
みたいに感じることってあると思うんです。
でも実はそれを
「誤解」と考えていいのかどうかも、
ちょっとわからないんだよね。
相手は全員他者だから、データをコピーするように
自分の考えをインプットしてもらうのは難しい。
人間ってすべての情報が、
自分の都合のいいように入ってくるし、
入れようとしますから、
そこにはかならずズレが出てくる。
しかもそのズレが、その人の
考え方の個性だったりもするので、
自分の表現について
「考えや思いをすべて正確に受け取ってほしい」
と期待していいかどうかも、
あやしいところがあって。
たとえば有名な作品も、もしかしたら
それが世の中で知られている理由って、
「いろんな人が自分の都合のいいように
誤解しやすい作品だから」
と言えるかもしれないですよね。
「絶対こんなふうに理解してくださいね」
「その解釈は違います」
とか言いはじめると広まらなくて、
誤解されやすい作品ほど広がっていく。
そういう考え方もあると思います。
そう思うと、たとえ自分の意図と
違う受け取り方をされたときも、
「それは違います」と言うより、
「どうぞ自由に考えてみてくださいよ」
ぐらいのほうがいいんじゃないかと思うんです。
そしてその、想定外まで含んだ反応が、
自分にポジティブな影響を与えてくれたり、
さらに自分を追求する機会になったりもする。
そういうことまであるのが、
芸術のおもしろいところでもあると思います。
だからそのあたりは、
いまの糸井さんのことばで言うなら
「あまり気にしないように」というか。
それぞれが違う受け止め方をするものだし、
それができるのがアートの
面白い特性だという考え方はありますね。
──
いまのお話を受けて、
大森さん、いかがですか?
大森さん
音楽を学んでいると、特に指揮者の場合は、
ざっくり言うと、
何百年も前に誰かがつくった作品を
やらなきゃいけないんですね。
そのときにすごく
「作曲者の意図を尊重しろ」と言われるんですけど、
いまお話を聞きながら、
実は「意図せずにあらわれたものまで
含んだものこそが、本来の姿なのかな」
と思いました。

糸井
いまの話、ぼくもそれはとても思うんです。
世の中では、
「絵画とデザインの違い」とか、
「商業的なポピュラーミュージックと、
自分が作りたい音楽は違う」とか、
「純粋なもの」と「そうでないもの」に
むやみに線を引きたがる傾向があって。
でもぼくはそこ、
きれいに分けられない気がするし、
「どっちが先だったんだろう?」
ということも、よく思うんです。
「純粋絵画」「純文学」「純粋芸術」
と呼ばれるようなものにしたって、
やっぱり先に「何かの役に立つ」とかが
あったんじゃないか。
スペインのアルタミラ洞窟の牛の絵も、
絵画の歴史のなかにありますけど、
思えば「牛がいっぱいとれますように」とか、
そういう目的で描かれているわけですよね。
映画にしても、芸術映画の前に、
娯楽映画があったに決まってるわけで。
チャップリンが歩いてコケて面白かったのを、
みんな観に行ってた。
やがて、その余裕のなかで
「芸術映画」と呼ばれるものが出てきた。
そういう順番を考えても、なんだか
「完全に純粋な表現」みたいなものって、
ない気がするんですよね。

菅井さん
先端芸術表現科の菅井です。
ぼくは藝大に通いながら劇団をしているのですが、
劇団ってやっぱり、チケットを買ってもらって、
そのお金で運営しているので、
「やりたいことだけを純粋に表現している」
というわけではない気がしています。
また逆に、いま藝大にいながら、
自分のやりたいことを表現できているかというと、
それも微妙だと思っていて。
だから‥‥なんでしょう。
糸井さんが著作のなかで、
「やりたいこと」の前に
「受け入れられる」があって、
そこに「やりたいこと」がのっていく感覚がある、
みたいなことを書かれていたかと思うんですが、
そういうものなのかなと思ったりします。
とはいえ一方で、いまの美術って、
ある意味その「純粋な芸術」みたいなものが
求められてる気がなんとなくしますけどね。
糸井
そういう面もあるんだよね、きっとね。

日比野
美術や芸術の「機能」については、
たとえば「機能しないほうが純粋なんだ」という
考え方もあるかもしれないですよね。
でもアルタミラの洞窟壁画とか、
最初に絵を描いた人、最初に歌った人、
最初に芸術をやった人たちは、
なぜそういうことをしたか。
おそらく、自分が生んだ子どもが
冷たくなって動かなくなって「なんで?」。
自分のお母さんが
ある日いなくなっちゃって「なんで?」。
その「なんで? なんで? わけが分からない」
といった場面で、心を安定させるために、
表現が生まれてきたんじゃないか。
そういうことは考えられるわけです。
自分の気持ちの不安定さを
何かに代えることで、落ち着かせようとしたり、
「何か原因があるに違いない」と、
わからないものをわかろうとしたり。
わからないものを視覚化する、
身体化する、音楽で表現して聴覚で感じる、
みたいなことには、
きっとそういう機能があって。
そしていまの美術や芸術というのは、
もともとそうやって生まれてきた行為が
伝承していく過程のなかで、
少しずつかたちづくられていったような
ものだと思うんだけども。
そのとき「純粋」というのは
どういうことを指すんだろうか。
そんなふうに元をたどって考えると、
「純粋だから機能しなくていい」
「純粋だから伝わらなくてもいい」
みたいな発想については、
「そうともかぎらない」って考え方をしても
いいのかなと思うんだけどね。

(つづきます)

2022-11-17-THU

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