谷川俊太郎さんは
「ほぼ日の學校」の用務員さんの役を
かって出てくださいました。
用務員さんのいるところは、糸井重里が
ひと休みしたくなったときに立ち寄る場所です。
きっと学ぶみなさんも訪れていい場所です。
ほら、おしゃべりが聞こえてきます。
なんだか今回はふたりして、
「勉強してこなかった自慢」をしているようです。
もれ聞こえる90歳と73歳の声に耳をかたむけ、
みなさんもどうぞすこし、休憩していってください。
*
このおしゃべりの
動画編集バージョンを見たい方は、ぜひ
「ほぼ日の學校」でごらんください。
このテキストバージョンには
入り切らなかったものも収録されています。
絵:早瀬とび
谷川俊太郎さん(たにかわ しゅんたろう)
1931年生まれ。詩人。
「朝のリレー」「二十億光年の孤独」
「いるか」「みみをすます」「生きる」など、
数千篇におよぶ詩作品や、レオ・レオニ作『スイミー』、
スヌーピーでおなじみ「ピーナツブックス」シリーズ、
『マザー・グースのうた』などの翻訳、
そして、テレビアニメの「鉄腕アトム」主題歌や
「月火水木金土日のうた」などの作詞も手がける。
現代を代表する詩人のひとり。
- 糸井
- ぼくは子どもの頃、親が
「厳しい先生にあたればいいと思ってる」
と言ってました。
- 谷川
- ほんと?
- 糸井
- 逆説的に言っていたかのようですが、
「優しい先生だと甘やかすから」
なんて思ってたんじゃないでしょうか。
でも、昔は先生って、全体的に
厳しかったですよね。
- 谷川
- ぼくがはじめて暴力ふるわれたのは、
やっぱり小学校の先生だもんね。
ビンタ張られた。
- 糸井
- ぼくもそうです。
- 谷川
- あ、そうなんだ。
- 糸井
- いまはそんなこと、ないと思うけど。
- 谷川
- いまそんなことあったら大変でしょ。
- 糸井
- 学校に紐を引いて開閉する回転窓があって、
閉めるとき「パシャッ」って、
大きな音がするんです。
「糸井が殴られたときに
あの回転窓が閉まる音がした!」
って、友達がみんな言ってました。
- 谷川
- ほんとに。そうだったんだ。
- 糸井
- 自分はやられた本人なんですが、
そんな音がしたなんてすごかったんだな、
なんて思いました。
その先生は、なんというか、
戦争の気配が残ってる人でした。
- 谷川
- そういう先生もいたでしょうね。
ぼくの世代はちょっと特別で、
自我が育っていく段階が、
ちょうど戦争の時期だったんですよ。 - (【編集部註】太平洋戦争は1941年~1945年。
谷川さんの10歳~14歳にあたる) - だから学校教育は荒廃してたわけ。
教育のかたちがぼくは嫌ではあったけど、
小学生の頃はまだ、
ちゃんとしていたわけです。
そのうち教科書がだんだん黒塗りになって、
先生はみんな生活難。
食うや食わずです。
強制疎開で、われわれ生徒も一緒になって、
家の取り壊しなんかもしてました。
そのとき、先生が壊した家のガラスを
大切に持って帰ったりしてるわけですよ。
そういうのを見ていたから、
教育の権威みたいなものは、もう、
なくなっちゃったわけです。
教育と戦争が併行した時代だった、
ということが学校嫌いの一因であると思います。
- 糸井
- 教育が、いわば崩壊してたんですね。
それにもかかわらず谷川少年は、
何かを吸収したいという意欲が‥‥。
- 谷川
- あんまりなかったんじゃないかなぁ。
- 糸井
- そうですか(笑)。
- 谷川
- ぼくは戦争中も、ふつうの子どもたちみたいに、
友達と遊んでましたよ。
焼夷弾のかけら拾ってきてぶつけると、
バーンと閃光を発して爆発するわけ。
そういうのがおもしろくて、
子どもたちは戦争を遊んでいたわけです。
ぼくがいちばん覚えてるのは──、
B29が来て、空襲があって、
うちのすぐそば、環七の手前まで、
東京が焼夷弾で焼け野原になった。
翌朝に、友達といっしょに
「どうなったんだ」みたいなことで
自転車で見に行くわけですよ。
するとやっぱり焼死体がゴロゴロしてました。
それが、ぼくにとっての戦争の
いちばん大きな原体験です。
教育とか、そういうもんじゃなかった。
- 糸井
- 子ども時代のど真ん中に戦争があった、と。
- 谷川
- 東京は、あの頃になると、下町がやられて、
次に山の手がやられました。
広島・長崎とは比にならないけれども、
ぼくの身近には戦争が、
大きな体験としてありました。
- 糸井
- その頃は「学ぶ」なんていう言葉は、
実感としては、なかったでしょうか。
- 谷川
- ない、ない。
- 糸井
- そうかぁ。
その頃ふつうに学校があって、
高校があって大学があって、
そんな制度が無傷だったとしたら、
さぞかし秀才だったでしょうね。
- 谷川
- いやぁ、逆にそうだったら、
もっと早くに反抗しちゃってたかもしれないよ。
- 糸井
- そうでしょうか。
- 谷川
- 戦争によって教育が崩れていたから、
一応学校にいられたのかもしれない。
でもぼくは高校をちゃんとは卒業していません。
学校が嫌で、授業についていけなくて、
夜間部に転校させてもらいました。
だから「夜学」で卒業しました。
その頃、もう戦争は終わってたと思う。
夜学っていうのはおもしろくてね、
なにせはじめて「女性がいる」ということでね。
- 糸井
- あ、夜学のクラスには女の人がいるんですね。
- 谷川
- そう。昼間にはぜんぜんだよ。
だって学校は、共学じゃなかったから。
- 糸井
- そうかそうか。
- 谷川
- 男ばっかりです。
でも夜学に行くと、女の人はいるわ、
自家用車で通ってくる人もいるわ。
自家用車つっても「オート三輪」なの。
つまり、自分の店のオート三輪。
ぼくは順調に、そういう人たちに混じって、
そういう人たちの間で、教育されてきた。
あとは、自分で本読んでた。
- 糸井
- その時代に自分で読んだ本が
礎になっていたりしますか?
- 谷川
- とはいってもぼくは、
本があんまり好きじゃない人だから。
- 糸井
- いや‥‥(笑)もう、そんな話、
すごく好きです(笑)。
- 谷川
- あのね、みんな、
ぼくが本を読んでいて
教養があると思い込んでるんですよね。
- 糸井
- いいなぁ、
もっと聞かせてください(笑)。
- 谷川
- 「俺は教養がないからさ」なんて言うと、
みんな冗談だと思って、聞き流しちゃうわけ。
ぼくは聞いてほしいわけですよ。
「俺はドストエフスキーも読んだことないし、
マルクスも読んだことないんだよ」
みんな本気にしないわけ。
- 糸井
- 「また、またぁ」なんつって(笑)。
(明日につづきます)
2022-07-05-TUE