2020年の年末、ほぼ日は
神田の町に引っ越してきました。
はじめてのこの町をもっと知りたいし、
もっと知ってほしいと思っています。
そこで、日本全国のすべての市町村を回った
若き写真家、かつおさんこと仁科勝介さんに
神田の町を撮ってもらうことにしました。
自由にやってください、かつおさん。

>かつおさんのプロフィール

かつお|仁科勝介(にしなかつすけ)

写真家。1996年岡山県生まれ。
広島大学経済学部卒。
2018年3月に市町村一周の旅を始め、
2020年1月に全1741の市町村巡りを達成。
2020年の8月には旅の記録をまとめた本、
『ふるさとの手帖』(KADOKAWA)を出版。
写真館勤務を経て2020年9月に独立。
2021年10月から2022年8月にかけて、
東京23区の490ある全て駅を巡る
プロジェクト「23区駅一周の旅」を完遂。
そこで撮影した、東京のささやかな日々を
まとめた写真集『どこで暮らしても』
2022年11月に自費出版。
2023年春から新プロジェクト始動予定。

前へ目次ページへ次へ

#029

『ジャズ喫茶への旅(後編)』

今年3月、神田猿楽町にオープンしたジャズ喫茶
『On a slow boat to…』さんで
心地よい音楽に包まれながら、
わたしはマスターとお話をしていた。

「お店の名前に由来はありますか?」
率直に伺ってみると、マスターは一枚のレコードと、
一冊の本を持って来てくれた。レコードには
“Sonny Rollins”の名前が、本には村上春樹の
“中国行きのスロウ・ボート”のタイトルがあった。

「村上春樹さんの“中国行きのスロウ・ボート”
という本が大好きなんです。
その題名のモチーフとして、アメリカには
“On a Slow Boat To China”という曲があって。
このレコードでは“Sonny Rollins”が演奏しています。
爽やかで軽快な名曲です。
和訳すると “中国行きのスロウ・ボートに乗って”
という意味になりますが、考えてみてください。
アメリカから中国へボートで向かうって、
とんでもない時間がかかりますよね。
ただ、壮大な時間がかかるけれど、
本来、時間というものは、
それくらいゆっくりでもいいはずなんです。
だから、せわしない世の中であろうと、
このお店に来てもらっている間だけは、
ボートの上でのんびりするように、
ゆっくりくつろいでもらいたくて。
お店には、音楽と珈琲もありますから。」

そうか。お店で感じる居心地のよさは、
マスターの思いそのものが、
この空間に体現されているからなのだ。
そして『On a slow boat to…』と、
店名の最後が、「China」ではなく
「…」という三連符が用いられているのは、
あなたの行き先へ、自由に進んでくださいね。
という意味を込めているのだと教えてもらった。
はあ!なんとうつくしい余韻なのだろう。

話はお店を開いた経緯につづいていく。

「元々は、まるで違う職種の仕事をしていました。
それでもずっとジャズが好きで、仕事のかたわら
“ジャズ批評”のライターをやっていたり、
仲間と一緒にジャズ鑑賞の番組を持っていたり。
そしてもうすぐ55歳になりますが、残りの人生を、
あたらしいことをはじめるパワーに使いたいと
思ったんです。それは、音楽と珈琲を楽しめる
場所をつくりたい、というものでした。
2〜3年かけてコツコツ準備をしてきて、
むずかしい情勢ですが、ようやく実を結んで。」

お店はマスターが一人で切り盛りする日もあれば、
パートナーのよしこさんと二人で、という日もある。
店内のアンティークな家具や食器は、
よしこさんがメインとなって集められたそうだ。
珈琲だけではなく紅茶にもこだわっていて、
よしこさんがチョイスした和紅茶が楽しめることも、
お店の魅力のひとつである。

「ジャズ喫茶ですが、ジャズ以外の音楽も
楽しんでもらいたいですし、珈琲がメインですが、
紅茶も味わい深くておすすめですし。
やっぱり、いろんな方に気軽に来てもらえるような
場所になれば、いちばん嬉しいですね。」

もうひとつ。かつて神田の地は
“日本のカルチェ・ラタン”と呼ばれ、
学生たちが集い、古本屋や飲食店で賑わい、
あたらしい文化が生まれ育った場所だ。
その時代の潮流を知っているマスターが、
令和を迎えたいま、あらためて神田の地に
根を張ることも、偶然ではない。

「神田はいまも個人店がたくさんありますが、
最近はそれでも、チェーン店が増えています。
それが悪いわけではありません。
こういう時代だからこそ、
あたらしいお店を神田に開くことで、
個人店の良さを知ってもらいたいですし、
人と人が自然に交流してきた神田の文化を、
繋いでいくことができたらなあと思うんです。」

『On a slow boat to…』さんは、
神田の地にあたらしく誕生したジャズ喫茶だ。

お客さんへの思い、音楽への思い、
珈琲への思い、紅茶への思い、
町への思い、たくさんの思いが、
ひとつのボートに乗って、
ゆっくり前へ進もうとしている。

これからも、何度もお店に通うだろう。
ここで過ごす時間が、好きだから。

2021-05-20-THU

前へ目次ページへ次へ