>山﨑風雅さんプロフィール

山﨑風雅(やまざきふうが)

1995年生まれ、神奈川県出身。
大学在学時、NPOに参加し陸前高田に通うように。
2020年、気仙沼市本吉町にある日門定置網の漁師に。
現在、漁師になり3年目。

>伊藤誠さんプロフィール

伊藤誠(いとうまこと)

1985年生まれ、千葉県出身。
2014年、気仙沼でアフロ巧業を立ち上げる。
主に、気仙沼を中心に、戸建て住宅や飲食店、
コミュニティースペースなどの内装・外装の
デザインから施工までを手がける。
アフロ巧業のインスタグラムはこちら

>玉川千晴さんプロフィール

玉川千晴(たまかわちはる)

1985年生まれ、気仙沼市唐桑出身。
大学進学とともに東京に上京し、
2012年にUターン。
三陸新報に勤めたのち、
現在は気仙沼地域戦略に勤務。
玉川さんが担当する気仙沼市の観光情報を
発信するサイト気仙沼さ来てけらいん

>鈴木麻莉夏さんプロフィール

鈴木麻莉夏(すずきまりか)

1998年生まれ、気仙沼市出身。
中学2年生からSCK GIRLSとして活動をスタート。
高校を卒業後、民間企業での勤務を経て、

現在は気仙沼市役所観光課で勤務。
観光プロモーションや、
ホヤぼーやに関する仕事を担当。
SCK GIRLSとしても活動し、現在は3代目リーダー。

>丹治和也さんプロフィール

丹治和也(たんじかずや)

1987年生まれ、新潟県出身。
大学院を卒業後、自動車メーカーに勤務。
ビール好きが高じてブリュワーに転身し、
香川県、新潟県などのブリュワリーを経て
2019年夏、気仙沼に移住し、
「BLACK TIDE BREWING」にジョインする。
現在は営業活動をメインに担当。

>加藤拓馬さんプロフィール

加藤拓馬(かとうたくま)

1989年生まれ、兵庫県出身。
2011年、東日本大震災を機に
気仙沼でボランティア活動に従事し、
2015年、一般社団法人まるオフィスを設立。
代表理事になる。教育事業を中心に、
移住支援や人材育成などの事業を手がけている。
2020年より、気仙沼市探究学習コーディネーターとして、
おもに中高生の学びを支援している。

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第1回 震災の日のこと。

──
千晴さん、はじめまして。
玉川
はじめまして! 玉川千晴です。
──
わたしは千晴さんとお会いするのは
はじめてなのですが、
「沼のハナヨメ」や「気仙沼のほぼ日便り」で
千晴さんのことをよく拝見していたので、
はじめてお会いした感じがしないです。
玉川
ふふふ‥‥。
──
‥‥あれ、緊張してますか?
玉川
インタビューを受けることが
あまりないので、緊張してて。

──
ああ、そんな。気負わなくて大丈夫です。
千晴さんのふだんのお仕事や暮らしぶりを
伺えたらいいなと思っているので。
玉川
あんまりおもしろいエピソードが
ないんですけど、大丈夫ですか?
──
おもしろいエピソードは大丈夫です(笑)。
世間話のつもりで。
玉川
なるほど、世間話なら。
──
千晴さんは、気仙沼観光推進機構の
気仙沼地域戦略に勤務されていて、
観光にまつわるさまざまな取り組みを
企画されているんですよね。
玉川
はい。
──
Uターン組だと伺ったのですが、
ご出身は気仙沼のどちらですか?
玉川
気仙沼の唐桑です。
──
「つなかん」があるところですね。
玉川
はい。つなかんの隣の浜で生まれ育ち、
高校を卒業するまで気仙沼にいました。
大学で上京して、
そのまま東京で就職しました。
そう、それで、
上京して8年目に、
東日本大震災があったんですね。
実は、ぐうぜん、震災の前日に
気仙沼に帰ってきていたんです。
──
なんと‥‥そうでしたか。
玉川
話が飛んじゃうんですけど、
続けて大丈夫ですか?
──
もちろんです。
玉川
あの、家族が突然倒れて、
お見舞いで帰ってきていたんです。
病院で付き添っていたら、
ワーッと揺れて。
それから東京に戻れなくなってしまって、
1ヶ月くらい実家にいました。
──
戻れなくなったというのは‥‥
玉川
物理的に交通手段がなかったんです。
唐桑半島って地図で見てみると、
海に突き出ている半島なんですね。
津波の影響を受けて付け根の部分の
道路が水没して、
車が通れなくなってしまって。
しかも、車のガソリンも満タンではなかったので、
すぐにはどこにも行けない状況でした。
なんだろう‥‥
我先に東京に戻らなきゃ、という
気持ちにまったくならなかったです。
戻れる気がしなかった、という方が
近いかもしれません。

──
なるほど。
そうしたら、お仕事は休まれたんですか?
玉川
連絡できなかったので、
無断で休んでいる状態でした。
携帯は充電がないし、
唐桑で公衆電話がつながっているところを
当時のわたしは知らなくて。
実家に帰っていることは伝えていたのが、
唯一の救いでした。
──
そうか、そういう状況だったんですね。
玉川
それで、1ヶ月くらい、
家の片づけをしたり
近所の家の片づけを手伝ったり、
ライフラインがすべてなかったので
井戸に水汲みに行ったり、
配給を手伝ったりしていました。
さすがに連絡を取りたいと思っていたところに、
親戚が避難していた中学校なら
電話が使えるらしいと聞いて、
行ってみることにしたんです。
それで、仕事場に連絡がとれて、
「元気です、仕事休んですみません」
と電話を入れて。
こっちは、仕事を無断欠勤してしまった
罪悪感が大きかったんですよ。
はい。
玉川
でも、電話の向こう側で、
「うわー! 生きてるー!」って
大歓声が聞こえてきて。
──
ああ‥‥そうですよね。
玉川
はい、すごい歓声でした。
──
仕事場の人たちも声を聞けて
安心したでしょうね。
玉川
そうだと思います。
不明者の名前を読み上げるラジオにも、
わたしの名前が入ってたらしいんですよ。
でもわたしはそんなこと知らなくて。
電話を受けてくれた人も泣いているし、
奥からも泣き声が聞こえるし、
ことの重大さをそこで知りました。
あと、自分が必要とされていたんだなと
感じました。
──
そうですよね。
やっぱり震災の被害がどれほど大きなものか、
知る術がなかったんですね。
玉川
ぜんぜんなかったです。
全体の被害がどのくらいかわからなかったし、
まさか、自分が不明者の名前に入っていて、
友だちが心配して探してくれているなんて
状況をまったくわかってなくて。
避難したり、
中心部にいけばわかったんでしょうけど、
情報を得る手段が全くなくて。
──
千晴さんは避難所じゃなかったんですね。
玉川
うちは実家が高台にあるので、
家は大丈夫でした。
──
でも、すごいぐうぜんですよね。
ふだんは東京に住んでいるのに、
たまたま帰省のタイミングだったなんて。
玉川
そんな頻繁に帰ってきていたわけじゃなくて、
すごく久しぶりの帰省だったんです。
上京すると、お盆と正月くらいしか
帰らないじゃないですか。
わたしもそれぐらいの頻度だったので。
──
そこから東京に戻られたんですか?
玉川
はい。
「無断で休んでしまった」という
負い目を感じていたり、
心配をかけさせたくない、
みたいな気持ちもあったりして。
一度東京に戻って、
直接状況説明をしたい
気持ちもあって帰りました。
──
電話口でそれだけの反応をされたら、
そう思うかもしれないです。
玉川
そうなんですよね。
電話で連絡を入れたすぐ後に、
東京行きのバスが
復旧したことを教えてもらって、
そのタイミングで帰りました。
それから1年くらい東京で働いたんですけど、
やっぱり地元のことが気になってしまって。
──
ああ、はい。
玉川
被災している間に、
いろんな場面を見たり話を聞いていて、
被害状況の大変さを感じていました。
災害や津波で亡くなったり、
家が全壊してしまったり。
気持ちの面でも見えている景色も
時間が経っても
なかなか回復しない状況を見ていました。
一方で、東京はふつうの生活に戻っていて、
なんというのか‥‥
違和感がけっこうありました。

──
そうですよね。
玉川
あと、わたしは当時住宅の審査会社に勤めていて。
家を建てるときに、
その家の安全性を診断する会社なので、
復興需要もあり、ものすごく仕事が多かったんです。
会社としては景気がよくて、
活気づいていました。
でも、被災地はそうじゃない。
もっと切羽詰まっていて、
自分たちの生活を立て直すことに精一杯。
その、東京と気仙沼のギャップに
違和感を感じてしまって、
「帰ろう」と決めました。
──
あの、簡単に「わかります」とは言えませんが、
その状況はすごく想像できます。
被災を経験されているならなおさら、
そのギャップは苦しかったですよね。
玉川
うーん‥‥そうですね。
当時の自分は
その息苦しさをわかっていなかったけれど、
いま振り返ると苦しかったと思います。
東京で一緒にいる人たちは、
被災地の状況を知って心配してくれるんですが、
心配かけたくないという気持ちがあって、
「大丈夫」とよく言っていた気がします。
あと、わたし自身、
いつか地元で働きたいと思っていたんです。
──
そうだったんですね。
玉川
なので、漠然と
「いつか気仙沼に帰ろう」と
タイミングを見計らっていた部分もありました。
──
Uターンを決めたのはいつ頃ですか?
玉川
震災から1年後です。
──
それだけやっぱり、
考える時間も必要だったってことですよね。
玉川
なんだろう、
地元がどれだけ好きでも、
気仙沼で働くには仕事が限られてくるんです。
手に職があるわけじゃないし、
やりたいことと仕事が結びつかないし、
「わたしは楽しくここで働けるのか」
っていう自信が持てなかった。
「できることが何もない」と思ってました。
こんなわたしじゃ帰れないって。
でも、復興活動なら手伝えるし、
地元に「いる」だけで
何もしなくてもいいんじゃないかって、
震災を経験して気持ちが変わった部分は
あるかもしれないです。

(つづきます。)

2022-11-15-TUE

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