写真評論家の飯沢耕太郎さんに、
森山大道さんの「写真」がどいうものか、
いろいろうかがいました。
一貫して路上を撮ってきた森山さんの
特異性、魅力、その功績。
さらには、あの有名な「三沢の犬」が、
「どうして有名なのか」という、
なんとも素朴な(?)ギモンについても
丁寧にお答えくださいました。
最後には「撮れちゃった写真」の大切さ。
これには、なるほど~とうなりました。
「撮った写真」じゃなく
「撮れちゃった写真」が、なぜ凄いのか。
「撮れちゃった写真」を撮れるのが、
素晴らしい写真家なんです‥‥と。
全6回の連載、担当はほぼ日の奥野です。
飯沢耕太郎(いいざわこうたろう)
写真評論家。1954年、宮城県生まれ。1977年、
- ──
- 森山さんのことを調べると
すぐに
「アレ・ブレ・ボケ」という言葉が出てきます。 - 粗くぼやけて、ピントの合っていない写真‥‥
ということだと思いますが、
当時はどういったインパクトがあったんですか。
- 飯沢
- 写真をきれいに撮るテクノロジーやメソッドが
どんどん確立されていく時代に、
ああいった‥‥
いわば「荒々しい写真」が投げ込まれたんです。 - ものすごい「賛否両論」を、巻き起こしました。
ただ「アレ・ブレ・ボケ」自体は
森山さんが「発明」したわけではないですけど。
- ──
- そうなんですか。
- 飯沢
- ただ単に「そういう写真」というだけなら、
以前から存在してました。 - でもそれが当時の時代状況と重なったとき、
写真表現以上のインパクトを、
見ている側に、もたらしたんだと思います。
- ──
- 当時というのは60年代後半、闘争の時代。
- 飯沢
- そうですね、70年代はじめくらいまでの、
政治や社会が揺れ動いていた時代です。 - そこへ「アレ・ブレ・ボケ」が、出てきた。
- ──
- 時代によって「増幅」された部分もあると。
- 撮っているもの自体は、
そんなに変わったものだったわけでは‥‥。
- 飯沢
- ないです。見ていただければわかるように、
日常的な風景や、当時の人々の姿。
被写体そのものには際立つ特徴はなかった。
- ──
- ただ「アレ・ブレ・ボケ」ていた。
- 飯沢
- タイミングが合ったんでしょう、時代と。
- ──
- 今のお話で何となく頭に浮かんだのは
19世紀に出てきた印象派で、
彼らも、
既成の価値観から一斉に反発されました。
- 飯沢
- そう、それと同じように、
当時はきたない写真、って言う人もいた。 - いわゆる「カメラマニア」というかな、
「アサヒカメラ」や
「カメラ毎日」を毎月購読してた人が、
森山さんや中平卓馬さんが現れて、
誌面が
「アレ・ブレ・ボケ」で埋め尽くされて、
購読をやめちゃったとか。
- ──
- 熱狂的に受け入れられていた一方で、
強い拒否感を示した人たちもいたと。
- 飯沢
- そうですね。
- その後、
70年に日米安保条約が自動延長されて、
激動の季節が終息していくと、
「アレ・ブレ・ボケ」は
ある種の流行りのデザイン・意匠として、
消費されていくようになります。
- ──
- 形骸化していく。本質の部分が。
- 飯沢
- 当時の国鉄の
ディスカバージャパンってキャンペーン、
知ってます? - 日本各地のいろんな田舎に、
当時流行の
パンタロンやミニスカート姿の女の子が
遊びに行く‥‥みたいな。
- ──
- はい。
- 飯沢
- そのキャンペーンのポスターなんかにも
「アレ・ブレ・ボケ」が使われ出して、
中平卓馬さんなんかは、
「記録という幻影」と題する文章に、
ある種の怒りのメッセージを書いたりね。
- ──
- 商業主義的なものに利用された、と?
- 飯沢
- 自分たちの生き方そのものを
「アレ・ブレ・ボケ」に込めていたから。 - だから、ただ「カッコいいじゃん」って、
スタイルとして
商業的に消費されてしまうという事態に、
危機感を感じたんでしょう。
- ──
- なるほど。
- 飯沢
- 森山さんも、まさしくそのタイミングで
『写真よさようなら』という
「アレ・ブレ・ボケ」のオンパレードみたいな
非常にラディカルな写真集を発表した。 - 見たことあるかなあ。
- ──
- はい、あります。
- 飯沢
- あれ、何が写ってるかもわからないじゃない。
「アレ・ブレ・ボケ」の極みで、
時代に対するアンチテーゼだったわけだけど、
ただ、そこまでいってしまうと、
森山さん自身も、疑いを持ちはじめるんです。 - はたして、これでいいのか‥‥って。
- ──
- それで『写真よさようなら』ですか。
何かもう、すごいタイトルです。
- 飯沢
- 実際、森山さん、
そのあと80年代のはじめくらいまで、
彼自身のいう
大スランプ時代に入っちゃうんですよ。
- ──
- 大スランプ。ただのスランプではなく。
- 飯沢
- 写真が撮れなくなってしまったんです。
- 正確には、撮った写真に
手応えがなくなってしまった‥‥って。
- ──
- へええ‥‥どうしてですか。
- 飯沢
- 大きな理由のひとつは、それまでは
「アレ・ブレ・ボケ」が
森山さんのリアルだったわけですけど、
時代の流れの中で、
そのリアリティを感じられなくなった。 - そういうことじゃないかなと思います。
- ──
- なるほど‥‥では、逆に言うと
「アレ・ブレ・ボケ」のリアリティが
持続していたのは、たったの数年?
- 飯沢
- そうですね。
中平さんが多木浩二さんらとはじめた
『PROVOKE』という写真同人誌が
1968年で、
そこに森山さんも合流するんですけど。 - 1972年の沖縄の返還をきっかけに
政治状況は一服していく‥‥
だから、ほんとに3年、4年くらいで。
- ──
- それだけ短期間の活動が、
後々にまで記憶されるムーブメントに
なったってことですか。 - 『PROVOKE』も、3巻だけだし。
- 飯沢
- 当時の時代と、森山さんの写真とが、
どれだけ
ぴったり密着してたかってことですよ。 - と同時に、森山さんの写真には、
あの時代を体現していたという以上の
普遍性があったんだと思います。
- ──
- 同時代性と、普遍性と、その双方が。
- 森山さんは、
やはり当時から路上を撮っていらした。
- 飯沢
- 一貫してね。
- ストリート、道、路上を歩くと、
いろいろなものに、ぶつかりますよね。
角を曲がれば別の世界が広がっていく。
路上散策と言うよりも、
もっと、野良犬のようにほっつき歩く。
そういう体験って、
きっと、多くの人にあると思うんです。
- ──
- はい、あります。自分にも。
- 飯沢
- 失恋してあてどなくさまよったとかさ、
酔っ払っちゃって‥‥とかも含めて。
国や時代を超えて、
誰もが経験する、ある種の普遍的経験。
- ──
- はい。
- 飯沢
- 森山さんの写真を日本人だけじゃなく、
フランスの人も、アメリカの人も、
中国の人も、ブラジルの人も、
みんながかっこいいと思うってことは、
近代に成立した「都市」の路上を
みんなが同じように歩いたからだよね。 - その「路上における普遍的な体験」を
もっとも説得力のあるイメージとして
写真に定着させたのが、
森山大道って写真家なんだと思います。
- ──
- なるほど。
- 飯沢
- だって、どの国に行ったってさ、
日本の写真家で
真っ先に名前の挙がるのが、森山さんだもん。
- ──
- これだけ
路上だけをずーっと撮り続けている写真家は、
世界にもめずらしいと聞きますね。 - ちなみに「アレ・ブレ・ボケ」という写真を
撮っていた人は、海外では‥‥。
- 飯沢
- 何人かいますよね。
- 森山さんの『にっぽん劇場写真帖』を
よく研究してみると、
あの傑作が
いきなりうまれたわけじゃなく、
先行する写真家たちの表現を咀嚼したうえで、
森山さんのセンスや方法論で
再構築していることが、わかるんです。
- ──
- たとえば、でいうと‥‥。
- 飯沢
- まずは、ウィリアム・クラインでしょうね。
- 有名な彼の『ニューヨーク』という写真集、
本当に、カッコいいから。
- ──
- 森山さんも、たびたび、
インタビュー等で言及していますよね。
- 飯沢
- あるいはロバート・フランクだったり、
エド・ヴァン・デル・エルスケン‥‥。 - そういう先達たちが、
路上スナップの原型をつくっていった。
- ──
- 日本では?
- 飯沢
- 路上スナップによる表現は、
1950年代くらいから出てきますね。 - 東松照明さんの
『<11時02分>NAGASAKI』とか
『日本』とか、
そういった写真集を見てると、
後の森山さんを思わせるところがある。
- ──
- なるほど。
- 飯沢
- 何を撮るかを決めず、
カメラだけど手に持って町に出かけて、
目の前に現れたものを捕まえていく。 - 何人か、そのスタイルの先行者がいて、
独自の方法論として
確立していったのが森山さんだった。
そうやってうまれたのが、
デビュー作の『にっぽん劇場写真帖』、
なんです。
2021-04-10-SAT