飯島奈美さんの料理本『LIFE』シリーズで、
写真を担当してくださっている写真家の大江弘之さん。
大江さんって、人だったら「感じがいいなあ」
アイテムだったら「いいな、欲しいな」
旅だったら「行きたいなあ」
食卓だったら「おいしそう!」
「こんなテーブルに一緒に座りたい」‥‥と思わせる、
そんな写真を撮る人なんです。

『LIFE』シリーズの最新刊『LIFE 12か月』も、
大江さんの写真がたくさん。
こんなにおいしそうに撮るコツやヒントを、
大江さんにききました。
聞き手はシェフ
後半に生徒役で出てくるのは
「ほぼ日」のしのだみやのはたべーです。

>大江弘之さんのプロフィール

大江弘之 プロフィール画像

大江弘之(おおえ・ひろゆき)

写真家。
群馬県生まれ。
青山学院大学在学中に
撮影スタジオのアルバイトから
車雑誌のライターを経て、
写真家・佐藤明氏と出合ったことで
本格的に写真の道に進む。
人物・商品・インテリア・スポーツ、そして料理と、
多岐にわたる分野での写真表現を続け、
雑誌、書籍、広告、ウェブメディアなどで活躍。
「ほぼ日」では「ほぼ日手帳」の商品撮影を初期から続け、
2008年から続く『LIFE』シリーズでは
飯島奈美さんがスタイリングする食卓と料理を撮影。
今も器やアパレル系のコンテンツの撮影を多数担当。

現在、仕事でメインに使っているカメラは
NIKONのミラーレス一眼とレンズ。

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01 大江さんはなぜ料理写真を撮るようになったの?

──
大江さんとはいつも
飯島奈美さんの撮影の現場などでお会いするので、
こうしてあらたまって
料理の写真の話を聞くのはとても新鮮です。
どうぞよろしくお願いします。
大江
ぼくも新鮮です。
よろしくお願いします。

──
『LIFE 12か月』も、ありがとうございました。
大江さんはご自身も食べるのがお好きだし、
奥様がテーブルコーディネーターでいらっしゃるから、
そんなところから料理写真が得意なのかな、
なんて想像していたのですけれど。
大江
それもあるかもしれませんね。
でも、そもそも料理を、
なぜこんなにたくさん
撮るようになったかというと、
テレビの仕事がきっかけなんです。
1980年代、日本テレビ系列で
『世界食べちゃうぞ!!』
という番組が始まって、それが
『世界ごちそうさま!!』『地球おいしいぞ!!』と
名前を変えて5年間続きました。
そのスチールカメラマンとして
ほとんどすべての海外ロケに参加したんです。

ニューカレドニアのレストランで。パームオイルの実の料理を撮影。 ▲ニューカレドニアのレストランで。パームオイルの実の料理を撮影。

──
おいしいものを探して、タレントや著名人と
世界のあちこちを食べ歩く番組ですよね。
そのロケに、ずっと? 
大江
そう。5年の間に40カ国ぐらい、
500軒を超えるレストランや市場、屋台、
家庭など、食にまつわる場所を回りました。
1回の放送が30分の番組だったけれど、
毎週だから、ほんとうに忙しくて。
マイナス20度のフランスの山に行ったあと、
すぐにプラス30度のブラジルに行ったり、
今思えばめちゃくちゃなスケジュールでしたね。
年間、半分くらい、どこかに取材に出かけてました。

香港のレストランで撮影。TVの料理セットと一緒に撮ったことも。 ▲香港のレストランで撮影。TVの料理セットと一緒に撮ったことも。

──
その仕事は、料理の撮影が得意だからということで
引き受けられたんですか。
大江
いや、料理写真が得意です、なんて、
そのテレビの海外取材が始まるまで
言ったことはありませんでした。
──
さかのぼってお聞きしますが、
そもそも、なぜ写真を始められたんでしょう。
大江
小さな頃からカメラが好きだったのは間違いないです。
父がカメラ好きだったことがスタートですね。
ニコンの、古い、ニコマート(Nikomat)っていう
カメラを使っていて、それがカッコよくて! 
シャッターの音とか、質感、メタリックな感じが好きで
「使ってみたいな」と。
それで父が居ない時に、
ひそかに持ち出して撮ってました。
でも、カメラマンになるとは思ってなかったんです。
学生時代はスポーツ一辺倒でしたが、
たまたま通っていた大学の目の前に
写真のスタジオがあったんですよ。
いわゆるコマーシャルスタジオですね。
たまたま、そこでアルバイトをするようになりました。
といっても、雑用係、アシスタントのアシスタントです。
ぼくは車の運転も好きだったから、
車の撮影についていって、運転係をやったり。
そんな中で、プロが撮影している現場を見ては、
「いったい、いま、何をしているんだろう?」
って思うわけです。

ニコマートと同時代の上位機種「Nikon F」。お父さんから引き継いだニコマートは、イタリア取材の時に「カメラバッグだけでなくクルマごと」盗まれてしまったそう。 ▲ニコマートと同時代の上位機種「Nikon F」。お父さんから引き継いだニコマートは、イタリア取材の時に「カメラバッグだけでなくクルマごと」盗まれてしまったそう。

──
それがプロになる入り口に? 
大江
‥‥というわけにもいかないんです。
ちょっと回り道をした話になるんだけれど、
車雑誌をつくっている編集制作会社があって、
「大江くん、車が好きなら、記事が書けるんじゃない?」。
「いやいや、書けるかどうかわからないけど、
やってみます!」なんて言ってたら、
書いたものが、けっこうウケちゃった。
そうしてライターのまねごとをするようになったんですよ。
やがて原稿書きを仕事にしているうちに、
「写真も撮れる? スタジオにいるんだから」と言われて、
「いや、撮れなくも‥‥ない‥‥、かも?」
くらいのことから、始まっちゃったんです。

当時、ライターやカメラマンとして参加した雑誌、ムック。 ▲当時、ライターやカメラマンとして参加した雑誌、ムック。

──
つまり若き日の大江さんは、
専門的に写真の勉強をしたわけではないのに、
雑誌の仕事で撮ることになった。
大江
そう。原稿書きと撮影の割合が
いつのまにか変わっていって、
ものすごく大ざっぱに言えば「今に至る」んです。
──
大江さんが仕事を始めた頃は、
写真といえばすべてフイルムでしたよね。
基本、35㎜で、
その上にブローニーという大きなサイズのフイルムがあり、
さらに4×5(しのご)っていう
うんと大きなフイルムもありましたね。
当時、プロとしてやっていくには、
そんな勉強も必要だったんじゃないですか。
大江
そうです、そういう勉強も必要でした。
カメラの知識も写真の技術も
向上させなきゃいけなかった。
もちろんバイトで車を運転している人間が
いきなり大きなカメラで撮るわけじゃなくて、
徐々に勉強していったんですけれど。

「ホースマン4×5 電子シャッター」は、料理、ジュエリー、建築写真で使っていたそう。 ▲「ホースマン4×5 電子シャッター」は、料理、ジュエリー、建築写真で使っていたそう。

中判カメラの「ハッセルブラッド 500C/M」。料理撮影にいちばん使ったのが「FUJI GX680」、ほかに「MAMIYA RZ67」「MAMIYA 645」を使っていた。 ▲中判カメラの「ハッセルブラッド 500C/M」。料理撮影にいちばん使ったのが「FUJI GX680」、ほかに「MAMIYA RZ67」「MAMIYA 645」を使っていた。

──
向上させるっていうのは
学校に行くとか、先生についたりとか? 
大江
いえ、基本的には独学なんです。
でも先生にあたる人はいました。
それで出てくるのが、
のちに妻になる人が
テーブルコーディネーターを目指していた、
という話なんです。
彼女の先生が、クニエダヤスエさんというかたで。
──
クニエダさんっていうのは、
日本のテーブルコーディネーターの
先駆けみたいな人ですよね。
大江
そう。テーブルコーディネートっていうことばを
日本で使いはじめたのはクニエダさんが最初だと思います。
彼女はクニエダさんの第一期のアシスタントでした。
ぼくらは同じ大学に通っていて、
僕がスタジオのバイトから車のライター、
そしてカメラへと向かっていくとき、
彼女はクニエダさんのもとで
テーブルコーディネートの勉強をしていました。
それでぼくも、ときどき、クニエダさんのアトリエに
遊びに行っていたんです。
そうしたら、クニエダさんのご主人が
佐藤明さんといって、
すごく有名なカメラマンだったんですよ。
英語が堪能で、マリリン・モンローを撮ったりして、
ファッション写真の第一人者でした。
その佐藤明さんと知り合ったことから、
いよいよぼくもカメラの道へ
本格的に入っていくわけなんです。

佐藤明さんから形見分けでもらったカメラ「Nikon S3」。 ▲佐藤明さんから形見分けでもらったカメラ「Nikon S3」。

──
大江さんがいくつの時だったんですか?
大江
忘れたなぁ。でも20代は間違いないですね。
なんでも吸収できる時期でしょう、
いろんなことを学びました。
写真だけでなく、ライフスタイルまで。
でも、ぼくは佐藤さんから、
技術的なことを具体的には教わってないんです。
見て盗め‥‥って、言い方がよくないね、
見て覚えろ、という人でしたから、
当時、佐藤さんのアシスタントもたくさんいたし、
撮影やスタジオの雰囲気から
徐々に入っていった感じです。
──
いいご縁だったんですね。
大江
そして、その時代、カメラの照明や機材が
どんどん進化していったんですが、
ちょうど友達になった佐藤さんの息子さんが
アメリカでカメラの勉強をしてきたばかりで、
彼からも、いろんな情報が入ってきました。
「アメリカではこういう機材が流行っている」とか、
「ハリウッドでは今こうなんだよ」って。
彼はいち早く日本でそういうものを使っていたので、
ぼくも駆け出しカメラマンなのに
新しい機材を取り入れるのが、
すごく早かったんです。
もともと、メカニックなものが好きだから、
楽しくて、どんどん吸収していきました。
そんななか、日本テレビの記念事業で
ボストン美術館とボストンについての
ガイドブックを出すから、1か月ほど、
カメラマンとしてへ現地へ行かないか、
という仕事が来たんです。
──
佐藤さんから?
大江
いえ、車雑誌などでお世話になっていた
編集制作会社からの依頼でした。
でも「一人で行ってこい」だったし、
そもそも仕事に使えるようなカメラを
持っていなかったんです。
そうしたらその編集制作会社の上司が
機材を貸してくれて、行くことになりました。
写真を撮って、記事も書いて、って、
めちゃくちゃ忙しかったけど、楽しかった。

ボストンへひとりで乗り込む。 ▲ボストンへひとりで乗り込む。

大江
その仕事を終えたときに、
『世界食べちゃうぞ!!』の仕事が舞い込んできたんです。
「元気がよくてどこでも行くカメラマンの卵で
大江君っていうのがいて、
なんでも断らないでやるから、いいと思うよ」
みたいなことだったらしいです。
──
でもそれを引き受けると、
日本にいる時間が減るから、
他の仕事ができないですよね。
大江
そうなんです。
「とにかく世界中が回れるから」と言われ、
「こんなチャンスはない、断る手はないな」
と思いました。
それに、まだぼくにはカメラの仕事は
そんなになかったから、
ギャランティはものすごく安かったけれど、
へっちゃらだったんです。
──
逆に言うと、もしその時の大江さんに
そこそこ仕事があったら‥‥。
大江
行かなかったかもしれませんね。
でもぼくには自由な立場と時間がありました。
それで5年間、ほかの仕事をせず、
ほとんどそれだけをやり続けたんです。
もう海外で料理写真にどっぷりでした。
番組関連で本もいっぱい出しましたよ。
何冊つくったかな。20冊くらい出したかな。
そのほかに、オフの時間に、
いつもフラフラと市場に行って写真を撮っていたのが、
『この一皿 世界の街から』『世界の市場探訪』
っていうシリーズになり、
それも何冊か、出しました。

『世界食べちゃうぞ!!』全14巻。 ▲『世界食べちゃうぞ!!』全14巻。

『この一皿 世界の街から』『世界の市場探訪』の一部。 ▲『この一皿 世界の街から』『世界の市場探訪』の一部。

──
それは、いきなり料理写真の専門家になった、
と言ってもいいくらいのことですね。
大江
そうなんです。
ちなみに、テレビ番組のロケ中に
料理を撮るっていうのは、
相当、大変なことだったんです。
──
それはムービーがメインだから?
大江
そう、ムービーがメイン。
スチール写真はおまけみたいなものだったんじゃないかな。
たとえばフレンチのいいレストランに行っても、
タレントさんがテーブルにつき、
そのまわりに収録のためのカメラが3台入って、
ほかに、一眼レフを構えたぼくがいるわけです。
ぼくの仕事は、料理を撮ることがメインでしたから、
料理ができあがったらまず最初にぼくの前に届くんです。
おいしそうなうちに撮れ、ということですね。
もっとも、ケースは2つあって、
予算と状況が許せば
タレントさんの食べるムービー用と、
ぼくが撮るスチール撮影用の料理が
ふたつ届く場合もあったんですが、
たいていはひとつだけなんです。
だから「いかに速く撮るか」が勝負でした。
だって、出来立てのうちに、
タレントさんに回さなくちゃいけないから。

スウェーデンのレストランで、料理待ちで待機中。 ▲スウェーデンのレストランで、料理待ちで待機中。

──
タレントさんが食べるとき、
料理がさめちゃったり、乾いちゃったりしたら
ダメですもんね。
大江
そう。だから同行していた怖いスタッフから
「早く撮れよ?」なんてプレッシャーをかけられて。
こっちは駆け出し同然だから、もう汗かきかき、
「ちょっと待ってください」なんて言いながら、
必死に料理の写真を撮っていたんです。
でもその経験で、
料理撮影のスピード、
つまりアングル決めと光の捉え方ですね、
それがすごく鍛えられました。
それが、『LIFE』につながっているんですよ。
そこが言いたかった。
──
やっと『LIFE』につながりました! 

ドイツのビアレストランで、撮影のためにビールの泡を立てているところ。 ▲ドイツのビアレストランで、撮影のためにビールの泡を立てているところ。

(つづきます)

2024-07-22-MON

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