この二人の対談、いままで
「ほぼ日」上になかったのが不思議なくらいです。
直木賞作家であり、最近では
「週刊文春」のエッセイの連載回数が
ギネス世界記録に認定されるなど、
常に第一線で書き続けている林真理子さん。
ご存知の方もいるかと思いますが、林さんは
かつてコピーライター講座で糸井と出会い、
東京糸井重里事務所(現:ほぼ日)で
働いていたこともあるんです。
このたび、山梨で開催中の「まるごと林真理子展」に
糸井が寄稿したのをきっかけに、
ほぼ日オフィスで対談を行いました。
ずっと会っていなかったという
長い年月を経て、いま互いに思うことは‥‥。

写真 小川拓洋

>林真理子さんのプロフィール

林真理子(はやしまりこ)

1954年山梨県生まれ。日本大学芸術学部卒。
コピーライターとして活躍後、1982年に
『ルンルンを買っておうちに帰ろう』でデビュー。
『最終便に間に合えば』『京都まで』で直木賞、
『白蓮れんれん』で柴田錬三郎賞、
『みんなの秘密』で吉川英治文学賞を受賞、
『アスクレピオスの愛人』で島清恋愛文学賞を受賞。
2018年、紫綬褒章を受章。
2020年には「週刊文春」で37年間続けてきた連載が
「同一雑誌におけるエッセーの最多掲載回数」として
ギネス世界記録に認定される。

 

YouTubeチャンネル「マリコ書房」

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第2回 セントラルアパートの時代。

糸井さんの事務所で働きはじめてすぐに、
ちゃんとした経理や秘書の方が来たんです。
でも私は半年くらい、
まだぼーっと電話の前に座ってました。
ある日、電話がかかってきて、その相手が
「江川ですけど」と言うんです。
ちょうど江川問題があった後で、
「えっ! 江川さんですか。いま糸井は
外出中ですけど、いたらどんなによろこぶか‥‥」
「めずらしいですね、そんな人」
「もう、みんなファンなんです」
そんなやりとりで私が興奮してたら、
帰ってきた糸井さんが
「それ絶対、南伸坊だ」っておっしゃって。
糸井
(笑)
めくるめく日々でした。
若い方はご存知ないかもしれませんが、
当時、糸井さんの事務所があった
原宿のセントラルアパートには、
すごい人ばかりが集っていましたね。
1階にはレオンという喫茶店があって、
そこからパックマンが流行ったわけですけど、
クリエイターが集って、絶えず何かが生まれていて、
あの場所のこと、どう言えばいいんでしょう‥‥。

糸井
ああー。何だろうねぇ。
原宿でほかに行く場所がなかったんだよね。
あと、本丸は銀座にあるのに、
原宿に勤めてたり、原宿で何かしてるというのは、
当時でいえば、サブカルなんです。
はい、サブカル。
糸井
山本寛斎さんが歯を磨きながら
外をヘンな格好で歩いていたりして、
それ自体が、俺を見てくれっていう
キャンペーンだったんですよね。
写真家の鋤田正義さんや操上和美さんもいましたし、
外国人から見ると、銀座じゃないところに
そういう場所があること自体がおもしろくて、
レオンにロキシーミュージックの
ブライアン・フェリーとか
デヴィッド・ボウイとかが来るんだよ。
ぼくはデヴィッド・ボウイに
握手してもらったことがあるもん。
ひえーー。
糸井
ひえーーだよね、いま思えば。
デヴィッド・ボウイの写真を
鋤田さんが撮っていたけど、
あの二人が会ったきっかけも、
コネクションがあったんじゃなくて、
イギリスで、鋤田さんが
「日本から来たカメラマンです、
あなたに会いたい」
と言って飛び込みで会ってるわけ。
当時の世界の有名な人たちは、ゆるかった。
ああ、そうですね。
糸井
(マッチ箱を出して)
これ、復刻したらしいよ。レオンにいた誰かが。

なつかしいです、レオン。
パーソンズの岩崎さんが、
いつもレオンの窓際に座って、
通行人の格好をずっと見てたという有名な話もあります。
糸井さんにもいろんな人から
電話がかかってきましたね。
糸井
いろんな、変わった人が周りにいましたね。
私もその一人だったと思うけど、たぶん。
糸井
ヘンな人ほいほいなんだね、俺は(笑)。
いまはそういうのないな。
ヘンな人っていう役割の人がいないのかな。
昔はもうちょっとクリエイティブ関係にいたけど、
いまは芸人さんのほうに行っちゃってるのかも。
糸井
ああ、そうかもしれない。
いろんなことを覚えてるねぇ。
仕事してなかったよね、思えば。
はい、私は
電話番をしながら、ぼーっとしてただけ。
糸井
あなたは、だいたい小説読んでたんですよ。
電話の前で。
失礼しました‥‥。
糸井
ほんっとに読んでるんですよ。
それはすごいよなぁ。
時給をいただいて、すみません。
それで、お昼はいつも
ケンタッキーフライドチキンで買ってました。
糸井
そうそう。あまりにそればっかりだから
「禁止」って言ったこともあった。
でも、食ってやんの、下でこっそり(笑)。

だって、当時はお弁当もそれほどなかったし、
一番手近で食べられるものだったんです。
糸井
あのころは、何かになろうとしてたの?
やっぱりコピーライターで身を立てようと思ってましたし、
糸井さんからお仕事もいっぱいいただきましたよ。
フリーで食べていけるぐらいの仕事を
糸井さんからもらっていたと思います。
その後、糸井さんが秋山道男さんを紹介してくださって、
秋山さんから西友の仕事をいただいたり。
だけど、どうもねぇ‥‥。
糸井
向いてない(笑)。
評判が悪いんですよ、どこ行っても。
下手とか言われて。

糸井
コピーライターという商売に向いてる人って、
作家に向いてる人と全然違うんだよね。
いまSNS上でもいろいろなものを書く人が増えているけど、
コピーライターに向いてる人というのは、
そんなにたくさんはいないね。
仲畑くんが一番向いてるよ、やっぱり。
俺も向いてるけども、
俺はどっちつかずなんだと思う。
林真理子は、もうはっきり向いてなかったねぇ。
向いてなかったです。
糸井
でも、何かになろうとしても、
入り口が見つかりにくかったから、
当時はコピーライターになろうとするほうが
よかったんだよね。
そこを入り口にして人と知り合えば、
雑誌ライターの仕事もけっこうもらえたし、
根性がなくても雑誌の分量ぐらいは書けるから。
そうですね。でも、雑誌からも
そんなに仕事はもらえなかったですけども。
糸井
一人さ、雑誌の編集者で、林の書いたものを
「投稿エッセイがすごくいいんですよ」
と言ってた人がいたんだよ。
やっぱりって言ったの、俺。
そういうやつはコピーライターには
向いてないよなぁって。
それから、その人が
『ルンルン~』を手がけて大ヒットして‥‥。
『ルンルンを買っておうちへ帰ろう』の
担当だったのは松川邦夫さんですね。
糸井
そうだ、松川さん。
彼とはあのあともずっと一緒だったの?
はい、いろいろお世話になりましたが、
お亡くなりになって‥‥。
糸井
そうかあ‥‥。
そのころ、私は私で、
編集者の見城徹さんに出会って、
不思議で強力な見城マジックに
ずるずると引っ張られまして。
糸井
うんうん。
でも、それがよかったんじゃないの。
見城さんとは喧嘩して
長い間会ってなかったんですが、
このごろ復活して、また会うようになりました。
糸井
そうだったんだ。
秋山道男にしたって、
林真理子の使い方をどうすればいいんだろう、
ということをいつも考えてたよね。

そうですか、ありがたいですね。
秋山さんがお亡くなりになったのも、
本当に悲しかったです。
糸井
そうだね。もういないんだよなぁ‥‥。
あのころから思えば、
いまは人と会う機会が
どんどんなくなってますよね。
レオンのような、無理に何かしなくても
人と会える場所がだんだん減っていった気がする。
でも、あのころレオンは
私には少し敷居が高かったですよ。
あそこで堂々と座っていられるのって、
鋤田さんとか糸井さんとか
そのクラスの人じゃないとできなかったです。
ある日、糸井さんにフランセで
ランチをおごってもらってたら、
宇崎竜童さんが来たんです。
「糸井さん久しぶり」って。
私、芸能人って見たことなかったので、
すごい、と思って。
宇崎さんとその後お目にかかったときに、
「はじめまして」とおっしゃったので、
「はじめてじゃないんです」
と申し上げたんですけど、
覚えているわけないですよね。
とにかく糸井さんの横にくっついてたら、
すごい人がいっぱい来て、
あいさつしたのを見てたんです、当時。

糸井
「あいさつしたのを見てたんです」って、
いや、すごい立場だね、それ(笑)。
あとさ、聖子ちゃんの本も出したよね。
松田聖子さんの
『青色のタペストリー』ですね。
あれ、中にしっかり私の本の宣伝まで
入れてしまって‥‥。
聖子さんには、コンサートの後などに
ホテルの部屋でお話を聞かせていただいて、
たのしかったです。
糸井
誰かの本を出すことが
通過儀礼みたいな時期があったね。
糸井さんの『成りあがり』の成功があったから、
みんなああいう本をつくりたがったんですよ。
そうだ、あのころ糸井さんがお書きになった
『スナック芸大全』という本、
私もライターの一人として書いてますけど、
先日、SHOWROOMの前田裕二くんが、
「いまスナックの時代なんですよ」と言うから、
うちに1冊あったあの本をあげたんです。
40年近く前にこれを考えた人がいるということに
感動してました。
糸井
へぇー。
今になって、いろんなことがつながってるんです。

(つづきます)

2020-11-05-THU

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  • まるごと林真理子展
    山梨県立文学館にて
    11月23日(月・祝)まで開催中!
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