大型の猛禽類「クマタカ」で狩りをする
日本で最後の鷹匠・松原英俊さん。
25歳のときに鷹匠として独立し、
68歳になったいまも鷹と暮らし、
鷹と狩りをつづけています。
本格的な冬がくる前の昨年12月のこと。
そんな松原さんの取材に同行してくださったのが、
狩猟経験のある写真家・幡野広志さんでした。
山形県天童市にある松原さんのご自宅で、
幡野さんがインタビューするようなかたちで、
いろいろなお話をうかがってきました。
幡野さんが撮影した写真とあわせて、
全6回、どうぞおたのしみください。

>松原英俊さんのプロフィール

松原英俊(まつばら・ひでとし)

鷹匠

1950年青森県青森市生まれ。
慶應義塾大学文学部東洋史学科卒業後、
山形県真室川町の鷹匠・沓沢朝治氏に弟子入り。
1年後に独立し、加無山のふもとの山小屋で
鷹匠としての生活をスタートさせる。
現在、山形県天童市在住。
家族は妻と息子。
松原さんの半生をまとめた
書籍『鷹と生きる』(山と渓谷社)が発売中。

>幡野広志さんのプロフィール

幡野広志(はたの・ひろし)

写真家

1983年東京都生まれ。
2010年から広告写真家・高崎勉氏に師事、
「海上遺跡」で「Nikon Juna21」を受賞、
2012年にエプソンフォトグランプリ入賞、
同年、狩猟免許を取得。
2017年に多発性骨髄腫を発病。
著書に『ぼくが子どものころ、
ほしかった親になる。』(PHP研究所)。

Twitter:@hatanohiroshi
note:幡野広志

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第2回 幼いころの記憶。

幡野
松原さんの師匠って、
どんな方だったんですか。
松原
沓沢さんは、お父さんも鷹匠で、
こどもの頃から鷹と生きてきたような方でした。
鷹に対する思いや技術は、
やっぱりすごいものがありました。
ただ、私が24歳で弟子入りしたとき、
師匠はすでに79歳の高齢でした。
基本的な技術を学ぶことはありましたが、
師匠といっしょに山に入って、
狩りをすることはありませんでした。
鷹匠になるには、鷹と雪山を歩き、
猟の経験を重ねることが
なによりも大事です。
でも、それができませんでした。
なので、師匠とも相談をして、
弟子入りから1年ほどで独立したんです。
そこからは師匠に譲り受けた鷹とともに、
山小屋に移り住みました。
幡野
山小屋?
松原
加無山のふもとの山小屋です。
ガスも電気も水道もなく、
明かりはランプやロウソクだけ。
いちばん近くの民家までは、
歩いて2時間半くらいかかりました。

幡野
その山小屋に住みながら、
独学で狩りを学ばれたんですか?
松原
そうです。
狩りについては独学です。
なので当然のことですが、
はじめは失敗ばかりで、
最初の獲物を捕まえるのに、
3年半かかりました。
幡野
3年半?!
松原
はい。
幡野
それでもあきらめることなく‥‥。
松原
鷹匠になるのをあきらめようとか、
別の仕事を探そうとか、
そう思ったことは一度もなかったです。
幡野
はぁぁ。
松原
はじめて獲物を捕まえたのは、
1979年の2月でした。
弟子に入ってから4年半目の冬。
じぶんの訓練した鷹で、
はじめて野生のウサギを捕まえました。
そのときの感動は一生忘れられません。
ほんとうにうれしかった。
うれしくて、うれしくて、雪の中で
「この日のために俺は生きてきたんだ!」
「この瞬間を追い求めてきたんだ!」って、
声をあげながら号泣してしまいました。
幡野
あぁ‥‥。

松原
辛い時期ではありましたが、
たとえ5年かかっても、10年かかっても、
いつか絶対に鷹匠になるんだと、
そう思いつづけていました。
幡野
その間、生活はどうされていたんですか。
獲物が捕まえられないと、
収入もまったくないわけですよね。
松原
当時、ウサギの肉も毛皮も、
ほとんど売れない時代だったので、
獲物を捕まえても捕まえなくても、
そんなにちがいはないんです。
師匠からは弟子入り前に
「もう鷹匠で生活できる時代ではない」と、
なんども言われていましたし、
私もそのことは知っていました。
そもそも鷹匠でお金をかせぐつもりは、
はじめからなかったんです。
現実的な話をすると、
鷹狩りができない夏の間に、
農家の手伝いや力仕事をしたりして、
鷹とじぶんが生きていけるくらいの
生活費をかせいでいました。
幡野
年にどれくらいの収入があったんですか。
松原
当時は日給が4000円、
20日間はたらいて8万くらいでした。
それを3カ月やれば、24~5万になります。
山小屋での生活だったので、
それだけあれば1年過ごすことができます。
お金をつかうのは、
冬を越すための食費くらいでしたから。
その他の季節は、
畑で野菜をつくったり、
山菜やキノコを採ったりするので、
ほとんどお金はつかいません。
鷹の世話をしながら、
自給自足の生活をするだけです。

幡野
お話を聞いていると、
松原さんは鷹匠としての生き方に、
まったく迷いがないというか‥‥。
松原
あぁ、そうですね、はい。
迷いはないです。
幡野
それこそ沓沢さんのように、
親が鷹匠というわけでもないのに、
なぜ鷹匠という生き方に、
そこまで強い確信を持てたのでしょうか。
松原
私がはじめて鷹匠のことを知ったのは、
こどものときに読んだ『爪王』や、
師匠が出ていた『老人と鷹』という
ドキュメンタリー番組だったと思います。
そういう作品にふれたとき、
本物の鷹匠にも会ったことがないのに、
「鷹と生きるよろこび」のようなものを、
ハッキリと想像できてしまったんです。
幡野
想像ができた?
松原
こどものときの強烈な想像力によって、
鷹匠の生き方だったり、幸せというものを、
ハッキリと感じとることができたんです。
そのときの記憶がずっとあったので、
獲物がとれなかった間も、
「鷹匠になれたらどんなに幸せだろう」と、
思いつづけることができました。

幡野
松原さんはこどものときから
「鷹匠になりたい」と思っていたんですか。
松原
いえ、こどものときは
「そういう生き方があるんだ」と、
ただ純粋に感動しただけでした。
私が本気で鷹匠になろうと思ったのは、
大学3年のときでした。
3年生のときに1年間休学をして、
岩手県の山奥の農村で、
住み込みではたらいたことがあったんです。
その村はすごく貧しい村で、
ほとんどの家にテレビも冷蔵庫もありませんでした。
電気はなんとかありましたが、水道はなくて、
みんな井戸水で生活をしていました。
ふだんの生活はすごく不便でしたが、
村人同士、昔ながらのつながりがあって、
お互いを助け合いながら、
みんなでのびのびと暮らしていたんです。
村の自然はほんとうに美しかったし、
いつも鳥の声が聞こえていて、
山にはたくさんの動物が住んでいました。
1年間その村に住みながら
「じぶんにとっての幸せとはなにか」
「これからじぶんはどう生きていきたいか」
ということについてじっくり考えました。
そうして、村の生活を終えて大学に戻るとき、
ひとつの答えのようなものが見つかりました。
それは「どんなに貧しくてもいいから、
じぶんも自然のなかで、
いきものと関わりながら生きていきたい」
というものでした。
そのとき、ふと浮かんできたのが、
幼いころに小説やテレビのなかで見た
「鷹匠」の姿だったんです。
幡野
そこではじめて「鷹匠になりたい」と。
松原
はい。
その記憶がよみがえってきたあとは、
もう鷹匠以外の選択肢は、
私にはないと思いました。
鷹匠という生き方には、
じぶんが求めているものすべてが
あるような気がしたんです。

(つづきます)

2019-02-01-FRI

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