俳優の言葉は編集しにくい。扱いづらい。
きれいに整えられてしまうのを、
拒むようなところがある。語尾でさえも。
こちらの思惑どおりにならないし、
力ずくで曲げれば、
顔が、たちどころに、消え失せる。
ごつごつしていて、赤く熱を帯びている。
それが矛盾をおそれず、誤解もおそれず、
失速もせずに、心にとどいてくる。
声や、目や、身振りや、沈黙を使って、
小説家とは違う方法で、
物語を紡いできたプロフェッショナル。
そんな俳優たちの「言葉」を、
少しずつ、お届けしていこうと思います。
不定期連載、担当は「ほぼ日」奥野です。

>田中泯さんのプロフィール

田中泯(たなか みん)

ダンサー。1945年生まれ。66年クラシックバレエとアメリカンモダンダンスを10年間学び、74年より独自の舞踊活動を開始。78年にパリ秋芸術祭『間?日本の時空間』展(ルーブル装飾美術館)で海外デビューを飾る。02年の『たそがれ清兵衛』でスクリーンデビュー、同作で第26回日本アカデミー賞新人俳優賞、最優秀助演男優賞を受賞。ほか、主な映画出演作は『隠し剣鬼の爪』(04)、『メゾン・ド・ヒミコ』(05)、『八日目の蝉』(11)、『外事警察その男に騙されるな』(12)、米映画『47RONIN』『永遠の0』(13)、『るろうに剣心京都大火編/ 伝説の最期編』(14)、『無限の住人』『DESTINY 鎌倉ものがたり』(17)、Netflix映画『アウトサイダー』『羊の木』『人魚の眠る家』(18)、『アルキメデスの大戦』(19)、韓国映画『サバハ』(19・未)、『記憶屋あなたを忘れない』(20)、『バイプレイヤーズもしも100人の名脇役が映画を作ったら』『いのちの停車場』『HOKUSAI』(21)、今後の公開待機作に『峠最後のサムライ』などがある。

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第5回 踊りながら死んでいきたい。

──
泯さんが踊りを踊るときに、
たまに、お父さんの残したお洋服を、
着てらっしゃると知って。
はい。
──
そのことがすごく琴線に触れました。
洋服って、
着ていた人がいなくなったあとに、
着ていた人を、
より強く感じさせるものだなあと、
ずっと思っていたので。
ぼく、裸のダンサーだったんだけど、
衣装を着はじめたとき、
最初、「雨がっぱ」だったんですよ。
──
へえ‥‥雨がっぱ。
アイスランドへの旅に一緒に行った
あの友人の田原って写真家が、
イタリアの市場で、
イタリアの兵隊さんの雨がっぱをね、
買ってきたんです。
で、「これ、やるよ」って、くれた。
それが、何だか、よかったんです。
──
よかった。
裸で踊っていたころの、
あの皮膚の感覚みたいなもの‥‥が、
その雨がっぱを着ても、
消えてなくならない気がしたんです。
なので、しばらく着ていたんだけど、
次に着たのが、親父の黒の上下。
父は、警視庁の警察官だったんです。
──
はい。
それ、支給された洋服なんで、
なかなかに「ものがいい」んですよ。
まあ、今でこそ、
穴があちこちに空いてはいますけど、
つくりがしっかりしていたんで、
親父が死んでからも、
たまに着たりなんかしていたんです。
──
お父さんて、どういう方でしたか。
小学校を出ただけの警察官なんです。
でもね、
懸命に勉強して昇級していきました。
家の中が「賞状だらけ」なんですよ。
親父のもらった、賞状でいっぱい。
でも、額縁に入れて
うれしそうに飾るわけじゃなくて、
そこらへんに、丸めておく人でした。
──
そうなんですね。こだわりなく。
それどころか、警官を辞めたあと、
いまのぼくくらいの年のときかなあ、
家の庭で‥‥
猫の額ほどほどのちーっちゃい庭で、
ぜんぶ、燃やしてました。
──
え、その賞状を‥‥?
うん。「こんなもの、関係ねえから」
って言いながら、燃やしてました。
カッコいい親父だなあと思いました。
──
はー‥‥。
これまで自分のたどってきた道なんて、
どうでもいい、
きれいサッパリ消えていいんだ‥‥と。
でも、親父が死んで葬式をあげたとき、
桜田門のほうから、
親父の経歴がどーんと届いたんだよね。
──
なんと。
親父が、あれだけ気持ちよく、
自分の過去を燃やしたっていうのにね。
その気持ちを無下にされた気がしてさ、
すごく腹が立ったんだけど‥‥
でも、そうか、
それが世の中ってもんだなとも思った。
──
と、言いますと?
「自分じゃ、消せない」ってことだと。
自分のことは、自分では。
──
ああ、なるほど。
泯さんは、お父さんからの影響について、
ご自身では、
どういうところに感じたりしていますか。
あまり、近くにいる人じゃなかったから。
──
お父さんが、ですか?
どっちかって言うと、
親父が近くにいたときっていうのは、
ぼくにとっては、
どこか非日常的だったというのかな。
たとえば‥‥河原に死体が上がった。
昔はそんなことも、まあ、あって、
ぼくも、それを見にいったんですよ。
──
ええ。
すると、どこから来たのか、
いつの間にか、父親がいるんですよ。
で、ぼくを見つけると、
死体に群がる人の前に押し出したんです。
で、「見とけ」って。
──
泯さんのドキュメンタリー映画でも
描かれているエピソードですが‥‥。
そんなことを、思い出しますね。
──
それ‥‥自分の子どもを、
死体を見とけと前にぐっと押し出すって、
どういう理由なんですか。
それは、わからないです。
あのときの親父が何を考えていたかって、
自分にとっては、
ひとつの「神秘」でしかないです。
あとでいろいろ、
親父が読んでた本とかを調べたりすると、
なるほどと
思わないこともないんですけどね。
──
ええ。
まあ、そのへんは説明したくもないです。
言葉で説明しても、わからないと思うし。
とにかく、親父とぼくは、
ほとんど言葉を交わさない間柄なんです。
──
そうだったんですか。
一緒に酒を飲んだのも、たった一度だけ。
ものすごく飲兵衛な父親だったんだけど。
その「たった一度だけ」のときは、
「おまえがいつも行く店に、連れて行け」
って、言われて。
──
へえ‥‥。
なので、よく行く飲み屋に一緒に行って、
おたがい、まあよく飲みましたけど、
おたがい、ほとんど、しゃべらなかった。
おかみさんが、あきれて
「変な人たちねえ」なんて言ったくらい。
黙りこくって、えんえん飲みました。
──
飲んでるだけで、よかった?
それでこと足りていた‥‥って感じかな。
それに無口どうしで一緒に酒を飲むのも、
あんがい楽しいもんなんです。
──
お話をうかがっていると、
泯さんは、まずはひとりの「子ども」で、
いまでも大きなものとして、
その子どもの時代の思い出があって、
そののちに、
ダンサーとしての人生がはじまって。
ええ。
──
57歳からは「映画に関わる人生」も、
スタートしたわけですけれど。
そうですねえ。思いがけないことに。
──
第1作目の『たそがれ清兵衛』以降、
国内外からハリウッドまで、
たくさんの作品に出ることになりますが、
最初の質問に戻ってしまいますが、
それでも、
いまだに「俳優ではない」って気持ちは、
変わらないんですか。
もうね、来年で「20年」になるんです。
その最初の映画に出てから、20年。
──
キャリアと言うか、「年数」で言ったら、
決して短くないですよね。
でもね、まだまだ「ヒヨコ」です。
まわりの俳優さんたち‥‥
とくに映画を志してやってきた人たちの、
積み重ねてきた稽古や、その経験。
その重みを考えると、
20年経っても、まったくのヒヨコです。
──
そう思われますか。
思いますねえ。やればやるだけ。
ちっちゃなことかも知れないんですけど、
ああ、なるほど、そうか、
「俳優」って人たちは、
こういうことをずっとやってきたんだな、
とか、よく思いますから。
──
あの、ひょっとすると、
「自分は、まだ俳優であるとは言えない」
という気持ちなんですか?
そうです。
──
そういうことでしたか‥‥。
そして何より、自分は、
まず「ダンサー」であるってことです。
ぼくからダンサーをなくしてしまえば、
俳優だとか何だとか、
そんなことも言ってられなくなるので。
──
57歳からの「映画の人生」は、
泯さんの「ダンサーとしての人生」には、
どんな影響を及ぼしていますか。
ひとつには「言葉」というものについて、
以前より、
はるかに「考える」ようになりました。
そのことは、ひるがえって、
じゃあ、身体を使った踊りというものが、
ぼくにとって、
どういうものになっていけばいいのか、
そういうことについても、
いっそう深く考えるようになったんです。
──
映画やお芝居に関わるようになって、
「言葉」について考えて、
「身体」についても、もっと考えて。
そうですね。
──
おもしろさって、どこにありますか。
お芝居、演じるときのおもしろさ‥‥は。
カメラの前で台詞という言葉を口に出す、
身体が動く、映像に録られる‥‥
最終的には、スクリーンに映し出される。
そういう一切のことに対して、
自分はどうあるべきなのか‥‥について
考えることが、楽しいです。
それは、これからもきっと楽しいです。
その意味で、自分にとっても、
可能性のある仕事だなって思っています。
──
お芝居、映画、俳優‥‥という仕事は。
もう40年ちかくも前ですが、
ぼくは土とともに生きていこうと思って、
アスファルトの上を去りました。
以来、農業をやりながら、
木造りの家を修復しながら暮らしてます。
でも、都会を否定しきったわけでもない。
そういう人間が、
他の俳優と一緒に映画と出演したとき、
都会の身体とは、
どうしても、どこかが違ってくると思う。
──
はい、違うと思います。
匂いもそうだし、存在の仕方も、たぶん。
若い俳優たちも、どんどん出てきますね。
そうすると、
あっちとこっちの違いというものは、
ますます明確になっていくと思うんです。
だから‥‥台詞が覚えられなくなったら、
まあ、おしまいだろうけども。
──
ええ。
それまではね、しがみつく気はないけど、
望まれるかぎり、
そして、その「俳優の仕事」が、
ぼくの好奇心を満たすものであるかぎり、
続けようと思っています。
──
踊りは‥‥。
踊ります。もちろん。それは、死ぬまで。
ぼくは、死ぬ瞬間まで踊る気でいるから。
──
その瞬間、まで。
はい。踊ります。
踊りながら
「ああ、俺は、いま、死んでいく‥‥」
という瞬間が来ればいいと思っています。

(おわります)

写真:伊丹豪

2022-01-28-FRI

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  • 犬童一心監督によるドキュメンタリー
    『名付けようのない踊り』

    東京のアスファルトの上で、
    いなかの路地で、ヨーロッパの石畳で、
    和装で、黒いオイルにまみれて、
    中村達也さんの激しいドラムとともに。
    さまざまな場で、
    さまざまに踊る田中泯さんの姿を
    犬童一心監督が追った
    ドキュメンタリー映画が公開されます。
    そこがどこであろうが泯さんは、
    地球と踊っているように見えました。
    途中で出てくる大きな弁天桜も、
    何だか、踊っているように見えました。
    田中泯さんという人について、
    細かな説明があるわけではないですが、
    田中泯さんというダンサーに
    触れるような感覚を覚える映画でした。
    とても、おもしろかったです。
    映画の公式HPはこちらからどうぞ。


    『名付けようのない踊り』

    1月28日(金)より、
    ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国ロードショー
    配給:ハピネットファントム・スタジオ
    ©2021「名付けようのない踊り」製作委員会