2024年1月1日、能登を地震が襲いました。
なんとか道が通れるようになったころ、
私たちは自分たちにできることを探して、
能登のあちこちを取材させていただきました。
そんななかで出会ったのは、珠洲市で
古民家レストランを運営している坂本信子さん。
日々、前向きに、できることを探して取り組み、
周囲の人たちもそこに集まってくる。
その姿は気仙沼の人たちを思い起こさせました。
「信子さんと、気仙沼の和枝さんを会わせたい」
それは、私たちが能登に対してできる、
とても大切な仕事であるように思えました。
そして夏の終わりに、ふたりは会って話しました。

>坂本信子さん

坂本信子(さかもとのぶこ)

珠洲市で築約200年の古民家をつかったレストラン「典座」を
夫の市郎さんとともに2005年から切り盛りしている。
震災後は、避難所に出すお弁当づくりを企画。
毎日休むことなく作業するだけでなく、人員も確保して、
珠洲のあたらしい仕事をつくった。
現在は珠洲の4つの飲食店からなる
「合同会社すずキッチン」を立ち上げるなど、
つねにあたらしい仕事に追われている。

>斉藤和枝さん

斉藤和枝(さいとうかずえ)

大正10年からつづく「斉吉商店」の専務。
斉吉商店は看板商品「金のさんま」「斉吉海鮮丼」をはじめ
新鮮な魚介を使った加工品を販売、
おいしさに魅了されたファンを全国に持つ。
オンラインショップで販売される季節商品は
毎回すぐに完売してしまうほどの人気。
「気仙沼つばき会」「鶴亀の湯・鶴亀食堂」への参加など、
気仙沼を盛り上げる活動を積極的に行う。

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信子
4つのお店が集まって
「合同会社すずキッチン」をつくったんですが、
まあ、難しいことも多くて。
発災から後につくった会社には、
補助金がほぼゼロなので。
和枝
ああ、そうですね。
4つのお店にはそれぞれ
補助金をもらえる権利がありますけど、
新しい合同会社にはそれがない。
信子
そうなんです。
4軒は権利があって補助金は出ます。
でも、そのお金は、私たちもそうなんですけど、
合同会社の仮設店舗にじゃなくて、
自分のお店のほんとうの復興のときにつかいたい。
だから、合同会社すずキッチンは、
なるべくお金を使わないで回していきたいんです。

和枝
それはすごく大事ですよね。
つかえる補助金は、仮設の店舗じゃなくて、
本設のために取っておきたい。
信子
そうなんですよ。
仮設の店舗も目先のこととして大切なんですけど、
「いやここにお金を使っちゃいけないんだよ」って、
ちゃんと伝えていかなきゃいけない。
和枝
まさに私たちも、被災したあと、
「二段構えだぞ」って思ってたんですね。
まず、いまの暮らしをなんとか続けていって、
ちゃんと自分には毎日仕事があること。
それが自分たちにとっても、
会社で働いてる人たちにとっても、
精神的にとても大事なんです。
そしてそのうえで、本設については、
じっくり考えて、計画をたてて、
投資しなくちゃいけない。
そこにこそ自分たちの補助金をつかいたい。
信子
ほんと、そうなんです!
和枝
その二段構えになってるっていうのは、
いまうかがってても、
すごく大事だなって思いました。
信子
で、そういうことを、よその土地に行かず、
この土地におったら考えられるんですよね。
ここを離れたら、たぶん、なんていうのかな、
思いが、そういうふうにめぐらない。
珠洲にでお店を続けるために、
っていう前提がなくなってしまうので、
みんなそれぞれが違う答えを出してしまう。
和枝
そうですねぇ。
信子
私の友だちで、珠洲のことが大好きで、
これまで、珠洲でものをつくって、
それをしっかり営業して売ってた人でも、
家が津波に流されて別の土地に行ってしまうと、
ぷつんとなにかが切れたような感じで、
なんか、もうやめようかなとか、
私、アルバイトでもべつにいいわとか、
そうなっちゃったりするんです。
もちろん、それが悪いわけではないですが。
和枝
ええ、ええ。
信子
私は幸い家が残ったので、
この家を残すためにっていうことをベースに、
いろいろ考えることができた。
でも、そうじゃない人も多いですし、
商売の規模も種類もそれぞれ違いますから、
まあ、いろんなたいへんさがありますよね。
和枝
いや、ほんと、いろいろですよね。
信子
はい。たとえば、いまだと、
「能登の商品を出せば売れる」
というのはわかってるんですよ。
注目されているし、応援してくれる方も多いので。
だけど、なんにもないんですよね、ほんとに(笑)。
うちの主人が、珠洲焼をやってるんですけど、
地震で窯が壊れてしまって、
その修繕にも時間がかかるんです。
でも、バイヤーさんは、
「なんでもいいから早く持ってきて」
みたいなことを言ってくる。
つくれないんですよ、悔しいけど。
和枝
ほんとは、注目されているこのときに、
能登や珠洲のよさを知っていただきたいですよね。
信子
そう、そう。
だから、いま、私たちは、飲食だけじゃなくて、
この場所の宿泊をもうちょっと
強化していこうと思ってるんです。
いまは売るものがないけれど、
ここに来てもらって、泊まってもらって、
能登や珠洲のよさを知ってもらって、
親戚みたいになってもらえれば、
「さよなら」じゃなくて、
「またねー」みたいにつながっていけるかなと。
和枝
ああー、それはいいですね!
信子
うち、子どもたちはみんな能登から出ちゃって、
誰もいないんですけど、
私たちは、わーわーしてるのが好きなんで、
いつも誰かが来てくれればたのしい。
料理をたくさんつくっても無駄にならないし。
私、いっぱいつくりたいほうなんで(笑)。
和枝
あの、いまの話をうかがって、
ぜひ知っていただきたいことがあって。
気仙沼にね、唐桑っていうところがあるんです。
信子
「からくわ」。
和枝
はい、唐桑半島っていう半島があって、
気仙沼の市内から、ちょっと遠いんです。
車で30分くらい走ったところ。
で、その唐桑半島っていうところは、
震災の前からカキやホタテの養殖をしていて、
あとは遠洋マグロ船に乗る漁師さんが
いるような町だったんです。
そこは独特の文化や行事やしきたりがあって、
高齢化も進んでいたし、いってみれば、
震災前はあんまり外部の人たちが
入るような場所じゃなかったんですね。
そこにね、私たちの友だちなんですけど、
菅野一代さんっていう人が嫁いで来たんです。
久慈という『あまちゃん』の舞台だった場所から。
そこから一代さんが嫁いできて、
私、彼女から牡蠣を買っていたので、
震災のまえから知り合いだったんですけど、
ものすごくオープンな人なんですね。
で、東日本大震災のあと、彼女は
いろんな人をつないでいくことになったんです。
だから私は、彼女が、唐桑から外に開いている
「窓」だなと思ってたんです。
信子
へぇー。

和枝
「窓」のような人だなと思って。
それが、まさに、信子さんのような感じなんです。
信子
わたし(笑)?
和枝
はい。一代さんの家は、震災のときに被災して、
1階が水浸しになったんですね。
でも、屋根はしっかりしてて、
上の階はつかえたから、ボランティアの人たちが
そこに集まりだしたんですよ。
もう、屋根と寝る場所だけあればいいから、って。
一代さんと彼女の家族も、「はいはい」って、
「いいよいいよ」って泊めてあげたので。
もう、床の崩れたところにベニヤ板渡して、
すっごいひどい状態だったんですけど、
雨風しのげればいいからって。
東北の寒い冬もそういう状態で過ごしたんですよ。
信子
わあ、すごい。
泊めるほうも行くほうもすごい(笑)。
和枝
でもね、なんていうんですかね、
なぜそこに人が集まっていたかというと、
泊まる環境があったからだけじゃなくて、
みんな、一代さんがそこにいるから
唐桑に集まってたような気がするんです。
信子
ああ。
和枝
私は、今回、信子さんとご主人にお会いして、
ここに来る人も同じなんじゃないかなって、
すごく思ったんです。信子さんに会いたいから、
信子さんやご主人に会いたいから、
たぶん、ここに来てるんじゃないかなって。
唐桑の一代さんは、
もともとは牡蠣の養殖をしてたんですけど、
そんなふうにボランティアの学生さんたちが
たくさん集まりはじめたし、泊まりにも来るので、
震災のあと、復興の助成金と
クラウドファンディングをつかって、
とうとうそこを正式に宿にしたんです。
「つなかん」っていう名前をつけて。
信子
わあ、すごい!
和枝
宿にしたって言っても、
もともとのお家のままなんですけどもね(笑)。
個室で鍵がかかるようなところじゃなくて、
唐桑のふすまのお家に泊めていただく感じ。
それこそ、いま信子さんおっしゃったような、
親戚の家に「ただいまー」って
帰ってくるような宿にしたんです。
信子
はーー。
和枝
それで、震災から13年経って、
そこに集まった人たちがどうなったかというとね、
移住してきた子たちがけっこういるんです。
地元の人と結婚して、もう子どもがいたり。
信子
おおーー、そうなんですか!
和枝
漁師さんと結婚した人もいる。
とうとう、そういうことが起きてきたんです。
信子
いいですねぇ!

(つづきます)

2024-12-11-WED

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  • *こちらの対談は2024年8月に行われました。