今回、特集「色物さん。」第4弾では、
特別出演というかたちで
小林のり一さんにご登場いただきます。
三木のり平さんを父に持つのり一さん、
映画、ジャズ、漫画‥‥などなど、
さまざまなカルチャーに精通しておられ、
演芸にもお詳しかったはずと
インタビューを申し込んだのですが‥‥
なんと、寄席の舞台に上がったことも!
しかもそのとき、「15歳」。
そんな仰天エピソードをはじめ、
のり一さんのお話を
「ひゃー」「えええ!」とか言いながら、
ただ聞くだけになってしまいました。
5回の連載、担当は「ほぼ日」奥野です。

※2022年7月6日、小林のり一さんがご逝去されました。
 心よりご冥福をお祈りいたします

>小林のり一さんのプロフィール

小林 のり一(こばやし のりかず)

1951年、東京・日本橋浜町生まれ。幼少期、父である三木のり平が舞台をつとめる劇場を託児所代わりに過ごす。中学から寄席やジャズ喫茶へ通う日々がはじまる。アングラ、軽演劇、ストリップ劇場、落語会ゲスト、映画、CM、バラエティ番組等出演。漫画、コント台本、エッセイ、コラム等執筆。2020年、戦後東京演劇の通史にして父・三木のり平の評伝『何はなくとも三木のり平 ーー父の背中越しに見た戦後東京喜劇ーー』(青土社)を刊行。

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第3回 劇場、寄席、ホワイトという学校。

──
のり一さんのご著書
『何はなくとも三木のり平』)には、
三木のり平さんに連れられていった「劇場」が
「保育園代わりだった」というくだりが
出てきますけど、
あれは寄席に通い出すよりも前のお話ですよね。
のり一
そうですね、もっとちっちゃいころです。
父の出ていた劇場の楽屋に
母が用事があるとき、
ぼくを家に置いとくのもアレだからというんで、
よく連れてってくれたんですよ。
芝居を見せてりゃ大人しくしているだろうって。
──
ええ、ええ。
のり一
それで、父の舞台をずっと観てたんだけど、
合間の時間になったら、
共演の越路吹雪さんや宮城まり子さんから、
お菓子をごちそうになったりね。
──
そんな保育園、すごいです(笑)。
のり一さんみたい多才な方に育つのに、
ぜったいに影響していますよね、その環境。
のり一
その後、寄席に興味を持ち出したのが、
さっきも言いましたが、13歳か、14歳で。
──
中学生ですか。
のり一
中学1年。はじめはテレビで落語を見て、
「こりゃあ、おもしろい」と思ってね。
浜町のおばに人形町末廣へ連れて行かれて、
そっからはもう、夢中になって。
寄席の楽屋へ入っていくと、
憧れの師匠がたくさんいらっしゃるんです。
ぼくにとっては、もうね、
ディズニーランドみたいな感じです(笑)。
──
のり一少年にとっての夢の国だった(笑)。
のり一
志ん生さん、なんていったらね、もう‥‥。
──
ミッキーマウスみたいなことですか(笑)。
のり一
そうそう(笑)。
──
でも、中学生で寄席をおもしろがれたのは、
やっぱり、幼少期に
劇場で喜劇に触れた経験が大きいですよね。
のり一
それはあるでしょうね。
うちのお父さんも喜劇役者だったし、
喜劇を見て育ったようなもんだったんでね。
──
当時、寄席通いをしている中学生とかって、
他にもいらっしゃったんですか。
のり一
いやあ、いませんでしたねえ。
夢中になっていたのは、ぼくだけ。
当時、志ん生師匠のところへお邪魔してね、
落語を教わったこともありました。
──
えええ、本当ですか!
のり一
うん、当時の弟子の古今亭志ん駒さんから
「うちの師匠が退屈してるから」って。
志ん生さん、そのころ身体のことがあって。
「寄席やなんかには出らんないんだけど、
落語をやりたくてしょうがないようだから、
ちょっと噺を教わりに行ってきなよ」
なんて言われまして。15くらいのころかな。
──
とんでもない経験ですね‥‥!
それって「弟子入り」とはちがうんですか。
のり一
いわゆる「弟子」とはちがいますね。
でも
「うちのせがれが、
おたくの親父さんに世話になっているから、
お礼に噺を教えてあげよう」
なんて、志ん生師匠も言ってくださってね。
──
いまのは、古今亭志ん朝さんが、
三木のり平さんにお世話になっている‥‥
という意味ですね。
のり一
うちのお父さんの芝居に、
志ん朝さんが、よく出てたもんですからね。
──
何を教わったんですか。志ん生さんに。
のり一
『道灌』って噺。
──
傘を貸す貸さない、みたいなお話ですよね。
太田道灌さんが出てくる。
のり一
うん。志ん生師匠からは
「だいたいはいいよ。
ただね、そんな体操じゃないんだから、
首をこんなに振らなくてもいいんだよ」
なんてことを教わったり。
──
いやあ‥‥すごい経験ですね‥‥それは。
なにせ歴史に残る大名人に、
それも「一対一」で、落語を教わるって。
のり一
みんな、びっくりする。話すと。
──
そうでしょうね(笑)。
古今亭志ん生さんに
噺を教わったことがあるなんて聞いたら。
のり一
師匠のお住まいは、日暮里にあってね。
とてもいいお座敷だった。坪庭もあって。
ちょいと坂を下ってった先には、
(金原亭)馬生師匠のお宅もありました。
──
志ん生さんの息子さんの、馬生さん。
えらい町内だなあ(笑)。
のり一
呑海先生にお世話になったということで、
(桂)文楽師匠や(林家)正蔵師匠に、
いろいろ声をかけていただいたりもして。
──
そんな落語会のスーパースターが次々と。
ちなみにですが、のり一さんご自身には、
おじいさまの映画監督・
中山呑海さんのご記憶ってあるんですか。
のり一
ぼくが生まれる前の年に、
電車事故で、死んじゃってるんですよね。
──
ああ、そうでしたか。
のり一
聞くと、いろいろ器用な人だったようで、
サイレント映画を辞めたあと、
芝居の演出をやったり、構成をやったり、
大道具の絵を描いたり‥‥。
浅草の劇団の「プペ・ダンサント」とか、
「笑の王国」とか、
そういうところでやってたみたいですね。
──
中山呑海さんから三木のり平さんを経て、
小林のり一さんへと続く、
その「多才の系譜」が、ものすごいです。
ちなみに、のり一さんは
寄席から遠ざかった時期もあった‥‥と
おっしゃってましたが、
それは、何かきっかけがあったんですか。
のり一
ジャズのほうに夢中になっちゃったのと、
舞台に出るようになったりしたものでね。
──
なるほど。
のり一
まあ、それでも、
浅草の松竹演芸場なんかに出てるときは、
浅草演芸ホールまでは
歩いてすぐに行けたわけだから、
しょっちゅうのぞいちゃあ、
落語を聞いたり、太鼓を叩いたりしてね。
──
太鼓も引き続きで(笑)。
それが、おいくつくらいのことですか?
のり一
21とか、22とかですかね。
もっとも、
まるきり寄席に行かなくなったわけじゃなく、
以前のように
毎日は行かなくなったっていう話ですけどね。
──
学校のころは毎日、行かれてたんですもんね。
のり一
うん。本当の学校には行かないで、
家から寄席の楽屋に直行したりもしてました。
──
寄席の楽屋が学校ですね。もうひとつの。
のり一
そうです。
学校より楽屋のほうがいろいろ勉強になるし。
将来は会社員になろうなんて気は、
もう、当時から、まったくないわけですから。

──
ちなみに、ちょっと時代がくだりますけれど、
有名人がたくさん集まっていた
四谷のホワイトというお店もご近所ですよね。
のり一
うん、ジャズミュージシャンも、マンガ家も、
みんなそこにいたんです。
糸井さんを紹介してもらったのも、その店で。
──
たとえば、山下洋輔さんやタモリさん、
赤塚不二夫さんたちが
夜な夜な集まってきたお店、ですよね。
のり一
荒木経惟さんや、編集者の秋山道男さんとか。
漫画家の上村一夫さんは
2曲くらいしかレパートリーがなかったのに
いつもギターを弾いていた(笑)。
かならず、おもしろい人が来ていたんですよ。
うちから、歩いて3分くらいのところ。
──
そこへ、毎晩のように。
のり一
そうですね、行ってました。
そのころは、たぶん26くらいだったのかな。
糸井さんって、
ぼくより3つか4つくらい年が上ですよね。
仲良くなって、糸井さんが審査員で、
横山やすしさんが司会をやっていた
『テレビ演芸』を、
見に行かせてもらったりもしてたんですよ。
──
そんなこともあったんですか。
のり一
そうそう、糸井さんが
『あとは寝るだけ』ってタイトルをつけた
テレビドラマに、
お父さんが主演で出ていたりもしましたね。
あと、忘れられないのが、
糸井さんが
「『ガロ』に漫画を描いてみない?」って
誘ってくださったこと。
──
はい、拝見したことがあります。
『青春の汗は苦いぜ』とかですよね。
すごい好きです。
のり一
描いてみんなに見せていたら、
「おもしろいね。ナベゾに電話してやるよ」
とかって言って、
渡辺和博編集長に引き合わせてくださって。
糸井さんと仲のいい南伸坊さんも、
湯村輝彦さんも、みんな読んでくださって。
あれは、うれしかったなあ。
──
あらためて、すごい多才ぶりです。
漫画も描けちゃうなんて。
のり一
絵を描くのは好きだったんですよ、ずっと。
くわえて、お父さんの劇場で喜劇を見たり、
寄席で落語を聞いたりしてたんで、
そういう経験も、役に立ったんでしょうね。
──
ちっちゃいころは劇場が保育園代わりで、
中学生になったら寄席、
大人になったらホワイトで‥‥って、
どこも、のり一さんにとっての
「学校」だったんだろうなあと思います。
のり一
そう。それぞれの場所で学んだことが、
よその場所で何かと役に立ってますし。
──
マンガのセリフひとつにしても、
きっと、喜劇や落語の蓄積からの何かが、
あったりするわけですもんね。
のり一
『ビックリハウス』という特殊な雑誌も、
2回くらい、載せてくれました。
──
はい、『ビックリハウス』は
「小林のり一特集」もやってましたよね。
以前、ぼくは雑誌の編集部にいましたが、
雑誌で人物の特集するのって、
相当な動機がなければできないと思います。
のり一
はじめに載っけてもらった
『ミチルくん』っていう漫画が、
いい反響だったらしくてね。
それで特集を組んでくれることになった。
原田治さんが、
表紙のイラストまで描いてくれたんです。
──
オサムグッズの、原田治さんですよね。
そんななか、とくに寄席という学校では、
何を学んだと思われますか。
のり一
まずは、お行儀とか、挨拶じゃないですか。
それまではね、「おはようございます」や
「いってらっしゃい」なんかにしても、
あんまりよく言えない子だったんですけど、
寄席の楽屋で、ずいぶん学んでね。
お父さんも、たいへんよろこんでましたね。
──
挨拶のできる子になった‥‥と。なるほど。
派手ではないけど、大切なことですね。
大人の世界で揉まれて、挨拶を知るのって。
のり一
あとは、やっぱり人間関係について、かな。
みんな和やかに、とか。そういうこと。

(つづきます)

2022-11-09-WED

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  • 報道等でご存じの方も多いと思いますが、
    2022年7月6日、
    小林のり一さんが、ご逝去されました。
    この取材から、何日かあとのことでした。
    落語や寄席、演芸文化の歴史について、
    たくさん教えていただきました。
    別れ際、じゃあ次回は
    ジャズや映画、漫画などについて
    話しましょうと約束してくださいました。
    おしゃれで、都会的で、チャーミングで、
    おもしろいことをたくさん知っていて、
    本当にカッコいい方でした。
    インタビューの最中、
    とつぜん糸井が部屋に入ってきたんです。
    部屋の掲示板に
    「小林のり一さん」という名前を見て、
    思わずドアを開けてしまったようです。
    取材中の部屋に入るなんて、
    ふだんはしたことないんだけど‥‥と、
    自分でも不思議そうに、言っていました。
    ふたりは旧知の間柄ですが、
    会うのはかなり久しぶりのようでした。
    10分くらいのあいだ、
    心からうれしそうに、楽しそうに、
    大部分は「くだらない」(いい意味です)
    おしゃべりを交わしたあと、
    「じゃ、また会おうね」と言って、
    糸井は部屋を出ていきました。
    人間のめぐり合わせの不思議さというか、
    運命のようなものを感じました。
    あの時間と空間のすみっこにいられて、
    自分は、本当に幸運でした。
    のり一さんのご冥福を、お祈りします。

    (ほぼ日・奥野)

    ※インタビューの数日後、小林のり一さんがご逝去されました。
    心よりご冥福をお祈りいたします。

    撮影:中村圭介