なんとなく聞きにくい「老いと死」のこと、
女性の立場で本音を語ってくれるのは誰だろう?
糸井重里のことばを借りるなら、
「この人以外思いつかない」というほど、
この特集にぴったりの人物がいます。
そうです、阿川佐和子さんです。
まじめになりがちなテーマでさえ、
阿川さんの話を聞いていると、
なんだか心が軽くなってくるからふしぎです。
70代になってわかった老いと死のこと、
ふたりが包み隠さず語りあいます!
‥‥という建前ではじまった対談ですが、
のっけから力の抜けたトークのオンパレード。
ま、急がず、慌てず、のんびりいきましょう。

>阿川佐和子さんのプロフィール

阿川佐和子(あがわ・さわこ)

作家、エッセイスト、小説家、女優(かもね)。

1953年東京生まれ。
慶應義塾大学文学部西洋史学科卒。
報道番組のキャスターを務めた後に渡米。
帰国後、エッセイスト、小説家として活躍。
1999年『ああ言えばこう食う』(檀ふみとの共著)で
講談社エッセイ賞。
2000年『ウメ子』で坪田譲治文学賞、
2008年『婚約のあとで』で島清恋愛文学賞を受賞。
2012年『聞く力――心をひらく35のヒント』が
年間ベストセラー第1位でミリオンセラーとなった。
2014年第六十二回菊池寛賞を受賞。

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第7回

二人称の死が一番つらい。

阿川
私、冬場に落ち込んだとき、
例えば「あぁ、年とったな」とか
「なんか弱っちゃったな」と思ったとき、
シクラメンの花を見るんです。
糸井
いま、急にキレイな画面が(笑)。
阿川
そう、キレイでしょう(笑)。
シクラメンの蕾が出たときって、
ほんとうに瑞々しくて、美しくて、
それがだんだん大きくふくらんで、
蕾がひらく瞬間なんてもう、
「私が女王よ、私ってこんなにキレイ!」って、
閉じてた花びらがぶわっとひらくんです。

糸井
へぇーー。
阿川
でも「私が女王よ」って咲いた花も、
時間が経ってまわりから
新しい花がどんどん出てくると、
しだいに萎れてきて、
最後は茎もジョボジョボになって、
ふにゃ~~んって折れ曲がっていくんです。
糸井
ほう。
阿川
そういう花の変化を見ながら、
「‥‥いまの私はどのあたりだろう」って(笑)。
糸井
(笑)
阿川
「この1輪かな、いや、まだこれかな」とか。
糸井
それを見てるあいだの作文がいいね(笑)。
阿川
つまり、植物を見てると、
「私は老けた」とか「あいつが憎い」とか、
「キレイな恰好しやがって、こんちきしょう」とか、
そんなことなんにも思ってない。
ただ淡々と、口もきかず、文句も言わず、
ぶわっと咲いてグワーンて死ぬと思うと、
「私もこういうふうに死にたい」って、
シクラメンを見ながら理想としては思うんです。

糸井
その「なんにも思わず」ってあたりは最高ですね。
阿川
うん、思わなかったらね。
でもやっぱり思うんだな、これが。
糸井
それはひとつの憧れですよ。
「思わずに」っていうのは。
阿川
そうなんですよね。
糸井
いまのシクラメンの話、
ぼくが同じものを見てたとしたら、
いったんは阿川さんと同じことを思うけど、
そのあと「これは1つのものだな」と思うかな。
阿川
1つのもの?
糸井
阿川さんは「私はどれかしら」って見るけど、
ぼくは「ぜんぶが私だな」って思う。
だから、それぞれ楽しみ方が違うんだなって。
阿川
私は自分に照らし合わせちゃう。
「この子の気持ちはとうに過ぎちゃったな」とか、
「あ、いま私はこいつか」とか。
糸井
次の花が出てるじゃないですか、もう。
阿川
だって次は私じゃないんだもん、私の場合。
糸井
いや、みんなあなたです(笑)。
阿川
うーん、でもそうは思えないからなぁ。
糸井
さっきの話のつづきになりますけど、
植物も犬や猫もそうだけど、
ほんとうに生きてるつもりなんですよ。
ぼくも、前に飼ってた犬(ブイヨン)のことで、
けっこう考えさせられたんですけど、
やっぱり家族としては、
つい延ばしてやりたくなっちゃうというか。
阿川
ええ。
糸井
最期の最期、酸素室のなかで、
チューブからごはんをとりながら
生きるしかないってなったときに、
それで命をつないでるっていうのは、
ぼくらのエゴイズムな気がするんで
眠らせちゃってくださいっていう署名を、
そのときはぼくがしたんです。
いつもは妻のほうが
圧倒的に思い切りがいいんですけど、
そのときだけは違ったんですね。
そのへんは相手が決めることで、
自分の心が決まるみたいなこともあるんで、
相手がグズグズしてるおかげで、
ぼくが決められたのかもしれないけど。
阿川
養老さんがよくおっしゃることで、
死は「一人称」「二人称」「三人称」の
3つの種類があると。
一人称は、自分の死だから経験ができない。
二人称は、親兄弟や友人など、親しい人の死。
三人称は、第三者にあたる見知らぬ誰かの死。
私、そのお話を聞いたときに、
やっぱり人間の死で一番つらいのって、
「二人称の死」なんだなと思ったんです。

糸井
つらいですよね。
阿川
残された側がどう死を受け取るかってことのほうが、
本人よりつらいんじゃないかなって感じたんです。
糸井
それは、吉本隆明さんが、
晩年になって「死んでもいいや」って
何度か考えたそうなんですが、
それについてよくよく考えてみたら、
「自分の死」は自分に属していないって
気づいたそうなんです。
自分の死というのは、
自分が勝手にどうこうできるものじゃなくて、
自分以外の人たちの意志が非常に大事だと。
自分以外の人っていうのは主に家族のことで、
死というのは自分に属してないんですよって。
吉本さんはそんなふうに言うんです。
阿川
はぁー、すごい。
やっぱり哲学者のことばは違います。
糸井
最期、犬を眠らせたときも、
先生が眠り薬を入れるんです。
殺す注射じゃなくて眠らせる注射なんです。
つまり、眠っちゃったら、
そのまま死んじゃうそうなんです。
そうやって眠らせるあいだ、
妻が犬をずっと抱っこしてて、
しばらくして「あ、止まった‥‥」って。
その様子をぼくが横で見ていて、
あとは「死」っていう客観的な事実を、
お医者さんと妻とぼくがひとつずつ確認して、
箱に入れて、用意していた花を添えて、
それを車に乗せてっていう、
もうそこからは事務みたいになっていって。
あのときに、なんだろうね、
犬そのものはいつまでも生きるつもりだったし、
死ぬつもりもなかったっていうか。
生き物って「私は死ぬんだ」って言って、
死ぬわけじゃないんですよね。
あるいは、なんにも思ってないのか。
そこはぼくにもわかんないことですけど。

(つづきます)

2024-08-22-THU

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