2024年、ほぼ日の「老いと死」特集が
満を持してスタートしました。
そのかたすみで、
ひっそりと生まれた企画がひとつ。
「正直、老いや死のことを、
まだあまりイメージできない」という
2、30代の乗組員が、ざっくばらんに話し合う
「老いと死の歌座談会」です。
おそらく私たちの手に負えるテーマではないけれど、
いま考えていることを、気張らずに話してみます。
‥‥タイトルの「歌う」が気になっている方も
いらっしゃるかもしれません。
よくぞ気づいてくださりました。
そうなんです、座談会の最後は、
毎回のおしゃべりから誕生した歌を
みんなで歌います。
どんな歌が生まれるのか、少しだけ、ご期待ください。
担当は、ほぼ日の20代、松本です。
- 菅野
- みなさん、死は怖かったり、
そんなに怖くなかったりと、
個人差があるんですね。
- 南
- 痛かったらいやだな、という気持ちはあります。
苦しみはいやだな。
- 松本
- たしかに。
死そのものより、
過程のほうが怖い気がします。
- 新井
- 「死に方」ということ?
- 松本
- はい、どんな死に方をするかに不安があります。
‥‥けれど、死を扱ったエンタメの作品って、
たくさんありますよね。
そういう作品のなかで、
あるキャラクターが劇的に亡くなる場面などを
「うおーっ」と受け止めてしまう自分もいて。
- 菅野
- 「うおーっ」というと。
- 松本
- 感動するような感じです。
そういうふうに、
死を物語的に消費してしまう自分と、
実際にまわりの人が亡くなったり、
自分が老いていったりすることのリアリティが、
うまく結びついていない感覚があって。
ほかの人はどうやって
折り合いをつけているのかなと、
ちょっと悩んでいます。
- 南
- ああー、わかります。
娯楽のいち要素として、
鑑賞してしまっていいのかということですね。
私はホラー映画が好きだから、
その壁にはよく突き当たります。
でも、ホラーには「癒やし」な部分もあって。
- 菅野
- ええっ、そうなの?
- 南
- ホラー映画では人が死ぬし、怖いし、
痛そうなんですけど、
なんというか‥‥
心をそういう怖さに馴染ませる訓練のような
ところがあるんです。
- 新井
- 私も、ホラーを観ることで、
現実からの逃避ができる気がします。
- 南
- 実際に自分が恐ろしいことを
体験しているわけではないけど、
極限状態の登場人物たちに感情移入するから、
気持ちだけは現実じゃないところに逸らすことが
できるのかも。
- 松本
- それは、清水さんが言っていたような
「死の想像できなさが怖い」という感情への、
ひとつの対処にもなるのかもしれないですね。
- 南
- あと、ホラー映画での死は、
すごく軽く描かれることが多い気がして。
わりとあっけなく命が失われるから、
「死ぬのが怖い」というところからは
ちょっと離れているのかも。
むしろ、ヒューマンドラマなどのジャンルのほうが、
命の重みはしっかり描かれている印象です。
だから、ホラーでよくある、
命の扱いが軽すぎる作品を見ていると、
「これを見ていて大丈夫なのかな」
「これを好きと言うのは不謹慎かな」と、
思うことはありますね。
- 菅野
- うーん、エンタメを楽しんでいるわけだから、
それはいいんじゃないかなという
気がしますけどね。
あと、芸術もそうですが、
自分の想像力を超えるものにふれることは
とても大事だと思います。
- 松本
- 死について考えることって、
どうしても生きることについて考えることに
つながると思うんです。
自分がどうやって死んでいくのだろうと考えたら、
その理想の死に方に行き着くためには
どうやって生きればいいのかなと考えるし。
だから‥‥、
もしも、フィクションを通して
死への感覚が鈍るようなことがあったなら、
よくないかもしれませんが、
ホラーも含め、死に関わるコンテンツに触れるのは
「生き方を考える機会」として、
そんなに悪いことではない気がしてきました。
- 南
- たしかに、観ると「いまを生きよう」と思うね。
- 清水
- いまを生きる、といえば、
このあいだ読んだ「ウェルビーイング」についての、
石川善樹さんの本を思い出します。
「死ぬときから逆算して、
いまの時間をどうやって生きるかを考える」
というのが、
ウェルビーイングの本質に近いみたいなんですよ。
- 南
- へえー。
- 清水
- それから
「年を取ってからの人生の満足度は、
ほかの人との関わりによって高くなる」
という研究結果も出ているらしくて。
だから、
周囲の人との関わりを豊かにしていくことは、
ひとつの課題なのかなと思います。
- 松本
- 私も、大学で
ウェルビーイングや発達心理学についての
授業を取っていました。
そのなかで
「死に近づけば近づくほど抑うつ傾向が高まる」
と聞いて「そんなぁ」と思ったんです。
- 南
- それは「そんなぁ」だね。
- 松本
- ガーン‥‥と思いながら勉強していました。
でも、どうやら一度抑うつ傾向のピークを超えると、
「老年的超越」という現象が起こって、
いろんなことをポジティブに捉えることが
できるようになるそうなんです。
- 南
- へえ、いいですね。
そうなりたい。
- 菅野
- みんなにとっては、
そういうことがいま、
すごく遠い問題として存在しているわけだよね。
「老いに近づくとこうなるんだろうな」
と予想はしつつ、実感はないというか。
- 高山
- この前、私と、母と祖母の3人で旅行したのですが、
母娘三代揃うと、
急に未来の自分を想像してしまいました。
- 一同
- ああー!
- 高山
- 祖母の寝顔を見ていたら、
母はいずれこうなって、
私もこうなっていくのかな、と考えました。
なんて言うんでしょう‥‥
母や祖母と同じラインに乗った瞬間、
みたいな(笑)。
- 新井
- お母さんやおばあさんを、
自分の延長のように捉えたんですね。
- 菅野
- 新井さんは、そういう感覚はないですか?
- 新井
- 私も、最近父と言動が似てきたなと思うことは、
けっこうあるんですけど‥‥、
でも、父と私は違う個体だしなぁ。
高山さんは、ご自身と照らし合わせられるのが
すごいなと思いました。
- 高山
- ああ、でも私も、
照らし合わせようと意識したわけではなくて、
気持ちがフッとやってきて
「わあー」となった感じです。
祖母の寝顔を見た瞬間に、
急に自分の未来とか、
いろんなものを想像して。
- 南
- いまの話を聞いて思い出したことがあります。
私のおばあちゃんが年を重ねて、
背中がすごく小さくなっていたんです。
その背中を、私の父がじっと見ているのを見かけて。
「あ、お父さん、いま
『おばあちゃんの背中、すごく小さいな』
と思ってるかも」
と感じたんです。
そのあとおばあちゃんが亡くなって、
私は再び、
棺桶を見ている父の背中を見ていて‥‥
そのとき「人生」というものを
めちゃめちゃ強く感じました。
死は自分の想像の及ばないところにあるけど、
「死に辿り着くまでの過程」が
ぐわっと迫ってきて、ハッとしたんです。
最終的に死に辿り着くまでの、
親子の人生が重なっていく部分が、
急にリアルになって。
- 菅野
- なるほど。
きっと、高山さんの経験と同じことだね。
「人生」が迫ってきたんだ。
- 松本
- 人生かあ‥‥。
人は死ぬ間際に、
人生の走馬灯を見るなんて言われますよね。
あれって、ほんとなんですかね。
- 菅野
- ねえ。
私も死んだことないから、
わかんないんだよ(笑)。
(1曲目〈その3〉に続きます)
2024-08-08-THU