2024年、ほぼ日の「老いと死」特集が
満を持してスタートしました。
そのかたすみで、
ひっそりと生まれた企画がひとつ。
「正直、老いや死のことを、
まだあまりイメージできない」という
2、30代の乗組員が、ざっくばらんに話し合う
「老いと死の歌座談会」です。
おそらく私たちの手に負えるテーマではないけれど、
いま考えていることを、気張らずに話してみます。
‥‥タイトルの「歌う」が気になっている方も
いらっしゃるかもしれません。
よくぞ気づいてくださりました。
そうなんです、座談会の最後は、
毎回のおしゃべりから誕生した歌を
みんなで歌います。
どんな歌が生まれるのか、少しだけ、ご期待ください。
担当は、ほぼ日の20代、松本です。
- 赤間
- 社会人になってから
「ああ、私、このままこうやって生きていくんだ」
という感覚になったことがあるんです。
小学生のときは、
「20歳の自分は、いまの自分とは違う
何かになっているんだろう」と想像していました。
子どもとは違う「大人」という生きものとして
生きているんだろうな、と。
けれど実際、24歳まで生きてみてわかったのは、
「中学生になっても、
小学生のときの自分を抱えたままだし、
高校生になっても、
中学生のときとそんなに変わらないし、
大学生になっても一緒だ」ということでした。
- 松本
- ああ、わかります。
- 赤間
- この先もっと年を重ねて、
いろんな環境の変化があったとしても、
自分はそのままの自分と付き合っていくしか
ないんだなと考えるようになりました。
- 松本
- 「老いた自分」というものを、
いまはちょっと遠い存在のイメージでしか
考えられないのですが、
いまの自分と地続きなんですね。
- 持田
- うん、そうだと思う。
- 松本
- このまま生きていったら、
こういう性格のおばあさんになるわけですもんね。
- 赤間
- そう。このまま、別人にはなれない。
- 松本
- なれない。
- 赤間
- なれないし、ならない。
- 松本
- うん、うん。
- 赤間
- さきほどお話しした、
大学時代に亡くなってしまった友だちは、
3つくらい年上の先輩だったんです。
当時は、その先輩のことをすごく大人だと
思っていました。
だから、何かすごくいろんなことを考えた末に、
亡くなってしまったんだろうと感じていました。
でも、気づいたらもう、
その人の年齢を、私が越していて。
いま、あのときの先輩を振り返ると
「ああ、きっと、そこまで大人じゃなかったよね」
と思うんです。
- 松本
- はい。
- 赤間
- 「あれがあの人の
亡くなるタイミングだったんだよ」
といったことは、いくらでも言えます。
そう考えることは、きっと、
亡くなった方にとっても遺された人にとっても、
悪いことではないです。
けれど私は
「先輩はもしかしたら、
後悔していたかもしれないな」
と想像できる人でいたいと思っていて。
- 松本
- ああ‥‥、そうですね。
その考え方は、すごく誠実な気がします。
寿命で亡くなった方に対しても、
私自身も含め、遺された側は
「あの年齢まで生きられて幸せだっただろうね」
というように、
どこか肯定的にとらえようとしがちだなと
気づきました。
でも、赤間さんの言うとおり、
故人はもしかしたらもっとやりたいことが
あったかもしれないんですよね。
そう考えると、
「よかったね。大往生したね」と
ポジティブに捉えるだけでなく、
「あの人もこれ食べたかっただろうな」
などと、日常のなかのちょっとした瞬間に
思い出し続けるのも、
大事かもしれないと思いました。
- 持田
- うん、それはありそうだね。
- 赤間
- 「爽やかな見送り」みたいなイメージです。
たとえば、大福が大好きな友だちが
死んでしまったとして。
すっごくおいしい大福を食べたときに
「いや、この大福、絶対〇〇も好きだよね」
って、みんなで話すような。
なんというか、そこでは、
生きていても亡くなっていても、関係ないんです。
たまたまその場にいない友だちの話をする感じ、
というか‥‥。
- 持田
- うんうん。
亡くなった人が、
日常に溶け込んだ状態ということだね。
- 赤間
- はい。もちろん、話題に上げるだけでも
悲しさがぶり返してしまう場合は、
無理にそうしなくていいと思いますけれど。
- 松本
- いままでの座談会で「忘れられる」ということが、
何度か話題に上がったんです。
忘れられるのが怖いとか、
忘れてしまうのが怖いとか、
逆に、ずっと覚えていられるのも嫌とか‥‥。
そういった話を聞くたびに、
忘れないのも難しいし、
でも、身近な人の死と向き合い続けるのも
苦しいだろうな、と、グルグル考えていました。
- 赤間
- そうだね、考えるよね。
- 松本
- そのなかで、ふと思ったことがあるんです。
「忘れられたときがほんとうに死ぬとき」
なのだとすれば、自分がいま無意識に、
過去のいろんな人やものごとを忘れているのも、
それらの人やものごとを‥‥
極端に言えば、記憶のなかで死なせてしまっている
ことになるんじゃないか? って。
そうだとしたら、
なんて残酷なことをしているんだ、と、
ショックを受けました。
考えすぎなんですけどね。
でも、いまの赤間さんのお話を聞いて、
「これ、あの人も食べたらよろこんだだろうなぁ」
ぐらいのフラットな感じで、
日常のなかで思い出すこともできるんだ、と、
少し明るい気持ちになりました。
- 持田
- 亡くなった人のことを完全に忘れるのは、
たぶん無理だと思うんです。
亡くなった人がいる部屋というか、
引き出しのようなものが頭のなかにあるイメージです。
それを開ける頻度は、自分の状態や時期によって
増減するのだろうけど‥‥
たぶん僕は、毎年菊花賞の時期になったら、
こないだ亡くなったじじいを思い出すと思う(笑)。
「今年も競馬やりたかっただろうな」って。
- 松本
- はい(笑)。
- 持田
- 亡くなっても、誰かが語り継いだり、
本のような制作物や、
もっと些細なものでも何かが残っていたりしたら、
文化が消えない限りはずっと残っていくんだと思う。
だから、絶対、誰かが覚えてる。
逆に、早く忘れてほしいという場合は、
消え去りたいというより
「あんまり部屋のなか見ないで」
みたいな気持ちなのかな。
- 赤間
- 「もういい、もういい」みたいな。
- 持田
- 「恥ずかしいからもういい。やめて!」
っていう(笑)。
思い出してほしい頻度は、
ほんとに人それぞれだね。
- 赤間
- お彼岸とかに忘れられたら、
さすがに「おい!」って思うかも。
でも、別に毎日思い出されたくはないな。
「そんなに私のこと考えないで、
家の掃除したら」とか(笑)。
- 持田
- そうそう。
「手止まってるぞ!」ってね。
- 松本
- 親戚が亡くなったとき、
そこまで大きく感情が動かなかったのは、
生前にその親戚のことを考える頻度が、
あまりなかったからなのかもしれなくて。
そうすると「思い出す頻度問題」は、
亡くなってからだけでなく、
生きているあいだも重要ですね。
- 持田
- そうだね。頻度、キーワードかも。
- 松本
- ひとつの点として
「その人」を覚えているのではなくて、
その人といっしょにいた期間を、
それぞれがちょっとずつ覚えているんですもんね。
- 持田
- うん。
その人のどこが印象に残ったか、
ということも、人によって違うしね。
(3曲目〈その3〉に続きます)
2024-10-09-WED