こんにちは、ほぼ日の永田です。
もう、20年以上前から、2年に一度、
オリンピックの全種目を可能なかぎり観て、
そこに寄せられる膨大なメールに目を通し、
それらを翌朝までに編集し、読むだけでも
1時間くらいかかる長文コンテンツに仕上げて
大会期間中毎日公開する、という、
常軌を逸することをやっておりました。
しかしそれも2020東京オリンピックで一区切り。
前回の北京オリンピックからは、
毎日、観ることは観るものの(観るんですね)、
メールの編集と長文テキストの公開はやめて、
1日1本、観戦コラムを書く、という、
のんびりした姿勢でやっています。
観戦しながらのリアルタイムな感想は、
永田の旧ツイッターのアカウント
(@1101_nagata)で発信しています。
ぎゃあ、とか、うぁっ、みたいな反応は
そちらでおたのしみください。
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くわっ、とか、ひぃぃ、とか言いましょう。
#04
吐き出せ、阿部詩
- 昨日は、というか昨日から今朝にかけて、
オリンピックファンにとって
すばらしい場面がたくさんあった。
メダルもとったし、劇的な勝利もあった。
うれしい瞬間がいくつもあった。 - にもかかわらず、この日のことで、
いちばん記憶に残るのは阿部詩選手のことだ。
将来、この日のことを思い出すとき、
いや、パリオリンピックを思い出すとき、
きっとぼくはまっさきに、
この日の阿部詩選手のことを思うだろう。 - だから、書かなければいけないとしたら、
2回戦で一本負けした阿部詩選手のことだ。 - まず、すっきりしないジャッジでもなく、
指導による消極的な敗戦でもなく、
不運やアクシデントでもない、
見事な切れ味の技によって敗れたことを、
せめてよかったと思いたい。 - ウズベキスタンのケルディヨロワ選手は、
谷落としで見事な一本を決めた瞬間、
ジャイアントキリングを
成し遂げた選手が思わずやるような、
うれしい、信じられない、といった
アクションをまったくとらなかった。 - むしろ信じられないという表情を浮かべたのは、
自分が一本とられたことを
確信せざるをえなかった阿部詩選手のほうで、
ケルディヨロワ選手はジャッジを確認もせずに
すぐに阿部詩選手の腕を取りに行っていた。 - つまり、ケルディヨロワ選手は強かった。
事実、その後も冷静に勝ち続け、
ウズベキスタンの柔道に
男女通じて初となる金メダルをもたらした。 - 阿部詩選手は、
身体がかろうじて礼儀を覚えていた、
という感じで礼をして握手をして畳をおりた。 - そしてコーチの胸に顔を埋め、
堰が崩れた。 - 書きながらもあの声がよみがえってくるし、
読みながら多くの人があの声を思い起こすだろう。 - いや、声ではない。
あれは、かたまりだったと思う。 - そのかたまりは、
感情のかたまりかもしれないし、
時間のかたまりかもしれないし、
努力のかたまりかもしれないし、
責任のかたまりかもしれない。 - それらぜんぶがひとつに凝固したかたまりは、
きっと金メダルがかけられたときに、
溶けて、気化して、思い出になって、
晴れやかに身体から抜けていくはずだった。 - けれども、そうはならなかった。
そうはならないのだということが、
畳からおりた瞬間にどうしようもなく
阿部選手にわかった。 - だから、吐き出さなければならなかった。
すぐに、吐き出さなければならなかった。
長い年月を超えて抱えてきたかたまりだったから、
畳をおりた瞬間にあふれ出てとまらなかった。 - よくもそこまでのものが、
ひとりの人間の身体のなかに
ため込まれていたものだとぼくは思った。
どれだけの時間が、気持ちが、修練が、
その淵に押し込まれていたのか。 - 座り込み、立ち上がり、立ち止まり、
競技場の通路を阿部詩選手は吐き出しながら進んだ。
湧き上がるパリの観客のスタンディングオベーションや
「UTA!」コールはすばらしかったが、
吐き出し続ける阿部詩選手は
それらのやさしさやあたたかさとは無関係だった。 - ぼくは、あれは、必要なものだったのだと思う。
おおげさにいえば、阿部詩選手が生きていくために。 - すこし違う話をする。
投擲の選手が、槍や砲丸や円盤やハンマーを投げたあと、
飛んでいくそれに向かって叫ぶ。
もうそれは手を離れてしまっているのに、
叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。 - 科学的なことをいえば、
投げてそれが手から離れた瞬間に、
なにをどう叫んでも無駄である。
なんなら、それが地面に落ちてからも
まだ叫んでいる選手もいる。
どう叫ぼうがもう記録は変わらないのに、
投げ終えた選手は叫ぶ。
力のかぎりに叫ぶ。 - ぼくはそれは必要なことだと思う。
一連のフォームのフォロースルーとして、
投擲のなかに含まれるからというだけでなく、
なんなら、その声を誰かが投擲直後に無理やり止めたなら、
投げられたものはその瞬間から
失速するのではないかとさえ思う。 - だから、屈強な投擲のアスリートたちが、
宙に向かって叫ぶのをみると、
いいぞ、叫べ、がんばれ、飛べ、と思う。
行け、行け、行け、とぼくもこころで叫ぶ。 - 阿部詩選手にも、ぼくは同じように思う。
実際に観ていたときは
いろんなことを受け止めきれずにいたから、
とてもそこまで考えられなかったけれど、
いま、ぼくは、それでいいんだ、
そうするしかないんだと思っている。 - 阿部詩選手にとって、
吐き出すことが必要で、
吐き出すことが進むことで、
吐き出すことが生きることだったのだと思う。 - 逆に、あれがうまくできないアスリートもいる。
積み重ねてきた自分のかたまりを、
吐き出せずにかたまりのまま抱えてしまって、
うまくつぎに進めなくなってしまったアスリートを、
ファンとしてぼくは何人も観てきた気がする。 - そして話を広げるなら、
それはアスリートにかぎらない。 - ちいさなかたまりを、
うまくいけば溶けて空へ放せるはずだったかたまりを、
どこで吐き出していいかわからず、
ぼくらは今日もめいめい抱えて
生きているのではないか。
私も、あなたも、ねえ。 - だから、吐き出せ、阿部詩。
それは、つぎに進むための優れた機能だ。
エンジンが新しく圧縮するためのサイクルの一部だ。
それができる人はきっと才能があるんだよ。 - 阿部一二三選手の優勝を、
阿部詩選手は観客席で観ていた。
歓喜の瞬間には涙ぐんでいたけれど、
そこには、吐き出しきったあとの、
ほどよい空っぽがあるようにぼくには映った。 - 吐いた人は、息が吸える。
4年後があるとぼくは信じている。 - 体力の維持やピークはそれとは別の話だから、
きっといままでとは違う難しさがあるだろう。
そして、うわ、まじかよ、と書きながら思うけれども、
阿部詩選手が4年後を目指すとしたら、
またあたらしいかたまりを
その胸のなかにつくっていくことになるのだ。 - しかし、目指す人は、誰もがそうだ。
目指すというのは、そういうことだ。
ぼくもぼくのかたまりのことをもっと考えよう。
吐き出さなきゃいけないものは、吐き出さなきゃ。
そしてあたらしいかたまりに出会いたい。
そういうことが、オリンピックを観る意味なんじゃないか。 - スケートボードの十代の少女たちの大活躍や、
脳内のサッカーアルバムにきっと長く残る
谷川萌々子選手のアディショナルタイムの
ロングシュートのことも書きたかったけれど、
やっぱりこの日は、阿部詩選手だった。 - 4年後のぼくがほこらしげに、
このコラムを引用できますように。
(つづきます)
2024-07-29-MON
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