こんにちは、ほぼ日の永田です。
もう、20年以上前から、2年に一度、
オリンピックの全種目を可能なかぎり観て、
そこに寄せられる膨大なメールに目を通し、
それらを翌朝までに編集し、読むだけでも
1時間くらいかかる長文コンテンツに仕上げて
大会期間中毎日公開する、という、
常軌を逸することをやっておりました。

しかしそれも2020東京オリンピックで一区切り。
前回の北京オリンピックからは、
毎日、観ることは観るものの(観るんですね)、
メールの編集と長文テキストの公開はやめて、
1日1本、観戦コラムを書く、という、
のんびりした姿勢でやっています。

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#10

悔しさについて

 
悔しさについて書いてみようと思う。
きっかけは明白だ。
そう、柔道団体混合決勝戦。
日本対フランス。
悔しかった、と、過去形にできない悔しさがある。
正直、いまもずっと悔しい。
悔しさって、なんだろう?
思えばそれについてぼくはあまり
考えてこなかったような気がする。
書きながら考えてみよう。
ことばにしてくと、自分の考えや、
考えの奥底にある理由がわかったりする。
古賀史健さんの名著、
『さみしい夜にはペンを持て』にも、
書くことは自分のこころをわかるための
とてもよい方法なのだと書かれていた。
いまなにをどう書くのか、まったく決めてない。
書けなきゃ書けないでいいやと思って書きはじめている。
まず、自分なりの手がかりを
ばらばらと書き出していってみよう。
まず、夏のオリンピックと、
冬のオリンピックは、悔しさが違うとぼくは思う。
うまくいかない結果が出るのは、
どの競技でも変わらない。
スポーツだから、悪い結果だって出る。
夏であろうと冬であろうと、
悔しいし、残念だし、混乱する。
けれども、まだはっきりわからないけれども、
夏の悔しさと、冬の悔しさはどうやら違う。
どうしてそう思ったかというと、
すごく個人的なことが理由になる。
ぼくは日本を代表するアスリートがいい結果を出せなくて、
自分を含む観ている多くの人がひどく落胆したとき、
書くテキストのなかなどでしばしば、
ミシェル・クワンさんのことばを引用する。
それは、こういうことばだ。
「夢に届くのもスポーツなら、
夢に届かないのもスポーツ。
そして、夢に向かって努力するのがスポーツ」
なんというかこれはぼくにとって
お経とかお祈りのようなもので、
スポーツに関して残念なことが起こって
答えが見つからなくておろおろするようなとき、
ひとまずこのことばに立ち戻る。
停電のときに一旦灯すライトのようなものだ。
このことばは、ふわっとしているのがいい。
なるほどぉっ、というような名言ではないし、
なんなら当たり前のことを言ってるようだし、
リズムもそんなによくない。
でも、だからこそ、ことばでうまく
まるめこまれるような印象がないし、
ぜんぶうまく説明し過ぎて
返事ができないような感じがしない。
隙や余白を持ちつつ、残念な気持ちを、
一旦ぜんぶ引き受けてくれるのがいい。
あと、このことばをぼくに教えてくれたのが、
数々の名実況で知られる元NHKの
刈屋富士雄さんだというのも大きいのだと思う。
そんな、べんりな呪文のようなこのことばを、
パリオリンピックのさまざまな悔しい場面で、
ぼくはほとんど思い起こすことがない。
ああ、そんなふうに書いているうちに、
いろいろ、すこしずつ、わかってきてしまった。
古賀さん、書くとわかってくるというのは、
ほんとうにほんとだ。
もう、自分用のメモみたいにして書くよ。
ちょっとあちこち振り回すかもしれない。
そのことばを発したミシェル・クワンさんは
フィギュアスケーターで、
全米選手権9回優勝、
世界選手権5回優勝という輝かしい成績を持つ。
にもかかわらず、長野オリンピックでは銀メダル、
ソルトレイクシティオリンピックでは銅メダルに終わり、
最後のチャンスをかけて臨むかに思われた
トリノオリンピックを怪我のために棄権する。
刈屋さんが教えてくれたことばはそのときの会見で
「後悔はないか」と聞かれたときのものだったという。
ミシェル・クワンは冬の選手だ。
あのことばも、冬のことばだとぼくは思う。
ふわっとした言い方で申し訳ない。
もうすこし具体的に言おう。
ぼくは書きながらこう思う。
冬のオリンピックの悔しさは、
「届かなかった」悔しさなのだ。
一方で夏のオリンピックの悔しさは、
「勝てなかった」悔しさなのだ。
そう書くことで、また一段階、解像度が上がる。
ぼくがさっきから冬のオリンピック、
夏のオリンピックと乱暴にくくっているのは、
じつは、夏とか冬とかではなくて、
「記録と勝負する競技」と、
「相手と勝負する競技」なのだ。
そして、おおづかみに言うと、
冬のオリンピックには「記録と勝負する競技」が多く、
夏のオリンピックには「相手と勝負する競技」が多い。
もちろん、冬のオリンピックのなかにも
「相手と勝負する競技」はあるし、
夏のオリンピックのなかにも
「記録と勝負する競技」はたくさんある。
たとえばアイスホッケーやカーリングは
「相手と勝負する」夏っぽい競技だし、
夏のなかでも体操や競泳は
あきらかに「記録と勝負する」競技だ。
思うに、「相手と勝負する」競技は、負けると悔しい。
一方、「記録と勝負する」競技は、悔しい以前に、
負けるという感覚がなく、
「届かない」という切なさがある。
応用編みたいにしていうと、
「記録と勝負する」競技であっても、
はっきりしたライバルとかがいて、
観る側が、その人に勝ってほしい、負けないでほしい、
と思っていると、「相手との勝負」になって
「悔しい」が発生する。
そう、悔しさの話だ。
昨夜、柔道混合団体の決勝戦を観て、
ものすごく悔しかったぼくらは、
「勝てなかった」ことを悔しがっている。
これだけ長い文字数を費やして、
ひどく当たり前の結論に達して申し訳ない。
でも、そうなのだ、ぼくらは
「勝てなかった」ことを悔しがっている。
そこからさらに解像度を上げてみる。
こんなに悔しかったのは、
ただ「勝てなかった」からではない。
こんなに悔しかったのは、
「勝てる!」と思っていたからだと思う。
「勝てるかな」「勝ちたいなあ」
「どうか勝ちますように」というような勝負は、
負けたとしてもたぶん悔しさは少ない。
「勝てる!」と強く思うからこそ、
負けたとき悔しさに打ちひしがれる。
もうこのあたりでまとめに入ってもいいんだけど、
さらにもっと悔しさを微分していこう。
もしも。
もしも、昨日の柔道混合団体決勝戦が、
開始から4連敗しての敗戦だったら、どうだろう。
ええ、悔しい。もちろん、悔しい。
けれども、もしも4連敗だったら、
ほぼ日の同僚の山下哲が
めずらしくオリンピックを観て、
「頭がジンジンしている」と
ツイートしたほど悔しいだろうか?
おそらくそこまで悔しくはない。
開始から4連敗だったなら、
ふだん、あまり深くスポーツを観ない
山下(ただしプロレス好き)が
思わず観てのめりこんで応援して負けて
「頭がジンジンしている」というようなことは
おそらく、起こらない。
ああ、もうこのへんで
話をまとめようよ、とも思うけど、
この際だから、さらにもう一歩進んでみよう。
柔道団体決勝、日本対フランス、
日本の一番手は誰だったか憶えていますか。
そう、村尾三四郎。
強くてかっこよくて調子もいい、村尾三四郎選手。
ゴールデンスコア方式の延長戦に突入するも、
見事、大内刈技ありで勝利した。
二番手は高山莉加選手。
女子78キロ級の選手で、
相手のディコ選手は、最重量階級である女子78キロ超級。
パッと見、明らかな体格差。
検索してみたところ、
ディコ選手は体重は身長180センチ、体重95キロ。
これはかなり厳しいなとぼくは正直、思った。
実際、試合がはじまってからもパワーの差は歴然。
腹ばいになろうとする高山選手の背中をつかみ、
ぶらさげるように起こしたりしていた。
もしも。
もしもここで高山選手が敗れ、
そこから連敗していたら、どのくらい悔しいだろうか。
あるいはここで高山選手が敗れたあと、
そのあとは昨日の試合どおりで
2勝4敗で敗れていたら?
あくまで自分の感覚が基準になるが、
というか、そもそもずっと
自分の感覚が基準になってはいるが、
ぼくはこう思う。
悔しさの原因である「勝てる!」という思いに、
パチンとスイッチを入れたのは、
高山莉加選手の大内刈による優勢勝ちではないかと。
同僚の頭をジンジンさせ、多くの日本人を眠れなくさせ、
日曜日のいまもなお「悔しいなあ」と思わせているのは、
圧倒的な体格差の相手に必死で組みつき、
解説者の穴井隆将さんが思わず声を上げるような
大内刈で柔よく剛を制す技ありを勝ち取り、
すでに指導をふたつもらっていたため、
逃げることも下がることもできず、
穴井さんいわく「地獄の48秒」を耐えきった、
高山莉加選手のすばらしい一勝が原因なのではないかと。
たしかに、負けるはずのない
阿部一二三選手の敗戦も悔しかった。
スペイン戦で日本を救った髙市選手の敗戦も悔しかった。
しかし、それは単独の悔しさというより、
そこまでの「勝てる!」が掛け算になっている。
めちゃくちゃ大きな掛け算になっている。
その「勝てる!」のスイッチを入れたのは、
述べたように高山莉加選手の戦いなのだとぼくは思う。
じゃあ、こう思うだろうか?
高山莉加選手が、
ぼくらの悔しさのスイッチを
入れていなければなあ、と思うだろうか?
体格差どおりに負けていれば、
こんなに悔しがることもなかったのに、
と思うだろうか?
思うわけないじゃん。
最高の誇りじゃん、あれは。
パリオリンピック最高の名場面のひとつじゃん、あれは。
だって、あきらかに勇気じゃないか、あれは。
高山莉加選手の勇気がぼくらのスイッチを入れ、
見てる全員が「勝てる!」と思えたことで、
結果的に、ものすごい悔しさをもたらした。
いま、書きながら、ぼくはそういうふうに、
ぼくの悔しさをほどいている。
NHKのスタジオで、ロンドンオリンピック金メダリスト
リオデジャネイロオリンピック銅メダリストの
松本薫さんは、泣き崩れる斉藤立選手に向かって、
「いまは悔しいままでいいんです」とおっしゃった。
悔しさはアスリートのなかで変化して、
強いモチベーションにもなっていく。
選手でもアスリートでもないけれど、
観ているぼくらも悔しさは抱えたままでいいと思う。
けれど、悔しさの結び目はほどいていったほうがいい。
ぼくはぼくの悔しさのほどき方として、
いま、これを書きながら思った。
昨夜の敗戦は、「パリの悲劇」とかじゃなく、
「高山莉加選手の勇気」なのだと。
もちろん、悔しくなくなるわけじゃない。
書きながらありありと思い出すことで、
熱がぶり返すみたいに悔しくなったりもしている。
でも、悔しいときは、高山莉加選手の
あの大内刈を思い出すことにする。
ずっと悔しくて、いまもたくさんの
「もしも」や「たら」や「れば」が
頭をかすめるのを止められないけれど、
これからもずっと「あれは悔しかったなあ」と
長く思い出し続けることになるだろうけど、
ぼくはその悔しさと、あの大内刈を
セットにして思い出すことにする。
ふた回りくらい体格の違う高山莉加選手が
相手に組みつき、足を刈って、
大きなディコ選手の身体が向こう側に
ゆっくりと倒れていくあの風景を思い出すことにする。
すみません、とっ散らかりながらまた長く書きました。
長く書いたおかげで自分の悔しさについて
ちょっとわかった気がしました。
ああ、こういう話を誰かと延々したいな。
だからスポーツを観ているんだろうな。
最後に、冗長ついでに足しますが。
オリンピックについて、
大会期間中に毎日何か書くということを、
どういう因果かぼくはこの20年続けていて、
なんというか、それはとても助かっているんです。
今夜、仕事があってよかったな、と、
ぼくはしばしばと思います。
こういう激しい悔しさを感じる日とか、
逃げ出したくなるような怖い試合を観るときとか、
ついつい憤って誰かに愚痴りたくなるような
不条理を感じるようなときに、
今夜、仕事があってよかったな、と、
ぼくはしばしばと思います。
その意味では、「観たぞ、オリンピック」という企画や
「#mitazo」をたのしんでくださっているみなさんに、
ぼくはほんとうに感謝しているのです。

(つづきます)

2024-08-04-SUN

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