渋谷PARCOの「ほぼ日曜日」で開催中の
「はじめての、牛腸茂雄。」の案内人として、
このたび、
漫画家の和田ラヂヲ先生が就任されました。
そこで、「はじめての人代表」として、
牛腸茂雄さんの作品を見て
何を感じて、どう思ったか‥‥を聞きました。
そしたら先生、牛腸さんの写真と
ご自身の漫画との間に共通する何かを
感じ取っておられる‥‥!?
全4回の連載、担当は「ほぼ日」奥野です。

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第2回 もし、そのあとも生きたら。

──
牛腸さんのことについて調べていると、
よく出てくるのが、
ハンディキャップがあったという話で。
和田
何て病気でしたっけ。
──
胸椎カリエスという病気のようです。
おさないころに罹ってしまって、
生死をさまよい、助かったんですが、
背が伸びなかったそうです。
和田
二十歳までは生きられないって、
ずっと、
まわりから言われてたんだよね。
──
親しい友人の写真家・三浦和人さんも
二十歳まで生きられないと
言われ続けてきた人の人生は、
ちょっと想像できないと言ってました。
和田
いやあ、できないですよ。それは。
そんなね、生命の期限を区切られたら。
──
ですよね。
和田
それは‥‥重いだろうなあ。
想像できないです。締切りくらいしか、
区切られたことない人間には、とくに。
──
締切りも重いでしょうが、
生命の期限というのは、さぞかし‥‥。
和田
ねえ。
──
お母さんのインタビューを読むと、
地元の高校へ通うにも大変だったんで、
上京するなんてとんでもないって、
最初、みんな反対したらしいんですね。
でも、ご本人は、
グラフィックデザインをやりたいって
夢を諦められずに、
桑沢デザイン研究所に入学するんです。
和田
そこで写真に出会ったんだよね。
──
はい。写真の授業で
大辻清司さんという写真家の先生に
見込まれて、
「キミは写真をやれ」と言われたと。
和田
いや、そんなことを言われる人って
なかなかいないからね。
よっぽど見どころががあったのかな。
キミはギャグ漫画を描きたまえとか、
一度も言われたことないよ、人生で。
──
それは‥‥そうでしたか(笑)。
ちなみに参考までに、
大辻清司さんのお弟子さんとしては、
高梨豊さんや島尾伸三さん、
畠山直哉さんなど、
錚々たる写真家が名を連ねています。
和田
つまり、そういうすごい先生の、
お眼鏡にかなったひとりだったんだ。
──
そうみたいです。
そうしてカメラの道へ進むことに決め、
結局36歳まで生きて、
こうして素晴らしい写真を残しますが、
体調を崩して、故郷へ帰り‥‥。
和田
うん。
──
亡くなってしまうわけですけれども、
最後の言葉が
「ネバーギブアップ」だったという。
和田
そうとう無念だったんだろうけど‥‥。
どうして「英語」だったんでしょうね。
──
そうですね、たしかに。
和田
そのこともふくめて、
どんな気持ちだったのかと考えたけど、
やっぱり
うまく想像しきれなかったなあ。
──
作家として
まだまだこれからだったということは
たしかですし、
くやしかったのは当然でしょうけれど。
先生は、36歳のときは‥‥。
和田
もう漫画家でしたよ。

──
作品でいうと?
和田
いつごろだろう。
まだ「ヤンジャン」やってたのかな。
20年前でしょ‥‥まあ、
ともあれ、まだ頭が軽いときですね。
──
頭が軽い。
和田
ポンポン描けてた、いくらでも。
ネタ考えるのが苦じゃない年齢です。
いまは、ものすごい苦労してますが。
──
えっ、あ、そうなんですか。
ともあれそんなノリにノッてる歳で、
何でしょう、
生命が尽きてしまうだなんて‥‥。
和田
うん。まだまだやれるのに‥‥って。
でも「最後の言葉」か。
そんなの考えたこともないもんなあ。
──
これは完全に余談ですが、
レ・ロマネスクTOBIさんのお祖父さまは、
枕元にやってきたTOBIさんに向かって
「この恥さらし」と
言い残してお亡くなりなられたそうです。
和田
えーっと、それは何(笑)、
TOBIさんの「状況」を知ったうえでの?
──
そうだと思います。
でも、そのあとにNHKに出るようになり、
「少しは安心してるかな、天国で」
と、TOBIさんはしみじみ思ったそうです。
あの、全身ピンクの衣装をまとった姿で。
和田
NHKの神通力。あるよね。
──
そういえば、
先生といえば思い出す「ゴッホ」さんも、
牛腸さんと
同じくらいの年齢で亡くなってますよね。
和田
ああ、彼ね。わたしと言えばの。
──
ご存じない方のためにご説明いたします。
先生は、
マッキーとスケッチブックを小脇に抱え、
オランダ中の
ゴッホ作品を見て回った功績が認められ、
2020年に
国立西洋美術館で開催された
ロンドン・ナショナル・ギャラリー展で、
先生の描いたゴッホのイラストが、
オフィシャルグッズに採用されたのです。
言わば、ゴッホとのコラボレーションを
公式に認められた、
世界でも珍しいギャグ漫画家なわけです。
和田
大げさすぎるでしょう。説明が。
でも、そうか、
ゴッホが亡くなったのも37歳だもんね。
そのあとも生きていたら、
さらに作風が変わっていったのかなあ。
──
はい、その可能性はあるかもしれません。
オランダ時代は
茶色い絵ばっかり描いていたわけで、
住んだ土地でだいぶ作風が変わってるし。
あの、数年前、美術家の森村泰昌さんに
ゴッホの自画像と、
ゴッホが亡くなる直前に描いた
《カラスのいる麦畑》についてのお話を、
うかがったことがあるんですね。
和田
ええ。
──
それが、すごくおもしろかったんです。
森村さんいわく、
「正気を保っているわたし」と
「正気を失ってしまったわたし」との、
ふたりのわたしを抱え込んでしまった
ゴッホの「自画像」は、
「正気のわたしはここにいる」ことの
ギリギリの確認だったんじゃないかと。
和田
おお。
──
「正気のわたし」が描いた自画像は、
「線」つまり「秩序」で囲われている。
でも、自殺の直前に描かれたとされる
《カラスのいる麦畑》には、
ほとんど「線」がなく、
「色」つまり「混沌」で溢れていると。
和田
「正気のわたし」が、いなくなってた。
──
何の脈略もありませんが、
そんなことを、ふと、思い出しました。
和田
だから、ゴッホもそうだけど、
やっぱり若くして亡くなった作家って、
そのあとに
どういう作品をつくったんだろうって、
想像しちゃうよね、どうしても。
絵描きだけじゃなくて、
ミュージシャンとか、俳優とかも、
もし生きてたら、
どんな生きざまをしてたんだろうって。
──
ミュージシャンは、いっぱいいますよね。
たとえば、ブライアン・ジョーンズとか、
ジャニス・ジョプリンとか、
ジミ・ヘンドリックスとか、
ジム・モリソンとか、
みなさん、27歳で亡くなっていますし。
和田
ジミヘン絶対フジロックに来てたと思う。
フェス好きだから。
──
ははは、元祖フェス好き(笑)。
和田
フラッとひとりで来てギター弾いて帰る、
みたいなことになってたんじゃない?
牛腸さんみたいな写真家の人の場合って、
どうなんでしょうね。
写真家で、撮るものとか、
作風が変わっていった人もいるんですか。
──
森山大道さんみたいに、
ずっと路上を撮り続けてきた方もいれば、
森山さんの「ライバル」だった
中平卓馬さんは、
そもそも、もともと編集者だったわけで、
けっこう変遷があったかと思います。
和田
牛腸さんは、どうだっただろうね。
最後の写真集のカラー作品を見ていると、
それまでとはちがう、
新しい方向へ行ってた可能性を感じるね。

──
たしかに。
いまの話は、モノクロの写真の場合には
前後の物語を想像しやすいけど、
カラー写真の場合は、
前後の物語が出てこなかったってことと、
何かが関係してもいそうです。
和田
これをやっとかないと次へ行けないなあ、
みたいな作品って、あるんですよ。
──
おお。そうなんですか。創作の世界には。
和田
うん。それまでの自分の作品の流れとは
ちょっとちがうんだけど、
なんかやっとかなきゃなんない気がする、
このモヤモヤを出し切ってから、
新しいことに挑戦したい‥‥
みたいな時期って、まあ、あるんですね。
──
先生にも、ありましたか。
和田
ありました。
──
じゃあ、カラーの作品群が、
牛腸さんの作品が変わりつつあるときの、
過渡期的なシリーズ‥‥だったとしたら。
ここで亡くなってしまったということが、
いっそう悔やまれますね。
和田
見たかったよね、その後の牛腸さん。

(つづきます)

2022-10-08-SAT

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  • ラヂヲ先生が案内人をつとめる 「はじめての、牛腸茂雄。」

    ラヂヲ先生が「はじめての人」代表として
    「案内人」をつとめる
    写真展「はじめての、牛腸茂雄。」が
    渋谷PARCO8階にある
    「ほぼ日曜日」で開催されています。
    牛腸さんが遺した
    4つのシリーズからの作品を展示するほか
    愛読書、日記、詩を綴ったノート、
    年賀状、担任の先生からのコメントなど、
    牛腸さんの私物も公開します!
    入場者にはもれなく、
    案内人(=ラヂヲ先生)全面協力による
    特別な会場案内を差し上げます。
    なんと牛腸さんの写真を1コマに使った、
    ラヂヲ先生の4コマ4本が載ってます!
    たまらん出来栄えです。ぜひとも。

    写真展 はじめての、牛腸茂雄。

    牛腸茂雄を見つめる目。