販売員を経て、
現在はフリーランスで洋服を売っている
ライターの岩本ろみさんは、
「この人から買いたい。
ものを売る人がたくさんいるなか、
そう思わせてくれる人がいます」と言う。
短ければ、わずか数分。
ものを買う人の楽しみにそっと寄り添い、
気持ちよく導いてくれるその人は、
どういう道を歩み、何を経験して、
どんなことを知っているのだろう‥‥?
話に耳を傾け、学びたい。
ものを売る人として聞き、ライターとして書く。
岩本ろみさんの不定期連載です。
日野明子(ひの・あきこ)
1967年、神奈川県生まれ。共立女子大学在学中に工業デザイナーの秋岡芳夫氏に教わる幸運に恵まれ、手仕事の面白さに目覚める。1991年松屋商事株式会社で7年間営業として働いた後、1999年に独立。「スタジオ木瓜」の屋号で、問屋業、展覧会企画、雑誌編集協力、地場産業アドバイザー、大学講師など、「つくる人」、「つくる現場」、「もの」と「つかう現場」のつなぎ役として全国を飛び回っている。連載に「ひとり問屋・日野明子、作り手の家を訪れる」(『住む。』)「宝玉混沌パズル」(『Web Magazine AXIS』)、「あれやこれや 道具の話」(『暮しの手帖』)、「暮らしにごほうび」(「読売新聞』夕刊)うつわの連絡帖など。
岩本ろみ(いわもと・ろみ)
洋服の販売員とライターの兼業を経て、2022年春に独立。フリーランスで販売と執筆、パリのファッションブランド「Bourgine(ブルジーヌ)」の日本窓口を担当する。フリーペーパー『very very slow magazine』の、“早く、たくさん書けないけれど、ゆっくり楽しく書くことができる”発行人としても活動中。
- 百貨店に加え、家具や雑貨を扱う
インテリアショップも担当するようになると、
日野さんは、会社から与えられた枠を軽々飛び越え、
まるで取引先のバイヤーと一緒に店作りをするような、
踏み込んだ提案でさらに業績を伸ばしていった。
- 日野
- 「これ、あのお店に合いそう」と思った国内産の商品を
プレゼンするようになったんです。
当時は業務用の卸問屋の間にしか
流通していなかった「木村硝子店」は、
会社の先輩が「木村硝子店」と仲が良く、
例外的に扱えたため、
ここぞとばかり、合いそうなお店にはすすめました。
会社からは、
「お前はフィンランドのものだけを売ってろ」と
言われていたにもかかわらず(笑)。
うちの会社は、仕入れた商品の在庫が、
棚卸しの時点でゼロになっていれば、
何を仕入れても許されるという
なんとも恐ろしい会社だったので、
勝手に仕入れてはプレゼンできたんですね。
自分で使いたいものをすすめていたので
もし取引先に断られても、
自分が使えばいいと思っていました。
そうやってお付き合いのあるお店の売り場を
どんどん浸食していったんです。
同じ商品でも、お店によって、
ものの顔が変わって見えるのが本当に面白かったし、
それはものにとっても、作り手にとっても
いいことだと思ってやっていました。
「問屋、辞められんぞ」と息巻いていたのですが、
本社の「役割を終えた」という認識から、
1998年に松屋商事は解散してしまうんです。
- 翌年、日野さんは「スタジオ木瓜(ぼけ)」を
屋号に掲げ、独立。ひとりで問屋業を営み始める。
当時の印象深い出来事として、
独立の挨拶回りで足を運んだ
六本木のインテリアショップ
「LIVING MOTIF(リビング・モティーフ)」で
かけてもらった言葉が忘れられないと教えてくれた。
- 日野
- 「営業担当が日野さんに代わってから、
うちと松屋商事との取引高がすごく増えたよね」って。
お店も私も得手不得手があります。
彼らにとっては見つけにくいけれど、
私が得意としているものをうまく補完することで、
そのお店を好きな人が、
より楽しく買い物ができるようになる。
これは問屋の醍醐味だし、
こんなにハッピーなことはないと思うんです。 - 独立後に加わり、今も続く仕事の一つが展覧会の企画業。
最初期には、料理家が考案した50種類のご飯を
作家50名のご飯茶碗に盛り付けて撮影した
パネルを展示するという企画を担当したことも。
その規模からもわかるように、当時の日野さんは、
多くの作家と繋がりをもつ
“個人作家が得意な日野さん” で通っていたという。
転機となったのが約10年後の2010年。
益子の「starnet(スターネット)」で、
台所道具の企画展を担当したことで
“地場産業が得意な日野さん”へ。
- 日野
- 2013年に亡くなられた「starnet」代表の
馬場浩史さんからの依頼だったのですが、
「台所道具のみで、かつ作家ものはなしでね」と
言われたんですよ。
今でこそ、台所道具を集めた展覧会は
珍しくなくなりましたが、
当時そんな切り口の展示は
どこもやっていませんでした。
あれは馬場さんのプロデュース力ですね。
「作家ものは抜きかあ。どうするかな」と考えて、
まずはつながりのあった新潟の燕で、
ほかには岩手県の南部鉄器、大館の曲げわっぱ、
和歌山のたわしなどの台所道具を仕入れました。
この企画があったから、私は今も重宝されて、
生きていけていると言ってもいいくらい。
馬場さんの先を見る感覚には圧倒されます。
- ちょうどこの頃、個人作家の作品を取り扱う難しさを
感じ始めていたという日野さん。
作家の作品は、シリーズものであっても、
仕上がりがわずかに違ったり、時の経過とともに
作風が変化したりと、
人の手からダイレクトに生み出されるものゆえ、
デザイン、品質、数にどうしてもゆらぎが生じる。
- 日野
- 私を介して、お店に並ぶことで、
作家が活躍するきっかけは与えられても、
その先はお店との関係が
大きく影響してくることに気付いたんです。
何より個人作家は
直接お客さまと接するお店と密に結びついてこそ。
間に人が入ることで作家もお店もお互いに言いたいことを
言いやすくなるという場面もありましたが、
「問屋に納める物だから」「問屋から仕入れた物だから」と
どこか緊張感が薄れることにも気付きました。
- 一方で地場産業のプロダクトは、
一つの商品を同じクオリティで一定量生産できるため、
仕入れと卸しの循環が安定する。
作ることは得意でも、売ることに苦手意識を持つ
職人やメーカーが少なくなく、
お互いを補いあう関係を築けることに
やりがいを感じてきた。
適材適所。
日野さんと小売店との関係性とも通じる話だ。
- 日野
- 独立して20年、独立前から数えると30年も
この仕事を続けていると、
不思議なつながりもできるもので、
作り手から『そんなところにうちの商品が納まるんだ』と
びっくりされたりもします。
いいものをきちっと見つけて繋げていくことが、
今は楽しいですね。
いつも何かと理由を見つけては、
工場に入らせてもらおうとしているんです。
- 商品が完成するまでの過程に精通することは強みになる。
しかし、日野さんの場合、それが
仕事をなめらかに進めるために不可欠なものといった
認識のうえにあるものではなさそうだ。 - 鰻屋の軒先で鰻が焼かれるのを、
ずっと見ていた当時の好奇心が、
今も変わらないだけで、ものを売るための手段というよりも、
もはや現場を見ることこそが目的のような、
そんな欲求がほとばしっている。 - こうなれば作り手たちと距離が縮まるのは必然だ。
工程ごとに細かく縦割りされた地場産業の現場では、
一つの工程でも、職人が欠けてしまうことで
商品を作り続けられなくなる事態になりかねない。
そんな場面に直面したときにも
「解決策を提示できるときばかりではないけれど、
悩みを共有することはできるから」と話に耳を傾けてきた。
また、値付けに対して意見することも珍しくなく、
きっかけは作り手が漏らした一言のときもあれば、
「これ、なんだか安すぎない?」という
日野さんのまっすぐな問いかけのときもある。
- 日野
- 「こんなにいいものなんだから、
作り続けなきゃいけないんだよ」という想いが前提にあります。
作り手のなかには昔からの付き合いを考慮して、
何年も値段据え置きの人や、
手間賃を考えていない人もいて、
皆一様に言うのが「値付けは一番難しい」ということ。
売り場を知る人間として率直な意見を伝えるようにしています。 - 価値がわかる人にはわかるもの。
もし値上げして、『高い』と言われるお店にしか
納めていないのなら、お店を変えるなり、
できるだけ視点を変えてみましょうねって話をするんです。
私が自分で売りに行ける場合は、
「私が売りに行くから!」って、いろんなお店に挑戦して。
たまに玉砕して「ダメだった。ごめんなさい」
ということもあるんですけれど。
(つづきます)
2022-08-11-THU
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取材・文:岩本ろみ
イラスト:岡田喜之
編集:奥野武範(ほぼ日刊イトイ新聞)
デザイン:森志帆(ほぼ日刊イトイ新聞)
撮影協力:小田原・菜の花暮らしの道具店