あなたは「スケーパー」を知っているか。
いるのだ、そう呼ばれる者たちが。
ふつうの人々に混じって、
気づかれることなく、そこらへんに。
彼ら彼女らは「見えない」わけじゃない。
それなのに、
完全には見わけることが難しい。
その目的は? 生態は? 正体は?
なぞのスケーパーを追う
某新聞のO記者によるレポートが、
ときどきここにアップされていくだろう。

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2023年6月27日 @都内某所 所 長

白衣の女性と、対峙している。スケーパー研究所を統括する田口陽子所長である。現時点において世界でただひとり、スケーパーを「研究」している人物だ。平生は首都近郊の大学で建築を教えているというが、それはおそらく仮の姿だろう。若者たちをかどわかし、スケーパーという「なぞ」を巧みにあやつり、世界征服とは言わないまでも、よからぬことを企んでいるのでは‥‥? そこまで想像させてしまうところが、スケーパーの不気味さだ。ともあれ、それほどの重要人物を放っておくわけにはいかない。意を決した私は、対面による直接取材を申し入れた。指定された面会期日は、水無月6月の最終週。数日前からの曇天をずるずると引きずった、火曜日の昏い午後。
記者の「勝ち筋」とは、つねに「先制攻撃」と「単刀直入」である。あなたはなぜ、スケーパーを研究しているのか? 多くの若者に白衣を着せて、いったい何を企図しているのか? ずばり、スケーパーとは何なのか? 三太刀、出会い頭に浴びせかけた。しかし、所長もさるもの、ゆらりぬらりと体(たい)をかわすようにして、静かに言った。「スケーパーとは『意味』に迫るチャンスなのです」。意味に迫る‥‥チャンス? 「スケーパーという存在は、先んじて意味を持ってはいません。われわれが、そこに勝手に意味を見い出しているだけなのです」。
豆鉄砲を食らったハト(=私)に、所長は一葉の写真を差し出した。そこには、中部地方の某所で観測されたという、芝生の手入れをするスケーパーの姿が写っていた。一見、お庭の掃除にいそしむおじさんである。しかし、両目を凝らしてよく見れば、作業着の着こなしといい、腰の入れ具合といい、熊手の角度といい、枯れ葉の山がなす稜線といい、芝生の手入れをするおじさんとしてあまりに完璧だった。まるで、映画や漫画の世界から飛び出してきたキャラクターのよう。彼の姿をミレーが描いたら、かの《種をまく人》と「対」をなしそうなほど、パーフェクトなポーズと構図。だからこそ所長は、スケーパーではないかと疑っているのだ。そう、ここで注意すべきなのは、彼がスケーパーかどうかの確証を得る術はないということである。スケーパーかどうか聞かれても「スケーパーって何ですか?」などとシラを切り通すらしい。きっと「わたしはスケーパーではありません」などと否定するケースもあるだろう。とにかくスケーパーは、そうであることを認めないよう厳しく訓練されているのだ。確証を得られない以上、あくまで「見る側の心の裡に棲んでいる」。だからこそ所長は「勝手に意味を見いだしているだけ」の存在と言い切ったのである。スケーパーとは、正しく「見る側、私たちの側の問題」ということか‥‥。所長はさらに「どんな人や物体にスケーパーを見い出すか。そこに、見る側のキャラクターや個性が出るのです」と付言した。そのことがスケーパー研究のおもしろさなのですと言って、頬を微かに緩ませた。
で、あるならば。スケーパーが突きつけるのは「見る」ことの重要性なのかもしれない。放っておけば気にもとめないような存在に、どれだけ目配りできるか。その能力を、彼らは問うてくるのだ。私たちの「見る」に、再考を促す‥‥それが、スケーパー? 「ほら、現代人は『ニュートラルに見る』ことができなくなっているから」。たしかに‥‥! 意味やら、背景やら、予見やら、さまざまな想念に邪魔だてされて。「いま、私たちは『値段が高い』とか『フォロワー数が多い』とか『バエる』などの価値情報を事前に仕入れてから、対象を『たしかめるように、見る』ことばかり。ヴェネチア旅行では、かの有名な運河や泉を記号として確認し『ああ、ヴェネチアに来たのね』と感動する。そのこと自体は悪いことではないけれど、でも、有名かどうかなど一切の情報を外して『見る』とき、私たちは、より多様な気づきを得ることが出来るのではないかと思うのです」。なるほど‥‥スケーパーとは、本来の『見る』を、われわれに取り戻す契機なのかもしれない。
ともあれ、さすがは世界で唯一の研究者である。そのスケーパー論には、底の知れない深さと確かな説得力があった。しかし同時に、スケーパーを言葉で説明するさいの「困難」も感じた。「スケーパーとは‥‥」と定義しようとした瞬間、その実体が、ただちに「雲散霧消」してしまう。言葉の網目をスルリとすり抜けていく、永遠の逃げ水のような概念なのだ。
そして、そうであることを承知のうえで、田口所長は、スケーパーの「研究」に身を捧げている。何かを「研(みが)き究(きわ)める」とは、まさしく「言葉で記述する」ことである。険しい道のりであるに違いない。狐のように疑り深い目をしていた私は、いつしか、孤高の田口所長に敬意と感服を覚えていた。なぞのスケーパーを、我が手の内につかまえたい。言の葉の網で、概念のフレームワークで、その実態を把握し理解したい。立場は違えど、その1点で、私たちは志をともにしていた。所長はアカデミズムの領野から、私はジャーナリズムの片隅から。ともに、なぞのスケーパーを迫いかけようじゃあありませんか。われわれは互いに共闘を誓い、固い握手を交わして別れた。
研究所のホームページ上でスケーパー目撃情報が収集されはじめたのは、それから2ヶ月後のことだった。

某新聞 記者 O

調査番号Z001「芝生の手入れをするスケーパー」©スケーパー研究所 調査番号Z001「芝生の手入れをするスケーパー」©スケーパー研究所

(次回へつづく)

2023-10-05-THU

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  • illustration:Ryosuke Otomo