「どうすれば、自分を『大切に』できるのか」特集
第2弾は、住職の吉村昇洋さんのインタビューです。

吉村さんは、
「日常生活に精進料理を取り入れて
心身に向き合うこと」を伝える活動をなさっています。
この提案は、自分の食を大事にできず、
夜中にお菓子を爆食したかと思えば、
太りたくない! と急に断食したり、
ながら食べばかりしてしまったりして
自尊心が低下していく私に、ゴーンと響きました。

吉村さんにインタビュー取材をお願いしたところ、
「折角だから、精進料理体験をしていただいた方が、
記事にリアリティが出ますよね。作りますよ!!」と
ありがたすぎるお返事が。
精進料理、食べられるの!? 食べてみたい!! と
煩悩まみれで広島に向かった私たちが教わったのは、
精進料理の考えを実践すると、
自分にも、他人にも、環境にも「当たり前」に
やさしくなれるということでした。
担当は、ほぼ日の松本です。

>吉村昇洋さんプロフィール

吉村昇洋 プロフィール画像

吉村昇洋(よしむらしょうよう)

1977年3月、広島県生まれ。
公認心理師、臨床心理士、相愛大学非常勤講師、
一般社団法人 仏教文化研究会 代表理事。
駒澤大学大学院人文科学研究科仏教学専攻修士課程
修了(仏教学修士)。
広島国際大学大学院総合人間科学研究科
実践臨床心理学専攻専門職学位課程修了
(臨床心理修士)。

広島県の曹洞宗八屋山普門寺において、
定例坐禅会や本格的に禅の精進料理を学べる
「広島精進料理塾」などの各種イベントを手がけ、
大学やカルチャーセンターでの講義・講演、
テレビ・ラジオへの出演、雑誌や書籍の執筆などの
様々なメディアを通して
禅仏教を伝える活動をしている。
最近ではNHK総合、Eテレ、BS1の各種番組を
中心に、講師として出演し人気を博す。
その他、広島県内の精神科病院や
大学学生相談室にて心理職としても
日々活動を行っており、
心の健康に関する講演なども手がける。
著書に、近著の『精進料理考』(春秋社)のほか、
『心とくらしが整う禅の教え』(オレンジページ)、
『気にしない生き方』、『心が疲れたら
お粥を食べなさい』、
『気にしなければ、ラクになる。』
(いずれも幻冬舎)、
『週末禅僧ごはん』(主婦と生活社)がある。

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第2回 「私は他者であり、他者は私である」

吉村
さっそくつくり始めていきましょう。
今回つくるのは、梅干しの炊き込みごはん、
なめこのお味噌汁、サラダ、大根餅です。
ほうれん草と湯葉のおひたし、ふき味噌、
菊芋のお漬物、トマトは用意してあります。
──
うわー、おいしそうです! 

広島の野菜たちです。美しい! なめこの大きさにも注目です。 広島の野菜たちです。美しい! なめこの大きさにも注目です。

ご用意くださった、ほうれん草のおひたし。 ご用意くださった、ほうれん草のおひたし。

吉村
では、大根餅に使う大根を
すりおろしていきます。
(数分後、大根をおろしながら)
あー、しんどい・・・・。
これは、単純にしんどい作業です(笑)。
──
修行ですね(笑)。
吉村
でもね、皆さん、仏教の修行を
「厳しい、しんどいもの」と思っていますけど、
そういうものではないんですよ。
──
え、違うんですか。

吉村
しんどいことを、わざわざ自らやっていく
というのが「修行」ではないんです。
「何か厳しいことをやって、悟りに至る」
みたいなイメージも、違います。
──
まさにそんな感じだと思っていました! 
吉村
違うんですよ。
特に禅は全くそういうものではないです。
「当たり前のことを、当たり前にやること」が
禅の修行なんです。
──
ええー、「当たり前」ですか? 
吉村
はい。
つらい、痛いイメージを持たれている座禅も
「安楽の法門」と言われるように、
本来、心も体も楽な状態になっていくという
ものですからね。
──
そうだったんですね。
山伏の方などがなさるという、
何日もご飯を食べないで走るような
修行でも、それに当てはまるんですか? 
吉村
ああいった修行は、
走りながら自然と一体になることを
目指しているんですね。
僕らの坐禅と、目指している状態は同じなわけです。
──
ああ、そうか。
どちらも、心と体が安定した、
心地よい状態になることを目指しているんですね。
吉村
そうです。
──
坐禅というと、ただ、
背骨を真っ直ぐにしないといけない、
足が痛い、そんな感じだと思っていました。
吉村
ははは。違うんです。
結構、そこは誤解されている方が多いですね。

──
修行の目的って、「自我を消す」みたいな
イメージがあったのですが、
それともまた違うのでしょうか。
吉村
うーん、そうですね。
実は少し違って、仏教ではそもそも
「無我」が前提なんです。
──
というと・・・・
吉村
まず、仏教の最大の目的は
「自分も他者も幸福になる」ことなんですね。
──
はい。
その考え方には「自分」も「他者」も
いるんですよね。
吉村
そうとも言えますね。
しかし、仏教の根本的な教えである
「諸法無我」というのは、簡単に言うと
「すべてのものには実体がない」
ということを指しています。
──
この「自分」にも実体がないという
ことですか? 
吉村
そういうことになります。
「私」というのは唯一無二で、
他と比べようのない、完全に独立した存在
と思われがちですが、
「それはまやかしだ」と言うのが仏教なんですよ。
──
「まやかし」ですか。
でも、「私」がひとりしかいないのは
確かじゃないのでしょうか。 
吉村
では、「私」という言葉が
世界の中でどのようにして生じてくるか、
ということを考えてみてください。
仮に、何にもない空間の中に
自分ひとりしかいないとすると、
そこで「私」って言葉は生まれてきますか? 
──
・・・・ 生まれてこない、かもしれないです。
吉村
そう、出てこないんですよ。
なぜかというと、
自分を主張する必要がないからです。
じゃあ、自分を主張する必要は
どうして出てくるのか? 
なぜ「私」が必要になるのか? 
それは、「他者がいるから」なんですね。
──
ああ、たしかに。
吉村
そうなってくると、
「私」を形づくっているのは「他者」だ
ということになります。
ここが重要なんです。
私というものが他者によって規定されていると
考えるからこそ、
「私は他者であり、他者は私である」
という思想が、仏教の中に生まれてきたんですね。

──
なるほど・・・・。なんとなく、腑に落ちました。
吉村
よく、経典でも
「自分と同じように他者を大事にしなさい」
と言われます。
それは、「私は他者であり、他者は私である」
を強く表していますよね。
──
ということは、
「自分と同じように他者を大事にする」のは
自然な行為で、やせ我慢じゃないんですね。
吉村
そうなんですよ。
本来、私というものは
自分と他者を同じように扱うようにできている。
となれば、「周りの人を大切にしましょう」
という思想が出てくるのは当たり前なんです。
自分自身を大事にしようというときに、
他者を大事にする。
その逆も然り、という感じです。
──
自分を大事にできないと、他の人を大事にできない
というのは、よくわかる気がします。
接客のアルバイトをしていたとき、
心に余裕があるときは、お客さんにも
「いらっしゃいませ~!」って、
笑顔で話しかけられたんです。
でも、忙しいときとか
自分の心が荒んでいるときに
お客さんに声をかけられると、つい
無愛想な態度をとってしまったことがあって・・・・。
吉村
ああ。それは、
他者にどういう言葉をかけるか、という
話でもありますね。
さっき、人間は他者との関係性によって
成り立っていると言いましたが、
その「関係」を潤滑にするためのツールとして
いろいろなものがつくられてきました。
そのひとつが「言葉」です。
仏教には「愛のある言葉」を指す
「愛語」という用語があるのですが、
愛語には「廻天」の力があると
言われているんですよ。
──
「廻天」ですか? 
吉村
この「廻天」は、
「状況を変化させる」という意味です。
悪い状況に陥っているときも
「愛語」を心がけることによって
状況が変化していきます。
でも、さっきお話ししていたように、
自分が調子いいときだったら
いくらでも「愛語」、言えるんですよね。
だから、反対に、
良くないことがあって、それによってさらに
気持ちが落ち込んで、
他人にも冷たく当たってしまい・・・・
という悪循環のなかで
「愛語」を発せるかどうかが問われるわけです。

──
そうか。
「忙しいときや
自分の心が荒んでいるとき」こそ、
「愛語」の力の見せ所なんですね。
吉村
負の連鎖のなかで、自分が先陣を切って
「愛語」を発せるか。
もしかすると、
貧乏くじを引いているように感じるかもしれません。
それでも、あえて「愛語」を言うということを
選択できるかどうか、が重要なんです。
──
その選択は、
回り回って、自分のためにもなるんですよね。
自分というものは、周りの人がつくるわけだから、
周りの人がよい状態になってくれることで
自分の状態もよくなる。
吉村
そうですね。自分のためにも、相手のためにもなる。
──
ひいては、自然な行為でもあるんですね。
吉村
そういうメンタルになっていくのが
修行というものだと言えますね。

(続きます)

2023-08-22-TUE

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