たくさんの人が憧れる
グラフィックデザイナー祖父江慎さんと、
糸井重里が久しぶりに会い、話しました。
ソブエさんのブックデザインはいつも斬新ですが、
なんだか世界になじんでいく「変さ」なのです。
ソブエさんのアイデアはどんなふうに生まれ、
実行され、形になっていくのでしょう。
糸井がひとつずつ手順を追うようにうかがいました。
ソブエさんのデザインからにじみ出るうれしいこと、
その源泉をじっくりおたのしみください。

この対談は「生活のたのしみ展2023」
ほぼ日の學校トークイベントとして開催されました。

>祖父江慎さんプロフィール

祖父江慎(そぶえ しん)

1959年愛知県生まれ。
グラフィックデザイナー。コズフィッシュ代表。
多摩美術大学在学中に工作舎でアルバイトをはじめる。
1990年コズフィッシュ設立。
書籍の装丁やデザインを幅広く手がけ、
吉田戦車『伝染るんです。』や
ほぼ日ブックス『言いまつがい』、
夏目漱石『心』(刊行百年記念版)をはじめとする、
それまでの常識を覆すブックデザインで、
つねに注目を集めつづける。
展覧会のアートディレクションを手がけることも多い。
X:@sobsin

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第2回 なんでも鉛筆。

糸井
完成までにいちばん時間が掛かったのは、
確か、ご自身のデザイン事務所の
作品集でしたね。
展覧会の図録にもなった、あの本
祖父江
11年、掛かりました。
最初の入稿から完成まで。
糸井
ソブエさんの会社「コズフィッシュ」の
展覧会に間に合わせるように作りたかったのに、
展覧会が始まってもできあがらなくて。
祖父江
はい、間に合いませんでした。
それで、そのまま微妙に微妙に進み続けて、
10年くらい経ったときに
次の展覧会をやることになって。
「今度こそ間に合わせましょう!」ということで、
ようやく完成しました。
最初のプランがいちどなくなって、
作り直したり設計を変えたりして
10年後にできました、
という本は多くあるんです。
でも、このカタログ本の場合は、
ちゃんと入稿をしてプランも変えず、
最初から繋がっていたのに10年掛かった、
というのが特徴です。

会場
(笑)
祖父江
この本の前半部で使っていた
コンピュータのソフトが、
後半部に入るとバージョンが進んでしまって、
あれこれ統一するのが大変でした。
糸井
作り方が、もう、
最初と最後で違っていたわけですね。
どうやって前半を直したんですか? 
祖父江
結局は印刷を担当した
凸版印刷の方が助けてくださいました。
大昔のバージョンを開くことができる
コンピュータが1台だけあって、
それを用意してくださったんですよ。
本まるごと、一気に統一しようとすると
文字が崩れてしまうんですが、
ちょっとずつバージョンアップすれば、
わりと大丈夫だったんです。
なので、あのカタログ本一冊に、
コンピュータの歴史が全て入っていたという(笑)。
糸井
すごいですねえ。
コンピュータの進化まで詰まっている。
祖父江
どれほど目まぐるしかったかっていうのが
わかりますよね。
進化が速すぎですね、コンピュータは。
糸井
僕も冗談じゃなくそう思います。
「こんなに急いでどこへ行く」っていう気はします。
もともと、ソブエさんがデザインを始めたころは、
コンピュータがまだ使われていなかった
時代ですよね。
祖父江
そうでした、楽でした。
糸井
あ、その時代のほうが、楽だったんですか? 
祖父江
楽、楽。
写植の時代は、紙と鉛筆と定規があったらどこでも
仕事ができたので、楽だったんです。
糸井
自分用の暗室を
持ってる人も多かったですね。
祖父江
持ってましたねえ。
そういえば、僕よく暗室で寝ました。
フリーになる前に勤めていた会社にも
暗室があったんですが、プリントが終わるまで
待たなきゃならなかったんですよね。
だから、その間に寝られる。
「やったあ暗室だ! 寝る」っていう感じ。
糸井
はあー、思えば、
ソブエさんがデザインのお仕事を始めたころって、
全部が「鉛筆の仕事」でしたね。

祖父江
そうでした。
鉛筆の仕事のときは、
もう暗室すらなくてもいいぐらいでした。
印刷の「アタリ」も鉛筆で書いていました。
糸井
たぶん、この会場に来てくださっている方たちには、
これが明治時代の話みたいに
聞こえてると思うんですけど(笑)、
それほど昔じゃないですよね。
祖父江
つい最近までそうだったんですよ。
写真をレイアウトするときには、
大きさを決めたらライトで透かして、
トレーシングペーパーのような透ける紙をあてて
上から絵をなぞって大きさを指定していたんです。
「ここに人がいて、バッグがあって‥‥」と、
もとの絵のモチーフを、つい丁寧に描いちゃって、
上司に「そこまでしなくていい」と
いつも怒られていました。
糸井
つまり、絵や写真を印刷するのに、
「こういう場所にこんなふうに置いてください」とか、
「アップにして、切り抜くのはここです」とか、
「ここの色を濃くしてください」みたいに
指定をするのは、全部鉛筆書きだったんですよ。
印刷する原稿が大きければ、
それに合う大きなレイアウト用紙を使っていましたよね。
祖父江
はい。
タイトルの書体とかも寄せて書きましたね。
指示は赤鉛筆で入れて。
糸井
全部を手で再現したものを渡してました。
あのとき、仕事ってよく進みましたね。
祖父江
いろんなことが分業でしたからね。
指示を受け取って版下にする人、
文字を打つ人、製版をする人‥‥
みんなそれぞれにやってました。
糸井
今になるとよく自分も、
悪いことしたなあ、と思います。
昔、僕の作るコピーが〆切に遅れたとき、
デザイナーにそうとう
しわ寄せが行ってしまいました。
デザインをするのにも、コピーが必要ですからね。
コピーが書けてデザインができても、
今度はそれを写植屋さんに持っていって
活字にしてもらわなきゃいけなかった。
祖父江
写植屋さんに電話して、
「今日はちょっとまだ文言ができていないんで、
今晩よろしくお願いします」って言うと、
待機してくださってましたね。
僕は当時、喜国雅彦さんの漫画を
担当していたんですが、
ひとつ決まらないセリフがあって、
喜国さんからの連絡を
ずうっと待っていたことがありました。
夜中にようやく決まったんですが、
それが「チン◯」とか、
なんかそういうセリフだったんですけど。
その文字のために写植屋さんは待ち続けてて、
「来ました」っていって、
活字にして送ってくださって。「チン◯」を。
そういう時代もありました。
糸井
まるで、蔦屋重三郎の話を
しているみたいですけども(笑)、
もちろん、ちょっとずつは違いますけど、
印刷ってほとんど版画に近いものなんですよね。
祖父江
ああ、版画ですね。
「版画は貴重だけど、
印刷したものの価値は大したことない」
なんて思われがちですが、
実は、印刷もある種の版画で、貴重なものなんです。
10年前のような印刷は、もうできないです。
日々、着々と印刷は変わり続けているので、
「いつまでもあると思うな、印刷」
っていう感じ。

糸井
ほんとですね。
印刷って技術そのものが、
だんだんと昔のものに
なっていっちゃうわけですね。
祖父江
はい。
もう本当に、今では再現できない印刷がたくさん‥‥
どんどんなくなり中です。
糸井
なくなり中ですか。
そういった「消えていってしまう印刷技術」というのは、
もう不必要になった、ということなんでしょうか? 
祖父江
需要がなくなったんじゃないでしょうか。
特殊な印刷だと、
ものすごい数を刷らないと
採算が取れないこともありますし。
今、そんなにいっぱい初版も刷らないですものね。
糸井
さきほど写植の話が出ましたが、
あのときには事務所にも家にも、
「文字の在庫」はありませんでしたから、
文字を「活字」にすることは、
かんたんにはできませんでした。
今はみんなが自分のコンピュータの中に
文字を持ってるでしょう。
「フォント、何にする?」とか、
当たり前のように言ってます。
つまり、すごい活字棚が
自分の家にある状態になっているわけですよね。
祖父江
そうですね、書体が
何種類も入っていたり。
糸井
これは、デモクラティックには
素晴らしいことなんです。
しかし、こんなにも僕たちは、
活字を持っちゃって、
人の言葉も持っちゃって、
少し持てあましている感じがして‥‥。
祖父江
僕が子どものころは、
自分の名前が活字になったのが
嬉しくてしょうがなかったです。
「自分の名前、活字じゃん」って。
それがもう、今だと活字のほうが普通になってきた。

(つづきます)

2023-12-22-FRI

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