NHKの深夜5分枠の番組から
全国的なブームになった『TAROMAN』。
あのちょっと変わったヒーローを、
岡本太郎記念館館長の平野暁臣さんは、
どんなふうに見ていたのでしょうか。
TAROMANを制作した
映像作家の藤井亮さんをお呼びして、
岡本太郎のこと、TAROMANのこと、
糸井重里もまじえておしゃべりしました。
昨年の「ほぼ日の生放送」でのトークを、
テキストバージョンにしておとどけします。

>平野暁臣さんについて

平野暁臣(ひらの・あきおみ)

空間メディアプロデューサー、
岡本太郎記念館館長、
ジャズレーベル「Days of Delight」主宰。

大阪万博で岡本太郎が創設した
「現代芸術研究所」を主宰し、
イベントやディスプレイなど、
空間メディアの領域で多彩なプロデュース活動を行う。
2005年岡本太郎記念館館長に就任。
明日の神話再生プロジェクト、
岡本太郎生誕100年事業、
太陽の塔再生プロジェクトの
総合プロデューサーを務めた。

>藤井亮さんについて

藤井亮(ふじい・りょう)

映像作家、
クリエイティブディレクター、
株式会社豪勢スタジオ代表。

1979年生まれ。愛知県出身。
武蔵野美術大学・視覚伝達デザイン科卒。
電通関西、フリーランスを経て
「GOSAY studios」設立。
考え抜かれた「くだらないアイデア」で
つくられた遊び心あふれたコンテンツで
数々の話題を生み出す映像作家。
アニメーションなどの多くの工程を
自ら行うことでイメージのブレのない
強い表現を実現している。

藤井さんが構成・脚本・監督を務めた
『TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』は、
2022年7月19日(18日深夜)から
7月30日(29日深夜)まで、
Eテレで放送された全10話の特撮テレビドラマ。
SNS上など口コミで一気に広がり、
再放送や展覧会なども開催され、
子どもたちの間で一大ブームを巻き起こす。
NHKの公式サイトはコチラからどうぞ。

Twitter:@ryofujii2000

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第4回 芸術になってしまえ。

平野
敏子は、太郎といるときは
けっしてメモ帳を手放しませんでした。
そのとき話したことを、
とにかくぜんぶメモに残した。
糸井
太郎さんのことを、
ことばで覚えてる人って
かなり多いと思うんです。
その、ぶわっとあふれ出たことばで。
平野
太郎は絵もそんな感じらしいです。
いまからこういうテーマで
こういう組み立ての絵を描くぞって決めて、
「こうかな、いやちがう、
こうかな、もうちょっとこうかな」
みたいな描き方はしない。
「こういう絵を描きたい」と思ったとき、
太郎の頭の中には
すでに完成形があるらしいんです。
その頭の中にあるイメージを、
そのままキャンバスに投写する。
それってさっきのことばと同じで、
やっぱり「出ちゃったもの」なんですよね。
ことばも、絵も、みんなそう。
テーマとかタイトルとか、
そういう概念が先にあって、
そこからロジカルに組み立てていくんじゃなく、
もう最初からドーンと出ちゃう。

糸井
それを、岡本太郎ほどの
インテリゲンチャじゃなければ、
そういうこともあると思うんだけど、
そういう岡本太郎というのを、
インテリの岡本太郎がつくったところに、
とても興味があるんです。
だって、ほんとうは研究者ですよね。
平野
そうですね。
藤井
たしかに本を読んでいても
そういうエピソードがよく出てきました。
だから、ほんとうはじぶんで
そういうポーズをしていたのかなって。
「岡本太郎であろうとしていた」というか。
そういうものは感じました。
糸井
そういうふうに見えますよね。
ふつうの絵描き以上に、
ほんとうにものを知っていたし、
勉強もしていたし、
絵画理論もぜんぶわかったうえで、
それを「捨てる」っていう
大仕事をじぶんに課したというか。

藤井
ぜんぜん無茶苦茶な人じゃないですもんね。
本を読むかぎりですけど。
糸井
ぜんぜん無茶苦茶ではないです。
平野
なにしろ超のつくエリートですからね。
藤井
そうですよね。
糸井
パリにいたときだって、
きっとフランス語を使って
まわりとやり合ったりしてたわけでしょう。
平野
フランス語はネイティブレベルです。
ふたつの大戦のあいだの、
パリがいちばんいいときに、
芸術文化領域のトップランナーたちと
真正面で渡りあっていた。
本人もパリ大学の民族学科を出てるわけで。
糸井
たしか、モースのお弟子さんですよね。
※マルセル・モース。(1872ー1950)
フランスを代表する社会学者、文化人類学者。
代表作に『贈与論』など。
平野
そうです、はい。
藤井
そういう人がテレビで
「おもしろオジサン」になっていたのは、
すごい不思議なようでいて、
なんか腑にも落ちるというか。
糸井
じぶんをつくり直したんじゃないかな。
ものすごく行き詰まるぐらいまで
考えに考えてた人が、
「捨てるのが仕事だ」って思ったというか。
それって親鸞が比叡山をおりて、
大衆の中に入っていった
みたいなことだと思うんです。
俺はもういままでのじぶんを
変えなきゃダメなんだって思って、
それをやった人だからこそ、
みんなが頭を使ってるふうにしてると、
「なにしてるんだよ」って
ものすごく思ったんじゃないかな。

平野
パリ時代に民族学を学んだことが、
すごく大きかったんだと思います。
そもそも太郎はパリで
抽象絵画を描きはじめたわけですけど、
すぐにその枠組みから外れて、
今度はシュルレアリスムのリーダー、
アンドレ・ブルトンに誘われたりしながら、
それにも入らず民族学を選びます。
彼がそこで感動したことのひとつは、
原始社会の人たちがつくるものは、
どんなに見た目が芸術的であっても、
芸術品としてつくられたわけじゃなく、
あくまで生活のために、
生活の一部としてつくられたものであって、
職業芸術家が商品としてつくるものとは、
まったく次元がちがうってこと。
それが太郎の芸術観の原点です。
糸井
はい。
平野
太郎は20世紀美術の黎明期に
抽象とシュルレアリスムの双方の運動体の
ど真ん中に迎えられた
おそらく唯一の芸術家だけど、
いわばその両方を蹴って民族学に行ったのは、
単なる絵描きで終わりたくなかったから。
抽象だシュルレアリスムだといっても
しょせんは画面をどんなふうに構成するかで、
「右だ、左だ」っていってるわけですよね。
「そういうのは、つまらない」と太郎は思った。
もっと人間の根源、
「人間とはなにか」っていう
本質的なところから芸術を考えたかった。
だから民族学を選んだんです。
そして実際に学んでいくうちに、
たしかに職業芸術家なんか
まったく存在しない世界で、
神と人間が一体になったような
そういうものがつくられていたことを知る。
しかもそれをつくっているのは、
ふつうの生活者たちであり、
売るためにつくられた商品ではない。
そういうことに太郎は感動して、
じぶんの芸術の方向を決めていきます。

糸井
芸術のひとつの様式を、
民族学を使って発明したんじゃなくて、
いってみれば「芸術になってしまえ」ですね。
平野
まったくそのとおりです。
糸井
その「なってしまう」という発想って、
いちばん素敵なんですよね。
ただ、それを表現する方法としては、
彫刻だとか絵画だとかってところに
映し出すしかないわけで。
平野
彫刻や絵画って、メディアですよね? 
己れを表現するためのメディアです。
いわば手段にすぎないし、手段は多いほうがいい。
だから、太郎はいろんなメディアを使いました。
太郎ほどいろんな表現ジャンルに
手を染めた芸術家はいないでしょう。
とにかくありとあらゆることをやってます。
糸井
それは、ほんとにすごいと思う。
平野
およそすべての表現ジャンルに
手をかけていたわけですけど、
もちろん彼の中で優劣はないし、
「これ飽きたからこれ」という話でもなくて、
まったく等価、同列だったと思います。
じぶんの中でわーっと湧き上がって、
「ああ、吐き出さなきゃ」ってときに、
これは平面、これは立体、
これはことば、これはプロダクトとか、
そんなふうになってただけだと思うんです。
糸井
うん、うん。
平野
太郎は「人生、即、芸術」といっていて、
油絵のような一点ものの作品は売らなかった。
売るためにつくったわけじゃなく、
己れの中にあるものを吐き出しただけ。
いってみれば「放射」です。
「芸術は太陽みたいなものだ」
太郎はよくそういってました。
太陽は無償、無条件で
エネルギーを与えてくれると。
「暖かかったろ、いくら寄こせ」
なんてことを太陽はいわない。
無償、無条件。
芸術とはそういうものだと、
考えていたんです。
糸井
いまのシンボルみたいな話が、
あのウイスキーのおまけでつくった
「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」
ですよね。
平野
そうです。
糸井
あのセリフまで含めて、
岡本太郎の「活動」なんですよね。
「いいじゃないか」っていう。
平野
はい。
糸井
それを「タローマン」という作品は、
いまの時代にやったような気がするな。
「怪獣映画みたいにやっても
いいじゃないか」っていうふうに。

(つづきます)

2023-05-04-THU

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