なんにもなかったところから、
舞台とは、物語とは、
どんなふうに立ち上がっていくのか。
そのプロセスに立ち会うことを、
おゆるしいただきました。
舞台『てにあまる』の企画立案から
制作現場や稽古場のレポート、
さらにはスタッフのみなさん、
キャストの方々への取材を通じて、
そのようすを、お伝えしていきます。
主演、藤原竜也さん。
演出&出演、柄本明さん。
脚本、松井周さん。
幕開きは、2020年12月19日。
担当は「ほぼ日」奥野です。

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第5回 稽古4日目。

JR総武線を錦糸町で降り、少し先の空にスカイツリーを見ながら15分くらい歩く。この場所へ来るのは今日で2回目、そしておそらく最後。次の取材のタイミングでは、カンパニーは別の稽古場へ移動しているそうだ(俳優、演出家、作家、技術スタッフ‥‥など舞台をつくりあげる人たちの集団=一座をカンパニーと呼ぶらしい)。以前、劇場と同じくらい稽古場を押さえるのが大変なんですとプロデューサーの柳本さんが言っていた。これだけの空間を確保するのは、たしかに、都心ではなかなか難しいのだろう。
その広い空間に、ポツンと、みすぼらしい「部屋」が「置かれて」いる。さみしげな1Kの六畳間。黄ばんだ1ドア冷蔵庫、年季の入ったちゃぶ台、畳に直置きされたブラウン管のテレビ‥‥は映るのだろうか。見ると、敷きっぱなしの布団の中に、柄本明さんがいる。寝ている。ああ、白い頭が見えてるなあ‥‥とボンヤリ思っていたら突然、携帯電話の着信音が鳴った。あ、もう稽古はじまってる? ‥‥はじまっていた。舞台稽古の場合も、映画の撮影みたいに「よーい、スタート!」の声がかかるものだと思い込んでいた。そんなのなかった。もっとも映画の撮影も見たことはないが。
柄本さんが、重そうな綿の布団をけっとばし、万年床から跳ね起きる。物語の冒頭、柄本さんのオンボロアパートに藤原竜也さんが訪ねてくるシーンだ。今回の取材は初体験のことばかりなので、こうして「立ち稽古」を見るのも、はじめて。藤原竜也と柄本明という大きな俳優が、ほんの数メートル先で対峙し、いまにも物語をうみだそうとしている。誰かの中に、ずっと残ることになるかもしれない物語を。‥‥と考えると、あらためて、すごい場所だと思う。
場面は10分くらいの、短いシークエンス。ふたりともセリフは「入っている」ようす。ただ、2回3回と繰り返すなかで、毎回、いろんなことが微妙に「ちがって」いる。細かな所作や振る舞い、動きや立ち位置。セリフの「言い方」ついては毎回ちがう、確実に。いろんな可能性を試している‥‥しっくり来る置きどころを探っているかのよう。前回までの「本読み」とはちがい、俳優の具体的な「身体の動き」があるので、物語がぐっと立体的に感じられる。単純に、声が別物。ドラマが、目の間で起こっているという感覚。この段階ですでに、目の前の演技に引き込まれている。ここへさらに衣装や音楽が加わるわけで、そのたびごとに物語の「引力」は、ずんずん増していくのだろう。
小1時間ほど同じ場面を繰り返したのち、小休止。ほんの一瞬、空気が緩む。が、すぐ次の場面へ。舞台は一転、瀟洒なリビングが出現した。IT系の会社社長である藤原さんの部屋だ。高そうな黒革のソファセット、壁には難しそうなアートが飾られており、右手奥にはバーカウンターも見える。部屋には、主である藤原さんの他に、父親役の柄本さんと、藤原さんの部下・高杉真宙さん。この見慣れぬ老人が何者であるのか、藤原さんが高杉さんに説明する場面。俳優たちは、ふたたび、同じシーンを繰り返す。何度も何度も、たんたんと。毎回、何かをいろいろたしかめながら。
今回、柄本さんは演出家でもあるので「フライパンを振りかざす角度」などについて、脚本の松井周さんと相談しながら、具体的に俳優に提案していく。そのとき何を言っているのかは、聞こえない。ディレクターチェアに座り、全員に聞こえる声でダメ出しをする‥‥という俗な演出家のイメージとはかけ離れたスタイル。俳優のそばへスタスタ歩いていっては、ヒソヒソ話す。コロナでマスクもしているし、他の人には何を言っているのかわからない。たまに「ヘッヘッヘ」という例の笑い声が漏れ聞こえてくるくらい。これ、わざとやっているそうだ。ある俳優に出した指示の内容を、他の俳優に聞かれないために。相手がどう動くかわからない状態での「反応」を欲している、ということなのだろう。
3回、4回、5回‥‥ここでも同じ場面が繰り返される。いまのはどうだったとか、次はこうしてみようとか、そういうことは誰も言わない。3人の俳優は、えんえん、同じセリフを繰り返し「言う」だけ。動きやセリフの「言い方」を、そのつど変えながら。たがいに、たがいの動きや立ち位置を受けながら、自分の「居住まい」を足し引きしている‥‥ように見える。物語というものは、こんなふうに「ゆっくり、うまれていく」ものなのか。
2度めの休憩時間、美術のスタッフさんがテーブルの上の小道具を整えていた。その姿を見ていたら「カンパニー」という言葉の意味が、わかった気がした。つまり、誰が欠けても、この場は成立しないのだ。俳優それも主演俳優といえど、等しく「カンパニーの一員」なんだろうと思う。それぞれが、それぞれの「持ち場」に責任を持って、ひとつの物語をかたちにしていく。みんなで、つくりあげている。劇場では、これまでは、俳優の姿しか見ていなかった。見えていなかった。これからは、その背後の「カンパニー」の存在を、見えはしないけど、感じることができるのではないかと思う。

(続きます。12月19日まで不定期で更新します)

2020-12-11-FRI

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