ふとしたきっかけで手にした
『椿井文書──日本最大級の偽文書』
という本がおもしろくて、
著者の馬部隆弘さんにお会いしてきました。
椿井文書のことをもっとくわしく、
という趣旨だったのですが、
ご本人のエピソードがいろいろ興味深く、
取材冒頭から予想外の展開に‥‥。
人生を変えた事件から戦国時代の権力論まで
(本の内容もときどき挟みつつ)、
貴重な話をたっぷり語ってくださいました。
「椿井文書ってなに?」という方は
こちらのページ(第0回)もあわせてどうぞ。
聞き手は「ほぼ日」稲崎です。

>馬部隆弘さんのプロフィール

馬部隆弘(ばべ・たかひろ)

歴史学者。
大阪大谷大学文学部歴史文化学科准教授。

1976年、兵庫県生まれ。
1999年、熊本大学文学部卒業。
2007年、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。
枚方市教育委員会、長岡京市教育委員会を経て、
大阪大谷大学文学部准教授。
専攻は日本中世史・近世史。

著書に『戦国期細川権力の研究』
『由緒・偽文書と地域社会──北河内を中心に』
『椿井文書──日本最大級の偽文書』など。

2020年3月出版の『椿井文書』は、
「紀伊國屋じんぶん大賞2021」第6位、
「新書大賞2021」第3位のW受賞。

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第5回 積み重ねが「歴史」になる

──
馬部さんのお話によると、
織田信長が活躍する前は、
三好長慶が力をもっていたわけですよね。
馬部
はい。
──
ということは、
その三好の前にも誰かがいて、
その前にも誰かがいて‥‥。
馬部
そうです。
その積み重ねが歴史になります。
──
そうやってどんどんさかのぼっていくと、
いちばん最初って誰になるんですか?
馬部
スタート地点ってことですか?
──
最初のきっかけといいますか。
馬部
それを考えるには、
まず細川家の家臣の中から、
なぜ三好家がポーンと飛び抜けたのか、
そこから考えればいいんです。
──
三好が抜きん出た理由。
馬部
結論から先に申しますと、
きっかけは細川家の分裂にあります。
──
分裂?
馬部
1507年の細川政元暗殺をきっかけに、
細川家は2つに分裂します。
大きな派閥が2つできたわけです。
そうなるとどっちの派閥が
細川を担ぐかという話になります。

──
いわゆる派閥争いってやつですね。
馬部
そうなると担ぎ手の発言力が
どんどん大きくなっていくので、
細川家はただの神輿になっていきます。
そして担ぎ手の存在が
どんどん大きくなっていき、
最後に主を越えてしまった人物、
それが三好長慶というわけです。
──
うーん‥‥。
馬部
どうしました?
──
いや、なぜ派閥が2つになると、
担ぎ手の存在が大きくなるのかなって。
馬部
あぁ、なるほど。
じゃあ、こんなふうに考えてみてください。
細川家はAとBに分裂して、
あなたは細川Aを担いでいるとします。
──
はい。
馬部
一方、わたしは細川Bを担いでいます。
わたしは細川Bの中で馬部一派を大きくして、
もっと力をもちたいと思っています。
そこであなたに交渉をもちかけます。
「もしうちの派閥に来たら、
いまの給料より10万多く出そう」と。
そしたらあなたは細川Bに来るかもしれない。
──
ヘッドハンティングですね。
馬部
話はさらにつづきます。
あなたはそのあと元サヤの細川Aから、
「うちに戻ってきたらプラス10万出そう」
という交渉があるかもしれない。
つまり、派閥が2つあるからこそ、
求められる者はどんどん力を
大きくすることができるんです。
──
派閥が2つになったことで、
交渉ができるようになったわけですね。
馬部
細川家は2つに分裂したことで、
そういう現象が起こりやすくなりました。
実際、三好もそうやって力を大きくしています。
──
いまの話をざっくりまとめると、
信長が天下統一するまでの道のりを
ずーっと過去にさかのぼってみると、
はじまりは細川家の分裂にあった。
馬部
そういうことです。
わたしの論文集『戦国期細川権力の研究』は、
まさにそれについて書いたものです。
その本に書いてあることは、
三好が独立する50年前から、
いろんな人の成長ぶりを追いかけています。
──
権力が大きくなるというのは、
何世代にもわたった話なんですね。
三好長慶だけの話じゃない。
馬部
そうです、そうです。
細川家が分裂したときは、
三好長慶の4代前の人がいました。
──
もはや家系の話なんですね。
馬部
ちなみに三好長慶が
細川家を鞍替えして
畿内で最大勢力となったとき、
彼はまだ20代半ばくらいでした。
その段階になるともう、
三好家はほとんど成長したあとなんです。
──
長慶がトップに立てたのも、
ご先祖様のおかげってことですね。
馬部
さらにいってしまえば、
三好長慶がすごいというより、
三好家の取り巻きがすごかったんです。
細川家の家臣で有能な人が、
三好のまわりにいっぱいいて、
細川家の中の三好一派みたいなのが
すでにできあがっていました。
──
三好長慶に特別な求心力があったとか、
そういう話でもないんですね。
馬部
もちろんその要素もあったと思います。
いまだって歌舞伎役者の息子って、
どこかカリスマ性があるじゃないですか。
──
あぁ、ありますね。
馬部
そういうカリスマ性は
長慶にもあったと思います。
やっぱりずっとエリートなので、
英才教育を受けているんです。
エリートでカリスマ性があった。
だから若くしてトップに立てたんでしょう。

──
ちなみに、三好長慶の前は
誰が実権を握っていたんですか?
馬部
たくさんいますが、
そのひとりに細川国慶(くによし)がいます。
長慶の京都での都市政策的なものを、
じつは細川国慶が何年か前に
すでにやっていたりします。
──
具体的には、なにをしたのでしょうか。
馬部
いわゆるヤクザ的というか、
ヤンチャな国慶が突然京都市長になって、
セオリーにないやり方をしたんです。
ところが予想に反して、
それが意外と功を奏してしまった。
そうなると次の人は、
その政策をマネしますよね。
──
「ああやれば、うまくいくぞ」って。
馬部
ただし、国慶は無茶をしすぎて、
その政策をした翌年に戦死します。
でも、そのやり方自体、
京都にはけっこうハマっていました。
そこでそのあと権力をもった三好長慶も、
細川国慶と同じやり方をとったわけです。
──
やり方を受け継いだわけですね。
馬部
そういうことです。
そこで国慶が無茶をしなかったら、
長慶も無茶をしないわけで、
長慶が無茶をしなかったら、
信長のような人間も
登場していない可能性がある。
つまり国慶の無茶が、
そのあとの京都支配のセオリーになったんです。
──
そう考えると、
国慶はかなりキーパーソンですね。
馬部
京都の都市政策に関してはそうですね。
いや、厳密に言うと、
国慶がやった政策のもうひとつ前に、
柳本賢治(やなぎもとかたはる)という人物がいて、
彼がちょっとだけ無茶をします。
京都のヤンチャ度を、彼がちょっと上げる。
──
みんな、ヤンチャなんですね(笑)。
馬部
そうやって歴史はつくられます。
前の人が常識外れのことをしたら、
悪い部分は受け継がずに、
いいところだけを次の人が受け継ぐ。
その積み重ねのおいしいところを、
最後はぜんぶ三好長慶がもっていったわけです。

(つづきます)

2021-06-06-SUN

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