ゴッホの自画像やマネのオランピアなど
歴史的な名画に扮した
セルフポートレイト作品で知られる、
美術家の森村泰昌さん。
まことに今さら‥‥ではありますが、
「どうしてあのような作品を?」
ということを、うかがってまいりました。
さらに、話はそこへとどまらず、
ゴッホについて、芸術的強度について、
顔とは何か、孤独の芸術観‥‥と、
自由に、縦横無尽に語って頂きました。
全8回の連載として、お届けします。
担当は「ほぼ日」奥野です。

>森村泰昌さんのプロフィール

森村泰昌(もりむら・やすまさ)

美術家。1951年、大阪市生まれ。京都市立芸術大学、専攻科終了。1985年にゴッホの自画像に扮したセルフポートレイト写真を発表。以後、一貫して「自画像的作品」をテーマに、美術史上の名画や往年の映画女優、20世紀の偉人等に扮した写真や映像作品を制作。国内外で多数の個展を開催。著作・評論も多数。2011年、紫綬褒章受賞。

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第3回 美のトライアスロン。

──
森村さんは、ほとんど直感的に
「ゴッホになりきろう」と思った。
森村
あれは結局なんだったんだろうと、
今から考えると、
こういうことかなあと思うんです。
それまで、いろいろ試行錯誤して、
何かを見つけようともがいてきた。
誰しもそうだと思いますが、
「自分にはこれだ」という何かを、
探しあてたかったわけです。
──
そうですね。若いころはとくに、
切実に、願うように。
森村
でも、絵も、写真も、演技も、文章も、
どれもうまいこといかへん、
自分はどうしようもないやつなんだと、
あきらめていたんです。
でも、その「どん底」みたいな場所で、
逆転の発想が訪れたんです。
──
逆転の‥‥どういう発想が?
森村
デカルトの言葉に
「我思う、故に我在り」ってあるけど、
自分の場合は
「我迷う、故に我在り」だったんです。
──
迷う‥‥のが、森村さん。
森村
絵かなぁ、違う。写真かなぁ、違う。
じゃあ文章なのかなあ‥‥違う。
いろいろ迷って、彷徨ったけれども、
「わたしは、これだ」
という表現に、
自分は、ついぞ行き当たらなかった。
──
はい。
森村
でも、そのときの自分を俯瞰すると、
そこに、少なくとも、
「迷っている自分」が存在していた。
これはね、ちょっとした発見でした。

──
発見?
森村
この道一筋って言うでしょ。
あれ、うらやましいなと思うんです。
日本画一筋、写真一筋、陶芸一筋、
自分はこれだ‥‥という何かに、
出会っているというわけですから。
──
そうですね、ええ。
森村
でも、何度も言うように、ぼくは、
そういう何かには出会えなかった。
それどころか、迷って彷徨って、
いろんなことに、
手を出してしまってる自分がいる。
──
はい。
森村
それなら、いっそ、いろいろと
手を出してきた自分そのものを、
そのまま、作品にすればいいと。
──
はああ‥‥なるほど。
森村
美術に興味がある。
写真にも興味がある。
透明人間ごっこしてたくらいだから、
演じることにも興味があった。
それで、それらひとつひとつ順番に
手を出してきたけど、
そうじゃなく、どれか一個じゃなく、
ぜんぶ入った作品をつくろうと。
──
それが、あの、
自ら耳を切り落としたあとの
ゴッホのセルフポートレート、
だったというわけですか。

《肖像・ゴッホ》 1985年 カラー写真 《肖像・ゴッホ》 1985年 カラー写真

森村
迷ってていいんだと、思ったんです。
ゴッホという、
ひとつの美術の歴史をテーマにして、
顔にゴッホの顔を描き、
粘土で服をつくりそこに色を塗って、
その姿を、写真に撮る。
──
これまでの表現をぜんぶ取り入れて。
森村
写真ではポーズを取ったりするから、
演技もしています。
表情をつくったりだとかね。
つまり、自分の興味のあったことを、
ひとつのこらず、
ひとつの作品のなかでやったんです。
──
そういうことだったんですか。
森村
ぼくは、役者としては失格だったし、
絵も写真もいまひとつだったけど、
ぜんぶを合わせたら、
どこにもないようなものがうまれた。
そのことを、ぼくは勝手に、
美のトライアスロンと呼んでいます。

モリムラ@ミュージアム(M@M)での展示風景 モリムラ@ミュージアム(M@M)での展示風景

──
トライアスロン。まさしく。
森村
走る、泳ぐ、自転車をこぐ。
各々の競技のトップアスリートには
かなわないけど、
それぞれそこそこかもしれないけど、
3ついっぺんにできる人が、
そのレースでは、優勝するわけです。
──
はい。
森村
同じように、絵は画家にかなわない、
写真は写真家にかなわない、
演技は役者にかなわないけど、
それら束ねる「迷うわたし」がいる。
──
ええ。
森村
だから、ぼくは、そのままにする。
迷うわたしを、そのままに。
迷うわたしをそのままにして、
ウロウロ、ウロウロ彷徨った表現を、
ぜんぶ一緒にしたんですよ。
──
そしたら、
それまで誰も見たことのない表現が、
うまれた。
森村
「森村泰昌」という「迷うわたし」を
そのままにしてやりさえすれば、
何でもできるんだと、わかりました。
ゴッホでも、マリリン・モンローでも、
三島由紀夫でも、誰でもね。
──
誰でも。
森村
ぼくの行為が、ぼくの作品になるから。
──
なるほど。
森村
ぜんぶ「自分でまかなう」と決めたら、
それだけで、
ぼくが出ている限りぼくの作品になる。
そう考えたら、何でもできたんですよ。
ドラえもんであろうが、
マレーネ・ディートリッヒであろうが、
レンブラントであろうが、
迷うわたしを、そのままにしておけば。
──
つまり「この道一筋」が見つからない、
その「弱み」を、
逆手に取って突破口にしたんですね。
森村さんの作品、一発でわかりますし。
森村
ぼくさえ出てれば、森村作品だからね。
──
「迷っているわたし」、
「そのわたしをそのままにするわたし」、
それらのわたしを
さらに上から俯瞰する
「プロデューサーのわたし」が、
迷いながらも司っている‥‥んですか。
森村
そうです。
──
すごい‥‥。
森村
自分にはこれなんだ‥‥という何かを
掴むことができなければ、
人生の充実感はないと思われています。
でも、そんなことは、なかったんです。

モリムラ@ミュージアム(M@M)での展示風景 モリムラ@ミュージアム(M@M)での展示風景

2020-07-29-WED

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