富士山7合目の山小屋で足かけ4年。
屋久島の深い森の中へは、8年間。
地球の奥へと旅を続ける山内悠さんは、
「自分を旅する人」でもありました。
こんどは、5年をかけて
モンゴル全土をめぐってきたそうです。
最果ての地で撮った遊牧民の暮らし。
でも、そこには、
もっと大きな何かが写っていました。
写真を撮っているからこそ、
「見えない世界」を感じることがある。
山内さんが、向き合っているものとは。
担当は「ほぼ日」奥野です。
山内悠(やまうちゆう)
1977 年、兵庫県生まれ。長野県を拠点に国内外で作品を発表。独学で写真をはじめ、スタジオフォボスにてアシスタントを経て、富士山七合目にある山小屋に600日間滞在し制作した作品『夜明け』(赤々舎)を2010 年に発表。2014 年には、山小屋で暮らし主人に焦点をあて、山小屋での日々を著した書籍『雲の上に住む人』(静山社)を刊行。2020 年、モンゴルで 5 年をかけて撮影した写真を収
録した『惑星』(青幻舎)を発表するなど、精力的に活動している。https://www.yuyamauchi.com/
- ──
- 富士山の山小屋やモンゴルの草原や砂漠、
屋久島の森の中で
自らの存在の仕方を探求していることの
「結果」として「写真」がある‥‥と。
- 山内
- そういう感覚です。ぼくはね。
- ──
- 写真が何かの「先」にくるわけではない。
- 山内
- うーん、そうだと思う。
- ──
- 山や森では、どう過ごしているんですか。
写真を撮っている以外には。
- 山内
- また長なんねん、これ、話が(笑)。
- まずね、屋久島というのは、
自然の力がめちゃくちゃ強い場所ですよ。
木と会話するわけじゃないけど、
ひとりなんで、どっち行こうか迷ったら
「こっち行っていいんか?」
とか、声に出して言ってみたりとかね。
- ──
- へえ‥‥。
- 山内
- そのへんでめっちゃ雷が鳴ってて、
尾根を越えていくの躊躇しているときに、
「行くなっていうことやんな?」
って言ってみて、
「じゃあ、今日はここでビバークします」
って言ったとたん、
パァァァァーッときれいな虹が出るとか。
- ──
- 森が「よし」と。
- 山内
- 先日は川が増水してて先に行かれへんくて、
仕方なく引き返したら、
まったく人のおらん森の奥だというのに、
東京の知り合いに会うたんです。 - 「うわあ、すごいな。こんなところでか」
「こっちで正しかったんやなあ」って。
- ──
- ふしぎ‥‥。
- 山内
- 山や森からつねに何かを問われているし、
その問いに対して、
自分が下した判断に対しての返事も早い。 - いまは新型コロナウイルスの感染拡大で、
ぼくら問われてると思うんです。
「さあ、おまえたち、どうする?」って。
で、このときに、
ぼくら人間が取った行動に対する返事が、
そのうち、必ずくると思うんです。
- ──
- 自然から。
- 山内
- そう。
- とにかく人間の行動に対する返答がね、
屋久島なんかだと、すごく早い。
- ──
- 大自然と、やり取りしてるんですね。
- 山内
- 大きな力がうごめいているような感覚。
自分のジャッジというより、
自然とのやり取りの間でなされた判断、
という感じです。 - 自然と人間が関係性を構築してるんです。
「いまは行ったらあかん」とか、
「こうしたほうがええ」とかについて。
- ──
- 都会では、歩道を歩いていればいいけど、
大自然の中では、
歩いていいかどうかから判断する必要が。
- 山内
- あるある。
- 樹の上でサルが「ウエ~」いうてたらね、
それは
「来んな~」言うてるのかもしれない。
そこで無理やり突っ込んでいくと、
めっちゃ「キョエ~!」言われるから、
「ごめんごめん。もう行きません」って。
- ──
- 山内さんの言ってること、
完全に理解できているとは思いませんが、
わかる気はするんです。 - 以前、山の奥にある実家の
誰もない梅林の中にひとりでいたときに、
都会のほうから、
「クレーム」のお電話を頂戴しまして。
- 山内
- へえ。
- ──
- 何でしょう、それも、やや「激しめ」の。
- 自分としては、承服できるお申し出では
なかったんですけれども、
5月の麗らかな陽気の梅林にいたからか、
痛くもかゆくもなく、
何だと~って気持ちも、湧いてこなくて。
- 山内
- そうなんや(笑)。
- ──
- きっと、会社のデスクで電話していたら、
相当ヘコんだか、
相当頭にきたかどっちかだったと思って。 - それ、あの気持ちのいい梅林にいたから、
そうならなかった気がするんです。
- 山内
- なるほどね。気持ちよかったら、
わざわざ怒ろうとか、したくないもんね。
- ──
- うまく説明しづらいんですけど、
自然の中にいると心が穏やかになること、
そのことによって、
何かがうまくいくことって確実にあるし、
非科学的な言い方かもしれないけど、
それって、
自然の持つ「見えない力」だと思います。
- 山内
- わかるわ。何やろな。
- いまぼくは、屋久島を歩きまくったので、
昼間だと、
もう何の不安も不快も感じなくなってて、
真夜中の森を歩いてるんですよ。
- ──
- 激しすぎませんか。行為が。
- 山内
- 比較にならないほど、めっちゃ怖いのよ。
森‥‥つまり自然が、昼間に比べてね。
- ──
- 写真家の人って、
冒険家や探検家とどうちがうのかなって
思うことがあるけど、
山内さんも、そのタイプですよね(笑)。
- 山内
- 修験道みたいな要素も入ってるからね。
自分で言うのも何やけども
我ながら「修行っぽい」と思ったりして。 - 自然との間に、
自分がこしらえたカリキュラムを立てて、
それをこなしていってる。山行です。
- ──
- その気持ちで、かつ、写真家。
- 山内
- うん、そういう旅の中で、
人間というものをいろいろと見せられて、
写真を撮らされてる‥‥
みたいなところが、あるんだと思います。
- ──
- 冒険家や探検家でありつつ、
どこか哲学的な人も多いと思っています。
写真家の人って。 - やっぱり、
ひとりで考える時間が多いからなのかな。
- 山内
- 向き合うことですもんね、写真って。
- 写真を撮っていると、
そもそも「写真を撮るって、何なんや?」
みたいなところに行きつくんです。
- ──
- ああ。漫然とは、撮れないんでしょうね。
何となくわかります。
- 山内
- 「写真で生きるって、何やそれ」とかね。
ぼくら、写真の仲間で話をすると、
根源的なところで、
「写真って、いったい何や?」となるの。
- ──
- それに対する答えは今、あるんですか。
- 山内
- ぼくですか?
- ──
- はい。
- 山内
- 大体の写真家が
結局のところはそこかもしれないけど、
「問答」ですかね。写真は、問答。 - 富士山やモンゴルや屋久島に行ったとき、
自然からの問いに、
こっちからの答えを返していくもの‥‥。
- ──
- それが、写真?
- 山内
- 自然と人間の関係性を探求しているけど、
自然からの問いや答えが
直接的ではなくても
画像として写っていて、
表現できることがあるんです。 - そういうのが、ぼくにとっての写真かな。
- ──
- なるほど‥‥。
- 山内
- ひとつ自然からの答えが返ってくると、
それがまたきっかけになって、
また別の角度で何かを探りにいってる。 - だから
富士山も飽きるまでやろうと思ったし、
モンゴルは全土をめぐった。
- ──
- じゃ、そのときの「写真」は、
冒険の旅に乗っていく船‥‥みたいな。
- 山内
- 険しい山道を乗っていく馬みたいなね。
探求を続けるための、大事な道具みたいな。
- ──
- 何かの「表面」を撮ってるわけではない、
みたいな意識もあるんですか。
- 山内
- あります‥‥あると思います。
ぼくは、別に「モンゴルという国」を
写したいわけじゃないので。 - モンゴルの旅で目にした、
この世界のあり方を見てほしいんです。
- ──
- なるほど。
- 山内
- 間接的かも知れないけど、
いまの世界のあり方を俯瞰して見れる、
写真って、
そういうものなのかなあとも思うしね。
- ──
- カメラは世界を探求するための道具で、
写真は、
世界のあり方を俯瞰して見られる答え。 - おもしろいです。
- 山内
- モンゴルで撮った写真も、
こんなウソっぽく写っているんだけど、
絶対にリアルなんですよ。 - そういうところも、おもしろいですね。
- ──
- ああ‥‥写真というのは
そこに「実際に立った人」じゃなければ
撮れないですもんね。
- 山内
- そうそう、まさしくそうなんですけどね、
いまだに自分の写真を見て
「ほんまに俺、ここおったんか?」って、
わからなくなることもある(笑)。 - つまり、この場所へ行ったときの記憶が、
写真のビジュアル以外では、
思い出されへんようになっていくんです。
- ──
- 写真が「事実」になっていく。
山内さんにとっての。
- 山内
- 世界って、こんだけファンタジーなんや。
- SF映画やアニメーションが、
これまで、
いろんな未来の世界を見せてきたけど、
写真ならば、
実際にファンタジックな世界の有り様を、
見せることができると思ってる。
- ──
- 現実世界のファンタジーを、事実として。
- 山内
- そういうところは、
写真じゃないと無理なところやなあって、
思いますけどね。
(つづきます)
2021-04-16-FRI