シリア、イエメン、ガザ、アフガニスタン‥‥
世界の紛争地を飛び回ってきた、
看護師の白川優子さん。
幼い頃知った「国境なき医師団」の一員になる
夢をかなえた白川さんは、終わらない戦火を前に、
無力感で心が折れたこともあるといいます。
出口が見えない現実に立ち向かって、
あらゆる場所に医療を届けつづけようとする
「国境なき医師団」とはどんな組織なのか。
そこには、医療を支える「裏方さん」を含め、
持ち場を守るプロたちと、理念を武器にしたたかに、
やわらかく動き続ける組織の姿があります。
知られざる、かっこいいチームとしての
「国境なき医師団」の物語を語ってもらいました。

>白川優子さんプロフィール

白川優子(しらかわ・ゆうこ)

埼玉県出身。
高校卒業後、坂戸鶴ヶ島医師会立
看護専門学校に入学。
卒業後は埼玉県内の病院で
外科、手術室、産婦人科を中心に
約7年間看護師として勤務。
2006年にオーストラリアン・カソリック大学
看護学部を卒業。
その後約4年間、メルボルンの医療機関で
外科や手術室を中心に看護師として勤務。
2010年より国境なき医師団に参加し、
スリランカ、パキスタン、シリア、
イエメンなどの活動に参加してきた。
現在はMSF日本事務局にて
海外派遣スタッフの採用を担当。
著書に『紛争地の看護師』(小学館)。
『紛争地のポートレート』
(集英社クリエイティブ)など。

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第3回 ジャーナリストになる!?

糸井
紛争地での医療行為というのはおそらく、
「いつ解決する」ということが
見えない場所での仕事ですよね?
白川
ええ。なので国境なき医師団で働くことは
喜びではあるんですけど、
目の当たりにする現実に怒りを‥‥
うん、思っちゃいますよ、どうしても。
糸井
それって、ひとつのプロジェクト、
ひとつの現場に一生いるんだって決めてたら、
逆に難しいのかもしれないなと思ったんです。
交代できるおかげで精神が保てているのかな、と。
白川
たしかに、それはありますね。
だから国境なき医師団では、紛争地への派遣って、
3か月とか、長くても6か月で
交代させるというのがやはりあるんですね。
糸井
メソッドとして。
白川
そうですそうです。
糸井
いやー、そうか。
白川
もちろん、一人の人が長くいるほうが
本当はいいんです。
現地で雇用するスタッフとしては、
一緒に働く仲間が頻繁に変わると
混乱が起きるかもしれませんし。
あと移動って、紛争地ではやっぱりリスクが高いんです。
ただ、やはりメンタルがあるので、
同じ場所に行かせるにしても、
いったん引き揚げて、2回目としてまた送る。
糸井
その「3か月で」「いったん引き揚げて」
みたいなメソッドも、
最初から分かってた人はいないですよね。
だけど、そういうものができあがっている。
すごい組織だな、と思うんですよ。
つまり、そういう「団員」のケアを考えるチームも
本部にいるということですよね。
白川
そうですね、私たちをケアする
メンタルサポートも整っています。
行く前と帰った後にはカウンセリングを受けられますし。
糸井
またそこに派遣されるお医者さんもいて。
いろんなことが何重にもなっていて。
紛争地で医療をするって、イメージとしては
現地で手術をするようなお医者さんの姿だけが
頭に浮かびますけど、
実際には手術室をどう作るとか、
荷物を運ぶトラックに乗る人も必要だし。
白川
そうです、そうです。
そういう人たちもメンバーの一人です。
実はですね、国境なき医師団って、
医療者を支えるメンバーのほうが多いんですよ。
糸井
あ、やっぱり。そうか。

©Hosanna Fox/MSF ©Hosanna Fox/MSF

©MSF ©MSF

白川
半々で、ちょっとそっちが多いくらい?
物資を運ぶトラックの方もそうですし、
物資を手配する人、トイレをつくってくれる人、
スタッフの食べ物を手配してくれる人とか。
あと、セキュリティを管理してくれる人。
この役割が特に大事で、
情報収集して、今日は移動禁止なのか、
もう大丈夫なのか。
活動してもいいけど2時間で撤退なのか、
もう完全撤収なのか。
「飛行機の音がしてるから警戒して」とか。
飛行機イコール空爆なので。
日々、秒単位で情報収集をして、
管理してくれるような人がいます。
そういういろんな人たちがいて、
医療が成り立っているんですね。
糸井
つい医療って、自分の日本での経験をもとに
医療者の人ばかりを想像しますけど、
実は旅団みたいなものが動いている。
白川
はい。たとえばサーカスというのも、
花形は演技を見せる人ですけど、
それを支えている人もいますよね。
糸井
ゾウに餌をやるとか。
白川
そうそうそう。
糸井
テントを建てたり。
白川
そうです。その場所は本当に安全なのかを
アセスメント(客観的に評価)して確保するとか。
それはお医者さんがやることではなくて。
糸井
そうか、お医者さんに
全部ができるわけがないですもんね。
白川
そうなんです。
もちろん必要があればみんな手伝うんですけど。
糸井
国境なき医師団の軍隊が必要ですね。
矛盾するようだけど。
どうセキュリティを守るかまで含めた。
白川
あ、でも「軍隊」ということでいうと、
私たちには「武器は一切持たない」という
ポリシーがあるんです。
丸腰で、いかに安全を確保するか。
武器を持たないことを武器にしているんです。
糸井
ああ、すごいな。
白川
それはもう「独立・中立・公平」っていう。
糸井
つまり、国境なき医師団自体の
理念に関わることですよね。
白川
ええ、その自分たちの理念を伝えて、
理解してもらう。
あらゆる勢力と交渉や対話をするんですけど、
それは軍のトップかもしれないし、
村の長老かもしれないし。
紛争地であれば、対立しているかもしれない
全てのグループと、
対話、コミュニケーションをとって
「私たちは中立の立場です。独立しています」
っていうことを言って。
もちろん丸腰でですね、
それを武器にして安全を守っています。
糸井
ということは、そういう交渉ごとだとか
行政みたいなことをやる人たちも、
チームのなかで育成されているわけですね。
白川
まぁそこは、私みたいなフィールドワーカーとして
経験を積んできた人が、
トレーニングを積んでマネージメントしたり、
セキュリティを管理するポジションに
就くことが多いかもしれないです。
糸井
ますますスポーツチームですね。
選手が監督をやったり、
コミッショナーになったりするのと同じで。
つまり、現実の体験がないとわかりにくいわけで。
白川
そうですね。
国境なき医師団という組織をよくわかっていて、
だからこそ上に立って、という人が多いかな。
糸井
本の中でも、白川さんの助けになってくれる
60歳くらいの人だとか、
年上の方々がひょいひょいっと登場しますよね。
ああいう方々が、そういう交渉とかを
やる人になっていくんですか。
白川
ああ、歳はあまり関係ないかもしれません。
セキュリティを管理してくれる人なんて、
すごく若い人もいますし。
60歳を超えて、新人として、
国境なき医師団に来る人もいます。
糸井
白川さんご自身が、
オーストラリア留学とかがあったから、
「やっと入れる」となったのが
30代半ばでしたっけ。
白川
36歳です。
英語の壁をやっと乗り超えて(笑)。

©MSF ©MSF

糸井
入るまでにそこまで長くかかったことは、
結局は良かったですか?
白川
私の場合は、良かったかなと思ってますね。
ノーベル平和賞を受賞したのを見て、
「入りたい!」って思ったのが、20代半ば。
だけどあのときにもし、紛争地とか非人道的な場所、
ジレンマにまみれているようなところに入っていたら、
自分が潰れていたような気がします。
糸井
ああ。
白川
情熱とか憧れとか夢だけでは、
うーん‥‥なかなかやっぱり、
続けていられなかった気がしますね。
糸井
たまーに本の中に「無力感」という言葉が、
どうでしょうか、3、4回、出てたかな。
白川
そんなに書いたかな(笑)。
でも、無力感だらけだった気が‥‥。
糸井
その言葉が見つかるような状況って、
もう本当に「開いていけない」状況ですよね。
白川
もがいてたことは何度もありましたね。
自分ではどうにもできない。
一所懸命頑張って、英語も頑張って、
こんな誰も入らないような紛争地に来て、
日々自分のやるべきこと、ベストを尽くして、
睡眠も削ってるかもしれない。
けれども太刀打ちできないものがある。
この空爆を止めないと、人々の血が止まらない。
それが憤りとか、無力感につながったことも、
やっぱりありましたよね。
糸井
その都度、怒りは沸き起こるし、
無力感にも苛まれるし。
そしてある期限が来て、いったん日本に戻って、
たぶん、呆然と暮らすんですよね。
白川
そういうとき、本当にありました。
ついこの前まで、空爆の音を聞いていて、
叫び声を聞いて、人々の恐怖の渦の中にいて、
血を見て、涙を見てっていうなかで、
ポンって日本に帰るって、やっぱりすごく辛いことで。
いまは大丈夫だと思うんですけど、
初めのほうは日本で普通に歩いてる人々を見て、
「なんで、みんなそんな平気な顔してるの?」
って思いました、それは。
糸井
人々が幸せそうってだけでも、罪悪感というか。
その感覚はたぶん、いいほうにも、
逆に悪いほうにも、どっちにも転びますよね。
白川
だから、例の私得意の(笑)
「私が感じたことはみんな同じように感じるでしょ」
みたいな感じで、
「みんな聞いて、こんなことが起きてるよ!」
ということを本当に伝えたかったですね。
糸井
実際にはきっとその話って、
まったく別の世界で生きている人たちには、
届けるのがすごく難しいですよね。
白川
「話してもわかってもらえないだろうな」と、
言わない選択をしたこともありました。
糸井
そういう気持ちは、自分のなかで
どう変化していったんですか。
白川
それは‥‥いろいろありました(笑)。
シリアの紛争地にいるとき、
怒りとか虚しさとか無力感が大爆発して、
看護師という天職と国境なき医師団という夢、
2つとも手放そうと思ったんです。
手放して
「私はジャーナリストになろう」って。
いろんな世界の紛争地を見ると、
市民が血と涙を流してる姿は同じで。
命を救っても救っても、また空爆の音が聞こえて、
こっちからも銃撃の音が聞こえて。
この戦争、この空爆を止めなくちゃいけない。
「じゃあ、どうしたらいいんだ」
っていうので、ジャーナリストとして。
糸井
訴える人に。
白川
そう。たとえば日本でも、
「シリアの空爆で何人の方が亡くなりました」
みたいなニュースは目にするし、聞くんです。
だけど、私が見てるのは、そこに暮らす市民の、
もう人間と思えない無残な姿なんですね。
手も足も顔も、腸、内臓が見えてしまって、
もう人間の原型を留めていないような。
乳飲み子が、血を流している。
骨が見えている。砕けている。
そういう人たちばかりなんですね。
空爆とか銃で撃たれるって、そういうことなんですよ。
ついこの間まで女子高生だったかもしれない人、
一家の大黒柱で何人もの家族を
養ってたような人が、そういうことになる。
それが戦争。
それが私が見てきた戦争。
これを伝えたいと思ったんですよね。
そういう写真を1枚、1秒でも見てほしい。
見てくれたら、いろんな人たちが
「ハッ」とすると思ったんです。
だから写真家でもいいし、映像を撮る人でもいいし。
糸井
伝える人になりたい。
白川
はい、伝える人になりたいと。
それで一度、大きな決断をしました。
糸井
それはどのくらいの期間、そう思っていたんですか。
白川
だけど、あまり続かなかったんです。
それは2013年か14年、シリアで痛感したんです。
だからそのあと日本に帰ったとき、
新聞記者さんも含めて、
フリーのいわゆる戦争を専門としている
ジャーナリストの人たちに相談をして、
「私はもう我慢できない。
報道する側になるから入門します。
よろしくお願いします」
と、そういう話を真剣にしたんです。
ですけど、割とみんなの反応が
「いや、やめときなよ」
という感じだったんですね。
「あなたは看護師だよ。報道は自分たちがする、
あなたは1秒でも早く現場に戻って
看護師として人々の命を救い続けなさい」って。
また、そこで迷ってる間に、シリアに戻ってくれ、
イエメンに行ってくれ、南スーダンに行ってくれとか、
オファーが来るんです。
紛争地ばっかり。
迷っているなかで、ひとまずもういちど、
看護師として戻ることにしたんです。
またシリアの同じプロジェクトに戻ったんですよね。
糸井
いちばん怒りを感じたシリアに。
白川
はい。

(つづきます)

2024-04-07-SUN

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