ほぼ日 | 何度かお話にもあがりましたが、 沼澤さんはロサンゼルスの音楽専門学校の ドラム科(P.I.T)に留学されて、 アカデミックなドラムも習われてますよね。 その後、P.I.Tの講師も務められますが、 そのときに『リズム&ドラム・マガジン』で コラムを連載してましたよね? |
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沼澤 | あー、懐かしいね。 してました、してました。 |
ほぼ日 | 当時、ぼく(西本)が 『リズム&ドラム・マガジン』を読んでいたとき、 P.I.Tはとにかくすごい技術が学べる学校で、 ものすごく興味深く読んでいたのを覚えています。 あの、P.I.Tって、どんな感じだったんでしょう? |
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沼澤 | まず、ぼくは、ドラムだけでなく 音楽の用語とか知識は まったくない状態で留学して、 P.I.Tではじめてドラムを演奏しました。 |
ほぼ日 | 一番はじめっからアカデミックなドラムの教育を めちゃくちゃ受けた、ということですね。 |
沼澤 | そうです。 で、まず、先生陣がものすごかった。 ジェフ・ポーカロっていう、 TOTOのドラムで、 セッション・ミュージシャンとして 有名な人がいるんだけど、 そのお父さんであるジョー・ポーカロが 先生でいたんです。 |
ほぼ日 | TOTOのドラムのお父さん! |
沼澤 | そう、お父さん。 この人は、 「スティックをこう握ると、 こういう動きができるようになりますよ」 というスティックの握り方とか、 自由にプレイするためには、 こういう練習方法がありますよ、とか、 身体の動きとして基礎的な部分を教わりました。 あと、ラルフ・ハンフリー。 この人は、フランク・ザッパのバンドにもいながら アル・ジャロウやマンハッタントランスファーなどの 80年代のAORのアルバムのクレジットに いっぱい入っていたドラマーですね。 |
ほぼ日 | とにかく、ものすごい方だと。 |
沼澤 | ラルフ・ハンフリーが担当していたのは スタジオ・ドラミング・クラスっていって、 パッと譜面を渡されたときに それをどう解釈してレコーディングをするのか、 または、その曲に合うドラムにするためには、 ドラムのチューニングをどうするのか、 そういうスタイルで望むのか、 といった授業でしたね。 ほかにも、サイト・リーディングとか ライブ・パフォーマンス・クラスとか、 もう、いろんな授業がありました。 |
ほぼ日 | P.I.Tには、世界中から テクニックを求める人が 集まっていたんですよね? |
沼澤 | アメリカだけでなく、世界中から、 プレイヤーが集まってました。 日本人は、ぼくぐらいでしたけど。 |
ほぼ日 | たしか、卒業のときに、 人気投票で賞をとってませんでしたっけ? |
沼澤 | あぁー(笑)。 ヒューマン・リレーション・アワードですね。 先生が投票してひとりをえらぶ部門と 生徒がえらぶ部門があって、 ぼくは全校生徒の人気投票でえらばれっちゃって。 |
ほぼ日 | これって、コミュニケーションができないと とれない賞だと思うんですけど、 英語はもともと話せたんですか? |
沼澤 | ううん、全然話せなかった(笑)。 でも、アメリカにいるとね、 しゃべれるようになっちゃうんですよ、これが。 お茶とってほしいけど、なんていうかわかんないとき、 「ね、『お茶とって』ってなんていうの?」 っていうことを、 なんとか伝えようとするじゃないですか。 すると、相手も 「ん? どういう意味?」って聞いてくれて。 知ってる単語と身振り手振りで伝えると、 「あー、そういうときは、こういえばいいんだよ」 って教えてくれる。 で、次はお茶を「ペン」に変えて、 「ペンとって」っていってみたりして。 |
ほぼ日 | お茶を、ペンに。 そうやって、ひとつずつ覚えていったんですね。 |
沼澤 | あと、ルームメイトも外国人だったから、 やっぱり、自然に身に付いていきました。 |
ほぼ日 | 学校には、どのくらいの期間 通ったんですか? |
沼澤 | P.I.Tは1年間のコースでした。 その1年にいろいろ教えてもらったんだけど、 それをしっかり練習することが 全然できてなかったんです。 ドラムを演奏することが楽しくてしかたなくて、 でももっと練習してうまくなりたいって思って、 学校のオフィスにいって 「なんとか学校に残れる方法はないですかね」って 相談したんですよ。 そしたら、半額でいいから、 あとは好きにやってていいよってことになって。 |
ほぼ日 | 直接相談しにいくところが、 すごい。 |
沼澤 | そのころには、先生やオフィスの人たちとも 仲良くなってたから。 で、夏期講習のときに、 そのインストラクターをやらないかって 誘われました。 これは、初心者向けの補習授業をする 家庭教師のような役でしたね。 昼は練習して、夜は先生をする。 すると、次の年には 「お前、1年コースの先生やんない?」っていわれて。 |
ほぼ日 | 沼澤さんの教え方が、 わかりやすかったんですね。 そこからは講師として雇われるようになった、と。 |
沼澤 | そうですね。 本格的に日本で活動するようになった 2000年までは、ドラムの仕事と兼務してました。 ‥‥今振り返ると、 ドラマーになろうって思ってなかったから、 こういうふうにできたんだと思いますね。 |
ほぼ日 | えっ、当時ドラマーになろうって 思ってなかったんですか? |
沼澤 | 思ってないですよ! そんな簡単にいくわけ、ないじゃない? P.I.Tに入ったからドラマーになれるなんて、 思えるはずがない。 でも、そういう感覚は、 一度日本で大学を出てるからかもしれないですね。 そもそも、ぼくなんて ドラムを演奏したこともなかったし。 |
ほぼ日 | では、なぜP.I.Tへ‥‥?? |
沼澤 | とにかく、アメリカに行きたかったんです。 アメリカに住んで、英語がしゃべれるようになって、 それで日本に帰って来れたらいいなーと思ってた。 |
ほぼ日 | えっ、そうなんですか!? |
沼澤 | そうそう、そうなんですよ。 どうやってアメリカにいこうかなーって思ってたら、 自分が大好きなドラマーである ジョー・ポーカロやラルフ・ハンフリーが 先生をやってる学校があるらしいと知って。 |
ほぼ日 | それで、P.I.Tに。 |
沼澤 | そう、それで行きました。 |
ほぼ日 | 今や日本のグルーブ・マスターという 沼澤さんの原点は「アメリカに行きたかった」。 うわぁー、衝撃的だった。 人生、おもしろいものですねぇ。 |
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沼澤 | ほんと、なにが起こるかわからない。 ギャドソンに出会ったことも、 ぼくの人生にとって ものすごく大きな事件でしたから。 |
ほぼ日 | グルーヴを教わる、ということで? |
沼澤 | うーん、というか、先生をしながら、 ドラマーとしても、だんだん 生活できるようになっていったんですけど、 やっぱり、半分は先生なので、 どうしても学校がメインにあるわけですよ。 でも、ギャドソンといっしょにプレイすると、 同じことやっても、なんか違うわけですよ。 その、「違うんだ」ってことを教わったんです。 どうやら全く別世界らしい、と。 学校にいたことで見えていなかった社会が とつぜん、目の前に現れた感じです。 |
ほぼ日 | 社会という現実が、目の前に。 |
沼澤 | はい。 ギャドソンのように、 社会に出て、責任を負って、 マイケル・ジャクソンとかのレコーディングをして、 そのレコードを全世界の人が買うっていう、 そのためのドラムって、どうすればいいのか。 それはギャドソンしか知らないんですけど、 彼はそういう説明ができない人だから、 自分で見て、分析をするしかない。 だから、とにかくいっしょに過ごしましたね。 いっしょに飯食ったり、ライブを見に行ったり、 そういうことだけだったんですけど、 「これが、マイケル・ジャクソンの 大ヒット曲を演奏するっていう人の現実なんだ」 って、わかったんです。 もう、自分とは全然違う世界でした。 |
ほぼ日 | 先生を辞められて、 プロとして活躍している現在は、 沼澤さんも同じ世界に? |
沼澤 | いやいや、 もう、ギャドソンが築いてきた 歴史的な偉業とは全く別の次元です。 そして、これからもその次元でのプレイが できないこともわかってる。 |
ほぼ日 | はぁー。 ほんとうに、偉大な師匠なんですね。 (次回は、グルーヴ・マスターが 「グルーヴ」について、語ります。) |