旅人にとっての北極星がそうであるように、
ピエール・バルーその人自身が、
若きアーティストにとって、
ひとつの「道しるべ」だったのではないか。
短いインタビューをまとめ終えた今、
そんなふうに思います。
詩人、歌手、俳優、映像作家、
そして欧州最古のインディーズ・レーベル、
「サラヴァ」の主宰者。
在りし日のピエール・バルーさんのお話を、
ここに、お届けいたします。
ご一緒くださったのは、妻のアツコさん。
インタビューから約2ヶ月後の昨年暮れ、
ピエールさんは、急逝されました。
わけへだてなく、誰にも開かれていて、
何よりあたたかかったお人柄が、
百分の一でも、伝わったらいいのですが。
担当は、ほぼ日の奥野です。

プロフィール

第3回 サラヴァの誕生。

──
お金を集めて、ようやくスタートした
『男と女』の撮影も、
ほどなく「お金がなくなって」中止。

どうやって、
さらなる制作資金を捻出したんですか?
ピエール
当時、わたしはアルバムも出していて、
若い歌い手としては、
「売れっ子」と言っていい状況でした。

そこで
『男と女』のサウンドトラック版の
出版権を売ろうと、
音楽関係者に交渉して歩いたんです。
5曲、新しく書きおろしてね。
──
ピエールさんは
『男と女』のテーマ・ソングとして
世界的に有名な
あの「ダバダバダ、ダバダバダ‥‥」
という歌を歌ってらっしゃいます。

作曲が、フランシス・レイさんで。
ピエール
そのサントラの出版権を売ったお金で、
ルルーシュ監督に、
フィルムを買いなよと言うつもりでね。
──
え、つまり、撮影現場では、
もう、フィルムさえなかったんですか。
ピエール
まったく無名の映画監督には、
誰もお金を出そうとはしなかったから。

その人の前作は商業的に失敗してたし、
映画音楽を担当するという
アコーディオニストは、
道端のストリートミュージシャンだし。
──
‥‥ええ。
ピエール
みんな、ばかにして、
誰ひとり契約してくれなかったんです。

でも、そんな状況のわれわれにとって、
幸運だったことは、
「自分たちにお金がなかったからこそ、
 いろんな挑戦ができた」ということ。
──
それは、どういう意味ですか?
ピエール
映画というものを
インプロビゼーションでつくったり、
突然アコーディオンの曲を入れたり、
そのためにシナリオを変えたり‥‥。

そうやって
自由な作品づくりができたのは、
口やかましい「プロデューサー」が、
いなかったから。
──
なるほど。
ピエール
われわれには、お金がなかった代わりに、
圧倒的な自由があったんです。
──
自分たちの好きなようにできる、自由が。
ピエール
そう、自由であること‥‥は、
わたしたちと、
わたしたちの映画づくりにとっては、
とても大切なことでした。

だから、音楽の出版権も取ったんです。
誰も契約してくれないなら、
自分たちで出版社をつくってやれって。
──
ヨーロッパでもっとも古い
インディーズレーベル・サラヴァは、
そうやって生まれたんですね。
ピエール
結局、カナダ人のディストリビューターが
ラッシュ(未編集段階の映像)を観て、
お金を出してくれて、
映画は、完成させることができました。

その6か月後に、カンヌでグランプリを、
ハリウッドでアカデミー賞を獲りました。
──
製作中は、フィルムも買えないくらい、
お金に苦労していた作品が。
ピエール
ちょっと前には、ばかにして
契約してくれなかった連中が寄ってきて
「いくらほしい?」
って、ニコニコしながら言って来たけど、
「もう遅いよ」って。
──
カンヌとアカデミー賞を
獲れるだなんて、思っていましたか?
ピエール
そんなこと、誰も思ってなかったね。
──
つまり『男と女』が成功したお金で、
サラヴァをつくったのではなく‥‥。
ピエール
そう、みんなそう思ってるみたいだけど、
順番がちがっていて、
『男と女』を完成させるために、
サラヴァをつくったというほうが正しい。
──
ピエールさんは、幼い子どものころから、
そうやって、何かをゼロから、
自由につくるのが、好きだったんですか?
ピエール
クリエイトすることは、好きだった。

歌をつくるのも好きだったんですが、
自分が気に入ったものを、
誰かに紹介することも大好きでした。
──
ああ、それは、
サラヴァの精神そのものですよね。
ピエール
家族でごはんを食べているときも
「あのレコード素晴らしいから聴いてよ」
って、本当にうるさかったんです。

その人が聴くまで動かない‥‥みたいな、
そういう子どもでした。
──
それは、今でも?
アツコ
ええ、そうですね。

とくに自分の好きな音楽なんかについては
「これを聴け、こっちも聴け、
 いいだろう、いいだろう?」って(笑)。
ピエール
そのことが原因で、
親しい友だちとも、だいぶ喧嘩をしました。
──
そんな、喧嘩するほど?(笑)
アツコ
そう、オススメのし過ぎなのよね(笑)。

たとえば「今度、この芝居に来て」と
お誘いするわけですけど、
忙しくてなかなか来れない人がいると
「来たのか?」
「まだ来てないのか?」
「いつ来るんだ!」
って、毎日毎日、電話をかけるんです。
──
わあ(笑)。
アツコ
すると、そのうちあちらも腹が立って、
「いいかげんにしてくれ、
 こっちも忙しいんだ、うるさいな!」
って、子どもみたいにね。

そんなのは、しょっちゅうでしたよ。
ピエール
とにかく‥‥ここまでのあたりが、
『男と女』という映画と、
サラヴァというレコードレーベルの、
スタートのころの話です。
<つづきます>

2017-03-24-FRI

ピエール・バルー監督による
ドキュメンタリー、再発。

サラヴァ 「時空を越えた散歩、または出会い」
ピエール・バルーとブラジル音楽1969~2003

1969年、ピエール・バルーさんが
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで撮影した
ドキュメンタリー映像が
追悼の意味を込めて、再び発売されました。
バーデン・パウエルをはじめ
当時のリオのミュージシャンたちとの交流や、
フェスティバルのようす、サンバの踊り、
50年前のブラジルの、黄色みがかった陽射し。
この古い映像の中で、
ピエールさんとリオのミュージシャンたちは、
ひっきりなしに歌を歌っています。
ギター1本とリズムを刻める何かさえあれば、
どんな場所でも、そこに居合わせた誰とでも。
音楽って、こうして、
ひとびとの間にあるものなんだということが、
伝わってくるロードムービーです。

ピエール・バルーさん

音楽家・作詞家・映像作家・俳優・プロデューサー。
欧州最古のインディーズ・レーベル「サラヴァ」主宰。
1966年、
クロード・ルルーシュ監督の映画『男と女』に出演。
「ダバダバダ~」のスキャットで知られる
フランシス・レイ作曲の主題歌で作詞と歌も担当。
同映画で、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。
さらには
米国アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞はじめ、
世界各国で「41」もの映画賞を受賞。
サラヴァでの活動を軸に、
音楽や映画、出版の分野で多くの作品を生み出す。
ピエールさんに見込まれて、
パリの自宅に住まわせてもらったアーティスト、多数。
レ・ロマネスクのおふたりも
パリの下積み時代に、お世話になっていたとか。
2016年、東京で「サラヴァ」50周年記念展を開催。
2016年12月28日、パリにて急逝。
ピエールさんは、さいごまで、
つまり、倒れ救急車で搬送されながらも、
歌を、歌っていたそうです。

今回のインタビューに同席くださったのは、
奥さまのアツコ・バルーさん。
フランス留学の経験があったことなどから
日本ではたらいているときに、
来日中のピエールさんと知り合ったそうです。
今回のインタビューでは通訳をお願いしつつ、
アツコさんにも、たくさんお話していただきました。