旅人にとっての北極星がそうであるように、
ピエール・バルーその人自身が、
若きアーティストにとって、
ひとつの「道しるべ」だったのではないか。
短いインタビューをまとめ終えた今、
そんなふうに思います。
詩人、歌手、俳優、映像作家、
そして欧州最古のインディーズ・レーベル、
「サラヴァ」の主宰者。
在りし日のピエール・バルーさんのお話を、
ここに、お届けいたします。
ご一緒くださったのは、妻のアツコさん。
インタビューから約2ヶ月後の昨年暮れ、
ピエールさんは、急逝されました。
わけへだてなく、誰にも開かれていて、
何よりあたたかかったお人柄が、
百分の一でも、伝わったらいいのですが。
担当は、ほぼ日の奥野です。

プロフィール

第5回 2度の倒産の危機。

──
当時のサラヴァ・レコードには、
音楽関係者のみならず、
哲学者みたいな人まで出入りしていたと、
本か何かで読んだのですが。
アツコ
本当に、いろんな人がいたみたいだけど、
ヨーゼフ・ボイスはご存知ですか。
──
いえ、具体的なことは、何も知りません。
アツコ
フルクサスという、
1960年代にオノ・ヨーコさんも参加していた
前衛的な芸術運動があって、
その代表的な美術家なんですけど、
サラヴァからレコードを出してるんです。
──
レコード‥‥音楽の?
アツコ
いや、それが、パリの道を歩いてたら、
変なおっちゃんが、
誰も聞いていないのに演説していて、
それがおもしろかったから
「スタジオ来る?」って誘って、
彼がスタジオで演説やりはじめたのを、
音楽と一緒に録ったものなの。
──
演説と音楽、ですか。
アツコ
ほら、パリってちっちゃい街ですから、
歩いてると、いろんな人に会うんです。

とくに、1960年代のパリには、
世界中から、
たくさんアーティストが集まっていて。
──
具体的に、当時のパリのアートシーンは、
どのような感じだったんですか?
ピエール
音楽に限って言えば、
当時いちばん影響をもたらしていたのは、
アメリカ‥‥つまり黒人とジャズ。

マイルス・デイヴィスなんかも、
サン・ジェルマン・デ・プレの地下にある
ジャズ小屋みたいな店で、
毎晩毎晩、演奏していたものです。
──
えー、すごい。
ピエール
チェット・ベイカーなんかも、見ましたよ。

彼らの演奏を聴いたフランス人が、
自分たちの音楽に、
そのエッセンスを取り入れていったんです。
──
そうなんですか。
ピエール
あのころ、いちばん大きな「エンジン」は、
黒人のジャズだったんです。

それは、いわゆる歌謡曲とは違うレベルで。
歌謡曲は歌謡曲で、
アメリカンポップス一色って感じでしたが、
アンダーグラウンドも活発でした。
──
サラヴァは、
そんな雰囲気のなかで、スタートした。
ピエール
そう。
──
どうして、ここまで続けてこられたと、
思われていますか?

おふたりのお話を聞いていると、
急に辞めても、おかしくないというか。
アツコ
突然「もう飽きた」ってね(笑)。
ピエール
わたしは、いつも
出会いに対しては「開かれていたい」と、
思っているんです。

未知なるものへの興味が尽きなくて、
だから、知らない人が
新しい音楽の世界を持ってきてくれると、
どうしても、惹かれてしまうんです。
──
サラヴァ所属のアーティストが、
1か月間、
無料ライブをし続けたという話があって、
それもすごいなと思いました。
アツコ
そう、そう。ありました、そんなこと。
──
しかもそれ、
倒産しそうな時期だったみたいですけど、
なぜ、そんなことをしようと?
ピエール
正直に言うと‥‥なぜあんなことしたのか、
あんまり覚えていないんです。

でも、どうせ倒産しちゃうなら、
最後は楽しく、華やかに散ろうと思ってね。
みんなも「やろう!」って言ってくれたし。
──
アーティストたちも、ノーギャラで。
ピエール
そうですね、みんな。
──
おもしろそうだから、みたいなことで。
アツコ
そうですね。全体のスピリットとしては、
「ギャラいくら?」じゃなくて
「おもしろそう、やろう、やろう」って。

お金は、もらえればうれしいんだけど、
ごはんぐらいでも、
楽しかったし、よかったね‥‥みたいな。
──
でも、サラヴァは、倒れなかった。
アツコ
一度目の経営危機では
とある「映画プロデューサー」の人が
救ってくれたんです。

2回目は、わたしが経理に入りました。
──
アツコさんが。
アツコ
だって、解散するかもという話を聞いて、
会計にも経理にも、
何の知識も経験もなかったんだけど、
「ちょっと、何よそれ、
 もったいないじゃない!」って言って。
──
サラヴァの救世主。
アツコ
いえいえ、ようするに、
レコードの原盤と出版権って財産だから、
ちゃんと管理さえすれば、
多少なりとも、お金は入ってくるんです。

だから。
「潰すだなんて、もったいないじゃない。
 ちょっと見せてよ!」って(笑)。
──
ええ(笑)。
アツコ
そしたら、最初の経営危機を救ってくれた
映画プロデューサーが、お金を抜いてたの。
──
‥‥‥‥は?
アツコ
思いっきりね。

この人はお金の計算は「からきし」だから、
その人に任せっきりだったんです。
──
うわー‥‥持ち逃げですか。
アツコ
で、いったい何を抜いてたかっていうと、
「払うべき税金」で、
それまで、まったく払ってなかったから、
債権者は税務署なんです。
──
ええ、なるほど。
アツコ
だから、経理のわたしが税務署に行って、
次はナントカ税、
次はナントカ税って、
税金の各部署に片っぱしから頭を下げて、
「払いますから、潰さないで」と。

10年かけて返済する計画を立てました。
──
アツコさん、そんなご苦労されて。
アツコ
だってホラ、税務署にしてみれば、
潰しちゃったら、
もう税金を払ってもらえないわけだから。

「がんばって少しずつでも払います!」
って、一生懸命お願いしたら、
「ほんとですね?
 一日でも遅れたら容赦なく潰しますよ。
 それも、一度でも!」
とか言われて、
「必ずやりますから!」と啖呵を切って。
──
救世主です。
アツコ
そうやって本当に10年かけて返済して、
「ああ、助かった」って(笑)。

お金まわりについては、
ま、そんな感じで、何とかやってます。
<つづきます>

2017-03-26-SUN

ピエール・バルー監督による
ドキュメンタリー、再発。

サラヴァ 「時空を越えた散歩、または出会い」
ピエール・バルーとブラジル音楽1969~2003

1969年、ピエール・バルーさんが
ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで撮影した
ドキュメンタリー映像が
追悼の意味を込めて、再び発売されました。
バーデン・パウエルをはじめ
当時のリオのミュージシャンたちとの交流や、
フェスティバルのようす、サンバの踊り、
50年前のブラジルの、黄色みがかった陽射し。
この古い映像の中で、
ピエールさんとリオのミュージシャンたちは、
ひっきりなしに歌を歌っています。
ギター1本とリズムを刻める何かさえあれば、
どんな場所でも、そこに居合わせた誰とでも。
音楽って、こうして、
ひとびとの間にあるものなんだということが、
伝わってくるロードムービーです。

ピエール・バルーさん

音楽家・作詞家・映像作家・俳優・プロデューサー。
欧州最古のインディーズ・レーベル「サラヴァ」主宰。
1966年、
クロード・ルルーシュ監督の映画『男と女』に出演。
「ダバダバダ~」のスキャットで知られる
フランシス・レイ作曲の主題歌で作詞と歌も担当。
同映画で、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。
さらには
米国アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞はじめ、
世界各国で「41」もの映画賞を受賞。
サラヴァでの活動を軸に、
音楽や映画、出版の分野で多くの作品を生み出す。
ピエールさんに見込まれて、
パリの自宅に住まわせてもらったアーティスト、多数。
レ・ロマネスクのおふたりも
パリの下積み時代に、お世話になっていたとか。
2016年、東京で「サラヴァ」50周年記念展を開催。
2016年12月28日、パリにて急逝。
ピエールさんは、さいごまで、
つまり、倒れ救急車で搬送されながらも、
歌を、歌っていたそうです。

今回のインタビューに同席くださったのは、
奥さまのアツコ・バルーさん。
フランス留学の経験があったことなどから
日本ではたらいているときに、
来日中のピエールさんと知り合ったそうです。
今回のインタビューでは通訳をお願いしつつ、
アツコさんにも、たくさんお話していただきました。