-
ゲームと「ことば」。
言い訳のように考えはじめたことが
意外な方向へ広がっていったので書いてみます。
『どうぶつの森』と
『ハッピーホームデザイナー』を
相変わらずのんびりプレイしてはいるのですが、
ここにひょいひょいと投稿できずにいて、
いつものごとく、多忙は怠惰の隠れ蓑、と
反省したりしていたのですが‥‥。
しかし、なんとなく、
書く時間がとれないというだけじゃないよなぁ
という気もしていました。
だって、日々、ちょっとずつだけど、
ゲームには触っていたりする。
短い感想すら書けないのかといったら
まぁ、そんなことはないわけです。
それを職務としてとらえたら
サボってんなよ、ということになるのですが、
どうも、その当然の指摘の向こう側に、
なにか、いつもと違う、
いえ、厳密にいえば、
以前から存在はしていたものの
最近認識できるようになってきた
ある「傾向」のようなものがあるなぁ、
とぼくは感じていました。
抽象的な言い回しを続けてしまって恐縮ですが、
つまり、ぼくはこう感じるのです。
ゲームで遊ぶことを「ことば」にすることが、
なんだか少し負荷のかかることに
なっているのではないだろうか。
あまり自然ではないことというか、
やろうとしてわざわざやらなければならないこと、
というような。
ぼくが年齢を重ねて、
以前よりゲームに割く時間が
圧倒的に少なくなったということはあるでしょう。
同じ理由で、ぼくのまわりにゲームについての
体験を共有する人が減ってしまって、
おしゃべりする必要がなくなった、
ということもあると思います。
それはそれで、要因としてたしかにある。
しかし、自分の側ではなく、
ゲームのほうにも、
なにか要因があるように思うのです。
それは、『どうぶつの森』シリーズにかぎらず、
もっと大きな、ゲーム全体についての印象です。
ゲーム全体が向かっている方向、というのかな。
あらかじめ書いておきますが、
よいとか悪いとか、そういうことじゃなくて。
かつてゲームは娯楽として異物で
人々は戸惑ったり熱狂したりしました。
ゲームに限らず、新しい娯楽というのは
そういうものなのだと思います。
あるとき世界にぽっかりと新しい遊び場が生じ、
人々はそこで新しい遊びに興奮して
時間やお金を悔いなくつぎ込む。
つくり手は受け手のその熱気を受けながら
寸暇を惜しんで制作し、胸を張って披露する。
それに刺激されたつくり手がまたつくり、
実験し、わがままを言い、組み合わせ、
その手があったか! というようなものが発見され、
仕組みや外枠がそれにつられて
相乗的に大きくなっていく。
広場は新しい遊びに満ちて、
そこにどんどん新しい人が流れ込み、
魅了された人どうしで語り合ったり、
広場の外側にいる人たちと口論したりする。
そう、そういうときには、
「ことば」がたくさん生まれる。
もしも、時代の経過とともに
そういった構造がただ縮小すれば、
「衰退する娯楽」として、
つくられるものの規模や作品数や
遊び手の数がだんだん少なくなっていって、
語られる「ことば」がマニアックになっていく‥‥
そういうふうになったと思うのです。
(実際、ゲームのある部分は
そうなっていると思う)
しかし、ゲームという娯楽は、衰退していない。
携帯ゲーム機がスペックがあがって
時間や場所を選ばず高品質なソフトが
遊べるようになったことや、
スマートフォンという
圧倒的なプラットフォームが
世界にくまなく普及したことなどがあり、
ゲームで遊ぶということを体験する人は
これまで以上に増えていると思う。
あらためて言うまでもないけれど、
ゲームのありかたというのは、ずいぶん変わった。
さきほどの遊び場の例でいえば、
優秀なつくり手が磨き上げた新しい遊びが
広場に登場してみんながそれに徹夜で没頭する、
というようなことはかなり少なくなった。
ゲームはダウンロードされ、追加配信され、
気軽に無料で試すことができて、
はじめることもやめることも簡単で、
説明書を熟読しなくても理解することができ、
少しの時間にもパッとその世界に入れるような
「時間的に優秀なもの」が
だんだんと主流になっていった。
いわば、ゲームは、生活に溶けていった。
それは、おかしな言い方だけれど、
「ゲーム自体」が選んだ変質なのだと思う。
もちろんそうではないゲームも依然あるけれど、
全体の「傾向」としていえば、
新しくつくられるゲームはぼくらの毎日に
無理なく馴染むことを前提にする。
水みたいに。呼吸みたいに。街並みみたいに。
だからじゃないかな、と思ったんです。
つまり、そういったものは、
なかなか「ことば」にしづらい。
ただ享受する、というほうが自然で
わざわざ「ことば」にするには
少し「よいしょ」という負荷がかかる。
椎名林檎さんの歌に
「時の流れと空の色に何も望みはしない様に」
というフレーズがあるけれど、
水や、呼吸や、街並みを
わざわざ「ことば」にするには、
なんというか、題目や専門性が要ると思う。
ぼくは10年以上前に
ゲーム雑誌の編集部に勤めていて、
その意味ではゲームの体験を
「ことば」にするのが仕事だった。
そして、仕事であることを遥かに超えて、
当時のゲームは「ことば」にされる必然性があった。
同じ意味で異物だったし、特殊だったし、
ある種、生活を切り離してその世界へ
ざぶんと飛び込む必要があった。
たまたまそういった
激しい「ことばの時代」を知っているからこそ、
いまの、生活に溶けているゲームとの間に
ちょっとしたギャップを感じるのかもしれない。
もう一度念を押しますが、
どちらがよかったとかそういうことじゃないし、
いまはいまで、ばりばりと「ことば」にするべき
激しい新しさを持つゲームが
きっと生まれてもいるのでしょう。
それを詳しく知らない自分が
ちょっと残念ではあります。
しかし、あれだなぁ、
ゲームが「ことば」にしづらくなってるかも、
と思ったから書きはじめたのだけれど、
ゲームが「ことば」にしづらくなっている
ということ自体については、
これこのように延々と
長く書くことができるのだなぁ。
あと、あれだね、
インターネットをさがせば
ゲームの明解な答えや詳細なデータが
ぽんと見つかるというのも
「ことば」を遠ざけている要因かもしれない。
あ、まだ書くか、オレ。