サンミュージック・リッキー社長「人の面倒を見ていたら、社長になっちゃいました」 サンミュージック・リッキー社長「人の面倒を見ていたら、社長になっちゃいました」
カンニング竹山さんやダンディ坂野さんなど、
数多くの芸人から「恩人」として名前が挙がる、
芸能事務所サンミュージックの社長・リッキーさん。
今回、リッキーさんの半生を綴った一冊、
『サンミュージックなお笑いの夜明けだったよ!』の帯を
糸井重里が書いたご縁で対談が実現したのですが、
じつは、糸井がリッキーさんと最後に会ったのは、
もう40年近く前のこと。

1982年、『ザ・テレビ演芸』で結成2年目にして
チャンピオンに輝いた当時の「若手芸人」リッキーさんと、
その姿を「審査員」席で見ていた糸井。
「あのときの若者」が、たくさんの若手芸人にとっての
「恩人社長」になるまでの人生模様を、
糸井があっちからこっちから面白がりました。
役者志望だった若者時代、変わりゆく夢、
そして、後輩たちに伝えてきた「たったひとつ」のこと。
全7回でお届けします。
第1回 「サンミュージック社長」の、40年前。
糸井
じゃあ、僕が切り出そうかな。
えー、リッキーさん、ご無沙汰してます。
リッキー
はい、どうも、大変ご無沙汰しております。
写真
糸井
まずは一応、読者の方に、
僕とリッキーさんの関係性を説明しておきましょうか。
リッキー
あっ、そうですね(笑)。
よろしくお願いします。
糸井
僕は30代のはじめのころ、
『ザ・テレビ演芸』というお笑い番組で、
勝ち抜き新人オーディション企画の
審査員をやってました。



審査員の並びには、スポーツニッポンの花井信夫さんだとか、
放送作家の神津友好先生、
あと落語評論家の山本益博さんとか、
審査委員長には映画監督の大島渚さんがいらっしゃって。
リッキー
そして司会が、横山やすしさんですね。
糸井
そうです、そうです。



とまあ、そんなメンバーで審査員をやってて、
僕は当時30代で、一番無責任なころでしたから、
門外漢ながら、好き勝手なことを言ってました。



そんな番組の、だいぶ初期のころに
グランドチャンピオンに輝いたのが、
リッキーさんと相方・ぶっちゃあさんのコンビ、
「ブッチャーブラザーズ」だったんですよね。



当時、おいくつくらいだったんですか?
リッキー
23、24歳くらいですね。なぜか、勝ちました。
僕らは第4回のグランドチャンピオンだったんですけど、
「勝つのが一番難しい回」と言われていたんですよ。
あのときは、もう、おおくぼ良太さんが大本命で。
糸井
はい。
リッキー
他にも、北口幹二彦さんっていう
ベテランのモノマネの方がいたりして、
おおくぼさんがコケたら、この人だろうと。
で、万が一、北口さんもコケたら、
コントD51(でごいち)という兄弟コントが勝つだろう‥‥
という、「ブッチャーブラザーズ」なんて
誰の目にも入っていないような、そんな空気で。
糸井
でも、そんななかに突然現れた
ブッチャーブラザーズっていう若い2人組が、
やっぱりとにかく面白かったんですよね。



いま言ったようないかにも厄介そうな審査員たちが、
ちゃんと手を叩いて、グランドチャンピオンに選んだ。



‥‥というような思い出話が、
もう、40年近く前の話になりますか。
リッキー
はい。僕が今65歳なので、40年以上前になりますね。
糸井
ただ、当時含め、僕とリッキーさんは、
そんなにきちんとお話をしたことはないんですよね。



リッキーさんは出演者で、芸人さんだし、
僕は審査員という、違う枠のところにいたんで。
リッキー
あいさつぐらいでしたね。



あ、ただ、この流れでひとつ、
糸井さんにお見せしたいものが。
糸井
なんでしょう。
写真
リッキー
このチラシなんですけど‥‥
これ、僕らが昔主催したお笑いライブのチラシなんです。



当時は「お笑いライブ」という文化自体まだなくて、
おそらくこれが「日本初のお笑いライブ」
と言われてるんですけど。
糸井
ほう、ほう。
リッキー
1回目のライブで、
「ブッチャーブラザーズと言います!
お笑いライブやります!プロアマ問わず、みんな集まれ!」
みたいな広告を出して、まあうまくいったと。



で、2回目をやろうとなったときに、
僕、糸井さんにお電話したんですよ。
糸井
えっ。
リッキー
『ザ・テレビ演芸』でチャンピオンになった
ちょっと後くらいだったと思うんですけどね、
「なんかコピー書いてください、タダで」とか
そんな厚かましいことを頼んで、
僕、原宿のセントラルアパートで、
糸井さんと直接お会いする約束をしたんですよ。



「じゃ、1階にレオンって喫茶店があるから待ってて」
って言われて、僕、忘れないですけど、
「すげえ、あんな人がいる、こんな人がいる」
ってまわりの有名人を見ながら
ぶっちゃあさんとふたり、
めちゃくちゃ緊張しながら糸井さんを待って。
で、「あ、ごめんごめん」ってトコトコっと来て、で‥‥
こちらのチラシのコピーを、書いていただいたんです。
糸井
‥‥ああー、見つけました。



「期待しています。
期待を上まわってください。
2回下まわったら、もう見ません。」
リッキー
(笑)
写真
リッキー
これが、1982年の7月のことですね。
その節は、本当にありがとうございました。
糸井
すっかり忘れてましたけど‥‥
いい仕事してますね、僕ね。
リッキー
ハハハハハ、そうなんですよ。
こんなご縁が、じつはありました。
糸井
ああ、つられて思い出した。
チャンピオンになってからしばらくして、
ブッチャーブラザーズのふたりが
何をしてるかあまりわかってなかったころに、
子どもを連れていったディズニーランドで、
意外なかたちでおふたりにお会いしたんですよ。
リッキー
ああー、ありましたね(笑)。
糸井
ディズニーランドの「冒険の国」で、
トム・ソーヤーの島に行く手前あたりに
催し物の屋台みたいなのがあって、
そこで「インチキの薬を売る西部開拓時代の怪しいヤツ」
っていう役でおふたりがいて。
「あれ、見たことある人がいるぞ」と。
リッキー
はい(笑)。



お客さんの中に混じったディズニーのスタッフに
「そこのお嬢さん、どうぞ」と言って、
薬を飲ませると、たちまち踊り出して、
3人で踊って、最後、ジャンジャンで終わるっていう
ショーをね、やってましたね。



当時、僕は人力舎にいたんですけど、
東京ディズニーランドがまだオープンして2年目で、
「新しいオリジナルのコメディーショーを作ろう」
となったときに、人力舎から送り込まれたんです。
糸井
僕はそれを見て、
「はぁ、あのふたり、ディズニーに就職したのか!」って。
リッキー
思いますよね(笑)。
さすがディズニーと言いますか、
芸人だからと言って手を抜かず
リハーサルもしっかりしていて、
ショーのクオリティも高かったですからね。



今でも覚えてるんですけど‥‥
ショーを観ていた中学生くらいの男の子が、
「あれ?ブッチャーブラザーズじゃん、なに、職内(※)?」
って言ったんですよ(笑)。
※内職を意味する業界用語。
芸人が事務所に内緒で仕事をすること。


もう急に、ディズニーがザァーーって、
灰色になったような感じになりました。
糸井
だからかな、ちょっと僕もね、なんかあのとき、
「ブッチャーブラザーズを励ましたい感」がありました。
リッキー
ははははは。
写真
糸井
でも、なんだか気づくとリッキーさん、
苦労人の若い芸人さんたちが口を揃えて
「ブッチャーブラザーズさんにはお世話になって」
みたいなことを言うような存在になっていって。
リッキー
そうですね。
たぶん僕らこの20年、いちばん多かった依頼は
「写真を貸してください」だったと思います(笑)。



若手の子たちのトーク番組に、
ブッチャーブラザーズの写真が
しょっちゅう出てくるんですよ。
「あのとき、本当にお世話になって‥‥」みたいな。



「ご本人登場」はないんですけどね、なかなか。
糸井
僕のなかでは、プレイヤー側だったブッチャーブラザーズが
どうやって「若手のお世話をする先輩」に
なっていったのか、あんまりつながらなかったんですよ。



そしたら先日、
「実はあの人、いま、サンミュージックの社長ですよ」
っていう話を聞いて。
「へえー!」って驚いてたら、さらに、本が出ますと。



読んでみたらやっぱり面白くて、
ぜひ今回、対談させていただきたいなと思ったんですね。
(つづきます)
2024-05-15-WED