サンミュージック・リッキー社長「人の面倒を見ていたら、社長になっちゃいました」 サンミュージック・リッキー社長「人の面倒を見ていたら、社長になっちゃいました」
カンニング竹山さんやダンディ坂野さんなど、
数多くの芸人から「恩人」として名前が挙がる、
芸能事務所サンミュージックの社長・リッキーさん。
今回、リッキーさんの半生を綴った一冊、
『サンミュージックなお笑いの夜明けだったよ!』の帯を
糸井重里が書いたご縁で対談が実現したのですが、
じつは、糸井がリッキーさんと最後に会ったのは、
もう40年近く前のこと。

1982年、『ザ・テレビ演芸』で結成2年目にして
チャンピオンに輝いた当時の「若手芸人」リッキーさんと、
その姿を「審査員」席で見ていた糸井。
「あのときの若者」が、たくさんの若手芸人にとっての
「恩人社長」になるまでの人生模様を、
糸井があっちからこっちから面白がりました。
役者志望だった若者時代、変わりゆく夢、
そして、後輩たちに伝えてきた「たったひとつ」のこと。
全7回でお届けします。
第2回 「後始末」をしてきた人生。
リッキー
じつは、この本を書き始めた当時はまだ、
副社長だったんですよ。
書いてる途中で社長になってしまったんで、
こう、「副」にバツをつけて。
写真
糸井
本を作ってる間に、社長になっちゃった(笑)。



そうなったのは、どうしてなんですか。
つまり、いち「お笑い芸人」だったリッキーさんが、
どうして「若手の面倒を見る先輩」になって、
最後には「芸能事務所の社長」までいっちゃったのか。
リッキー
うーん‥‥こう言ってしまうとなんなんですけど、
僕ってじつは、わりともう最初からずっと、
「人の面倒を見てきた人間」なんですよ。
糸井
「最初」というと、もうほんとに若いころから。
リッキー
さかのぼって話しますと、
僕はもともと芸人ではなく俳優志望だったので、
21歳くらいのとき、
東映京都撮影所の俳優養成所に通っていて、
そこで同じく俳優志望の先輩だった
ぶっちゃあさんと出会ったんですね。
糸井
はい。
リッキー
で、そこから僕とぶっちゃあさんは、
サンミュージック所属の役者だった
森田健作さんの付き人になるんですけど、
あのふたりは、まあ、本当によくぶつかったんですよ。



実質僕は、森田さんとぶっちゃあさん、
二人の付き人をやってるような状況に陥ってたんです。
両方サイドから「なあ、岡(※)」って言われて、
一番若い自分が、年上ふたりの揉め事の後始末をする‥‥
みたいなことばかりしていて。
※リッキーさんの本名は「岡博之(おか・ひろゆき)」
糸井
はあー。もう、最初からそういう人だったんだ。
リッキー
その後、
「このままだと自分たちの進むべき方向が見えないんで」
と森田さんの付き人をふたりそろって辞めたときも、
森田さんのマネージャー‥‥
今でも森田さんのマネージャーをやっていて、
サンミュージックの専務にもなった先輩なんですけど、
彼が、僕だけ喫茶店に呼び出したんです。



「なんだろう」と思ってお店に行ったら、
「ふたりが付き人を辞めると聞いたんだけど、
君だけこのままマネージャーとして残らないか」と。
写真
糸井
21歳にして、「面倒見の良さ」に定評があった(笑)。
リッキー
今思うと、そうですね(笑)。
ただ、そのときの僕は
プレイヤー側の仕事がやりたかったのでお断りをして。



その後、森田さんの後押しもあって、
役者を辞めて、ぶっちゃあさんとコンビを組んで、
サンミュージックで芸人として挑戦していくんですね。
糸井
で、『ザ・テレビ演芸』でチャンピオンに輝いたり、
プレイヤー側として実績を作っていくわけですよね。
リッキー
そうなんですけど、
僕らふたりは、そこからわりとすぐ、
若手の面倒を見ることになるんです。



年齢でいうと‥‥26歳くらいだったかな。
サンミュージックが一時的に
お笑いビジネスから撤退することになって、
そのときは僕らも人力舎に移ってたんですけど。
当時って「お笑いライブ」自体がそんなになくて、
芸人たちが出られる場所というのが全然なかったので、
僕らは自分たちで
お笑いライブをたくさん開催していたんですね。
糸井
はい、はい。
リッキー
そこで、
なんとなく芸人を集めて1回、2回とライブをやるうちに、
僕らはまだ若手なのに、
「もっとよくするにはどうしたらいいか」みたいな、
運営のようなことまで
スタッフと一緒に考えるようになっていったんです。
糸井
ほー。
リッキー
そのなかで、
「どんな芸人を出すか、事前にネタ見せをやろうか」
という話になって。



で、事務所の垣根なく集めてみたら、
よその事務所からも
若い芸人がいっぱい集まってくるようになったんですよ。
なんとかライブに出ようと。
糸井
みんな、
「お笑いをできる場所」を探してたんでしょうね。
リッキー
そうだったんだと思います。
よそもいくつかライブはやってるところはあったけど、
やっぱりどこも作家さんやマネージャーがやってるんで、
軽いダメ出し程度しか感想をもらえなかったんです。



でも、僕らは同じ「プレイヤー」なんで、
その子たちが面白くなかったら、
「面白くねぇな」で終わりじゃなくて、
つい一緒になって、10分、15分しゃべる。
写真
糸井
どうしたらよくなるか、
一緒になって考えちゃうんだ(笑)。
リッキー
50組とか来るんですけど、
つい一組一組としゃべってしまって、
昼前ぐらいから始めているのに
気がついたら夜中の12時とか
そんな時間になってるんです。



そんなことをやってるうちに、だんだん、
「あそこはネタ見せに行くと、
1組ずつ時間かけてアドバイスをしてくれる」
という噂が広がって、
各社のマネージャーが若手芸人に
「ブッチャーブラザーズのライブに行きなさい」と
言うようになっていったんですね。
糸井
はあー。
そこには、どんな芸人たちが集まってきてたんですか。
リッキー
たとえば、カンニング竹山ですかね。
糸井
ああ、竹山さん。
リッキー
竹山はいまだにいろんなところで、
「リッキーさんが『カンニング』をつくった」みたいに
名前を出してくれてますけど(笑)。



当時竹山はワタナベエンターテインメント‥‥
当時でいうナベプロに所属していたんですね。



当時のナベプロと言えば、まずトップにABブラザーズの
中山秀征ちゃん、相方の松野くんがいて。
そのちょい下に、ホンジャマカの石塚英彦、恵俊彰。
その下ぐらいに、カンニング竹山、ネプチューンの名倉、
当時はまだ別のグループですけど、泰造やホリケンがいて。



そのあたりがみんなネタ見せに来るんですね。
なんとかライブに出ようと。
糸井
はい、はい。
リッキー
で、竹山はそのとき今のキレ芸とは違って、
竹山がテキトーなことを言って
相方の中島がキレるってスタイルだったんですけど、
なかなかうまくいかなくて。
そのうちナベプロもクビになってしまったんです。



ナベプロをやめた後のカンニングは、
サンミュージックに入るんだけど仕事が全然なくて、
何やら知人が立ち上げた個人事務所に移ったと思ったら、
その事務所が突然解散になって無所属になって‥‥
と、もう無茶苦茶で。



でも、僕はなんかずっと、
カンニングが気になってたんですね。
好きだったし、何かを感じてて、
ライブにも出てもらってました。



それもあってか、
僕らブッチャーブラザーズがまた
人力舎からサンミュージックに戻って
本格的にお笑い班をつくるという話になったとき、
いろんな芸人たちと一緒に、
カンニングもサンミュージックに戻ってきてくれたんです。
糸井
ああー。



そのとき、きっとたくさんの若手芸人たちが、
「ブッチャーブラザーズが動いたということは、
ちゃんと面倒を見てもらえるかもしれない」
と思ったんでしょうね。



すごいことですよね、それ。
写真
リッキー
いや、ほんとに糸井さんがおっしゃる通りで。
僕らもすごく売れてるわけでもないのに、
「ブッチャーブラザーズが本当に戻った、
それなら、何か起こるぞ」という空気になったんです。



そのときは、ダンディ坂野とあと三人、
他に行くアテがないという人間が
僕らと一緒に人力舎を辞めてくっついて来て、
「誰かが売れるまで5年待ってくれ」
「10代のアイドルを2年3年で売るのと、
お笑いは違うんです」と僕から頼み込んで、
弟子たちも一緒に所属をさせてくれっていう条件で
サンミュージックに戻ったので、
「ブッチャーブラザーズが売れない若手の面倒見る」
っていうのがスタートからあったんですね。



そこに、カンニング以外にも、
いろんなところから芸人が集まってきたっていう。
糸井
つまり、ブッチャーブラザーズっていうのは、
「面倒を見てくれる人」でありつつ、
「場を作る人」だったんですね。
リッキー
あ、たしかにそうかもしれないですね。
でもそれはどちらかと言うと、
ぶっちゃあさんの役割だったかな。
何か新しいことをはじめるぞみたいな
「きっかけを作る役」は、いつもぶっちゃあさんでした。



僕はあくまで、
「後は、岡、お前フォローよろしく」
って言われる役なんですよ。
糸井
ああー、2人の持ち味が違うわけですね。
「きっかけを作る人」と「フォローする人」。



このふたつがワンセットで、
ブッチャーブラザーズの「面倒を見る」になってたんだ。
写真
リッキー
ぶっちゃあさんは、きっかけを作るんですけど、
トラブルメーカーでもあるので(笑)。
気がつくと、いつもぶっちゃあさんが作ったものが
ぐちゃぐちゃになってるんです。
糸井
きっかけを作る人って、そういう人が多いですよね。
リッキー
はい。
そこを僕が見に行って、直して、
僕の手柄になるみたいな(笑)。
僕はいつもそういう、「立て直し役」です。
糸井
言ってみれば、リッキーさんがやってきたのって、
「酔っ払いの介抱」みたいな仕事ですよね。



酔っ払いのぶっちゃあさんが軽い気持ちで
「兄ちゃんこっち来ない?」って言ったのがきっかけで、
人が集まって盛り上がるんだけど、
それがどんどんえらいことになっていって、
慌ててリッキーさんがお掃除する、みたいな(笑)。
リッキー
ああ、もう、本当にその通りですね。
糸井
つまりリッキーさんは、
「後始末をしてきた人生」だったんですね。



「経営しろ」というのも、つまりそういうことでしょう。
いろんな後始末を任されているうちに、気づけば
「社長やってくれ」というところまで来ていたという。
リッキー
はい、気づいたらそんな人生になっていました。
写真
(つづきます)
2024-05-16-THU