サンミュージック・リッキー社長「人の面倒を見ていたら、社長になっちゃいました」 サンミュージック・リッキー社長「人の面倒を見ていたら、社長になっちゃいました」
カンニング竹山さんやダンディ坂野さんなど、
数多くの芸人から「恩人」として名前が挙がる、
芸能事務所サンミュージックの社長・リッキーさん。
今回、リッキーさんの半生を綴った一冊、
『サンミュージックなお笑いの夜明けだったよ!』の帯を
糸井重里が書いたご縁で対談が実現したのですが、
じつは、糸井がリッキーさんと最後に会ったのは、
もう40年近く前のこと。

1982年、『ザ・テレビ演芸』で結成2年目にして
チャンピオンに輝いた当時の「若手芸人」リッキーさんと、
その姿を「審査員」席で見ていた糸井。
「あのときの若者」が、たくさんの若手芸人にとっての
「恩人社長」になるまでの人生模様を、
糸井があっちからこっちから面白がりました。
役者志望だった若者時代、変わりゆく夢、
そして、後輩たちに伝えてきた「たったひとつ」のこと。
全7回でお届けします。
第3回 夢の移り変わり。
糸井
リッキーさんって、
そんな「後始末の人生」と一緒に、
ずっと「プレイヤーとしての人生」を
歩んできた人でもありますよね。



しかも、さっきも少し話に出ましたけど、
もともとはお笑いですらなく、「役者志望」だったわけで。
リッキー
はい、そうですね。
糸井
そのあたりの「夢の移り変わり」も、
リッキーさん、面白いですよね。
役者を辞めて芸人として挑戦しはじめたときには、もう、
「芸人としてやっていくんだ」と
腹をくくってたんですか。
リッキー
いえ、一生芸人をやるつもりはなかったですね。



何かしらで芸能界で顔が売れれば、
ゆくゆく映画なりなんなり、
「自分のやりたいこと」ができるんじゃないかなと
考えてました。
糸井
ああ、そうでしたか。
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リッキー
僕らの時代は、やっぱりもう、
とにかく「映画スター」が、
芸能界という生態系の、
ヒエラルキーのトップだったわけで。



「銀幕のスター」なんて言葉があったように、
まず、頂点に映画スターがいて、
そして歌謡歌手で上がってきた人がいて、
芸人は、やっぱりだいぶ下のほうになっていくんですね。



逆を言えば、
芸人でも映画に出れば一流のスターでしたから、
「芸人をとっかかりに、いつか映画の世界に」という、
そういう気持ちで始まってたと思います。



リッキーという名前も、
渡哲也さんの『仁義の墓場』という映画の、
石川力夫(いしかわ・りきお)って役名から、
漫才の本番5分前に適当につけた感じで。
そこから今、43年付き合ってますけど、「リッキー」。
糸井
そうか。
エンタツ・アチャコぐらいになれたらいいけど、
「お笑いだけ」の人たちは、当時のヒエラルキーで言うと、
ずーっと下のほうに。
リッキー
はい。芸人は、それが楽なんでしょうね。
自ら「俺は格が上だ」とは、
あんまりならない性分なんじゃないでしょうか。
むしろ、「私ら所詮芸人ですから」って。
映画スターは「私ら所詮映画スターですから」
とは言いませんもんね。
糸井
「下でいるのが楽なんでしょうね」っていうのは、
いいですね。



でも、リッキーさんは、
森田健作さんというスターの付き人になって、
「ヒエラルキーのトップ」を見るところから
始まったわけですよね。



「これぞ芸能界」という場所は、
若いリッキーさんにはどういうふうに見えたんですか?
リッキー
あの、僕が森田さんと知り合うきっかけになった
「東映京都撮影所」というのは、芸能界のなかでも
最も特殊な世界と言われてた場所なんですね。
糸井
たしかに、それこそ
「江戸城」みたいな場所でしたよね。
もう、その時代の芸能界のど真ん中というか。
リッキー
そうなんですよ。なんかもう、異世界でした。



『仁義なき戦い』みたいな時代劇を撮ってるときなんか、
もう大部屋の先輩とか、裏方さんとかも、
全員ヤクザっぽくなるんですよ(笑)。
「オイ‥‥ちょっとこっち来い、
メシ食いに行こうや」って。
写真
糸井
(笑)



照明さんとか美術館とかも、ちゃんと怖いんですよね。
リッキー
むちゃくちゃ怖いですね。
で、いろんな人に怒られまくりながら、
横目で「あっ松平健だ」、みたいな(笑)。
そういう日々でした。



当時まだ19歳で、
芸能界のスタートがそれだったので、鍛えられましたね。
もちろん怖いんですけど、それ以上に、
「チッ‥‥コノヤロー、いつか見てろよ」っていう(笑)。
糸井
「やる気の若者」だったんだ。
リッキー
ただ、やっぱり「演技」の世界って、
みんな演技を志して入ったはずが、
そこからどんどんまた夢が変化していくというか、
自然と生態系が分かれていくんですよね。
糸井
そもそも、まず、
「映画をつくる」って目的で集まってる人たちは、
「俺は裏方として映画を作るんだ」っていう人と、
「俺は役者で売れるぞ」っていう人が、
ごっちゃごちゃになってるわけですよね。
リッキー
そうですね。ただやっぱり、
7、8割は「俺は役者で売れるぞ」という感じでした。
糸井
ああ、そっちですか。
「スター」になりたい。
リッキー
はい。
東映なので、基本はお芝居の稽古をするんですけど、
やっぱりメインは木剣を使った「殺陣」の稽古で。
これを早く身につけると、仕事が早くもらえるんですよ。
糸井
ああー、まずはみんな、そこに真剣になる。
リッキー
上手に受けて、上手に斬られる。
これが上手になると現場が増える。
現場が増えると、
監督やプロデューサーに顔を覚えてもらえる。
‥‥というふうなステップが、だんだん見えてくるんです。
糸井
それは、どのくらいの年月を覚悟するんですか。
リッキー
「10年」、とかではないですよね。
20年とか経って、40過ぎたの先輩が、
18歳の青年の剣士役で出てるような世界でした。
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糸井
はあー、長いですね。
リッキー
そうなってくると、
やっぱりみんな役者をやりながら
スタッフのお手伝いとかやってるうちに、
「やっぱり俺はこっちが向いてるんじゃないか」と、
裏方に回っていったりするわけです。



録音技師さんになったり、
最終的にテレビ版の水戸黄門の監督になった先輩もいます。
糸井
大きな一座があって、職種もいろいろあって、
横でいろんな関係ができていって、
「ここは無理だな」とか「こっちやってみたいな」とか、
自然と道が分かれていく。



それってきっと、世の中でイメージされてる
「芸能」という言葉と、全然違う職場ですよね。
もっと種類度が高いというか、多様な生態系のなかで、
みんなの夢がだんだん変化していくような場所で。
リッキー
ええ、ええ、そうですね。
糸井
その生態系のなかで、
リッキーさんの夢は
どういうふうに変化していくんですか。
リッキー
最初は、「東京」でした。



下積みをやりながら、
ぶっちゃあさんと、後に引っ越しのサカイのCMで売れる
徳井優ってやつと3人で自主映画グループを作っていて、
「きっと東京でも映画の仕事で行ける」って。



なんか子どものようなイメージで、
「東京に行きたい」と言ってましたね。
で、撮影で京都撮影所を訪れた森田さんに拾ってもらって、
付き人として上京しました。
糸井
ああ、その段階では、まだ役者なんですね。
リッキー
はい。「芸人」という道が入ってきたのは、
そこから、ぶっちゃあさんと僕が
京都弁でわーわーしゃべってたり、
いたずら好きな森田健作に僕らがツッコんだり、
わいわいやってるの見たマネージャーが、
「漫才聞いてるみたいで面白い」と。
「漫才チャレンジしたらどう?」と、
そう言ってもらったのが最初のヒントでした。
糸井
ほうほうほう。
リッキー
それで、「じゃあ1回チャレンジしてみようか」と
『笑ってる場合ですよ!』に出たら、
なんとチャンピオンになってしまった。
そこから、あれよあれよという流れでした。



やっぱり、
今までのいわゆる「東京コント」の人と全然違う、
ちょっと変わったネタをやっていたので、
目に止まったんでしょうね。



僕とぶっちゃあさんは、
演劇の世界にいた時代に、
宮沢章夫さんとか竹中直人と
四人でネタ考えたりしてたので。
ヘンなネタだったんですよ、今までのコントじゃない。
そんなかたちで、芸人としての人生が始まりました。
写真
(つづきます)
2024-05-17-FRI