- 山極
- 大人になる上で、親の存在は大きいですね。
- 糸井
- なるほど。
- 山極
- 僕は18歳で京都に出て、そのときに親と切れました。
切れたことで、ちゃんと自分で自覚を持って
異性とつきあわなくちゃいけない、
そういう気にさせられましたね。
- 糸井
- 僕もつきあう気はもう、満々でしたよ。
満々なのに、つきあっていても
大人になるというつもりはなかった。
それで、だらしのない人になりましたね。
- 山極
- 大人ぶってみたいとか思いませんでした?
- 糸井
- 思いましたけど、
僕には、子どもとして愛された記憶が
足りていなかったような気がする。
だから、女の人から見たら、
長いこと、情けない男だったと思うんですね。
- 山極
- こんなはずじゃないのに、みたいな?
- 糸井
- そうですね。居心地の悪さのなかに、
ずーっと人生のほとんどの時間があって、
やっと50歳ぐらいになって、
男役、お父さん役をすると決めて、
できるようになったという感じ。
- 山極
- あんまり言いすぎちゃいけないと思うんだけど、
親に愛された記憶というのが一定期間あると、
親というのはこんなもんだ、と見きれるんですよ。
- 糸井
- 僕は、見きれなかったんでしょうね。
- 山極
- だから、自分が親になったときに、
それ以上努力する必要はありません。
こんなもんだ、というモデルがあるわけですから。
でも、そこにモデルがいないと、
これが親なんだろうかと、いつも悩んでしまうんです。
- 糸井
- いまの時代、そういう人はきっと増えていますよね。
- 山極
- さらに言えばね、きょうだい像がないんですよ。
だいたいが少子化だから。
とりわけ重要だと思うのは、異性のきょうだいですね。
これがあるかないかで、ずいぶん違いますよ。
- 糸井
- そうでしょうね。
- 山極
- あるいは、きょうだいがいなくても、
近所にそういう仲間とくんずほぐれつね。
- 糸井
- すごく親しい仲間って、
とってもきょうだいに近いですよね。
- 山極
- 近いですね。あっ、ところで糸井さん、
お医者さんごっこは、やったことありますか?
- 糸井
- あります。さんざんやってました。
- 山極
- だから救われてるんだ。
- 糸井
- そうですか、大好きでしたよ。
- 山極
- お医者さんごっこってね、
ゴリラでも、オランウータンでも、チンパンジーでも、
あることに気がついたんです。
彼らも小さいころにセクシャルな遊びをするんですよ。
遊びを通して、男の子も、女の子も、
自分の体や異性の体に興味を持つんです。
- 糸井
- 身体の違いって、ふしぎですもんね。
- 山極
- それは類人猿共通で、サルにはないんですよ。
遊びの中で自然に起こるもので、
思春期になったときにも、
体の構造がまったく違う異性のあいだで、
体の仕組みを念頭に置いてつきあえます。
子どものころから人間に飼われて、
小さいときにお医者さんごっこみたいな
遊びをしていないゴリラはセックスできないんです。
なにしていいかわからないし、
異性と会っても触れるのが怖い。
- 糸井
- 違和感の正体もわからないんですね。
- 山極
- 最初はくすぐりあいとかだと思うんだけど、
どうやって触れあいが起こるか、
どういうことをしたら相手が喜ぶか、
それで、自分もどう快感を覚えるのかを、
遊びを通じて、頭の中というか、
体で知っていないと、接することすらできなくなる。
- 糸井
- 世の中が都市化していくと、
何十万年の間、ふつうにあった人間同士の関係が、
もう全部が組み換えになっちゃって、
最終的には学ぶしかなくなるようになりますよね。
- 山極
- そうですねぇ。
- 糸井
- そうすると、人間が持っている動物としての部分を
どうやって解放していこうか、
みたいなことが必要になりますよね。
- 山極
- これだけIT技術が盛んになって、
どんどん機械化している時代でしょう?
そうすると、機能や効率が優先されるんです。
でも、人間もやっぱり動物なんで、
身体でどういうものを感得し、
それをどう使っていくかの中に
幸福感やら、納得というものがあるんですね。
これは私がよく言っていることですが、
文化は情報じゃない。身体で納得するものなんです。
アフリカの文化を知りたければ、アフリカに行く。
イギリスの文化を知るためには、イギリスへ行けと。
逆に、外国の人が日本の文化を知ろうと思ったら、
日本に来て、日本人と一緒に暮らすのが一番。
日本の飯を食って、日本の服を着て、
日本の匂いを嗅いで、それが一番ですよ。
それってじつは、道徳も同じなんですよね。
昔の家には、いろんな人が出入りしていました。
障子とか、唐紙とか、声が筒抜けになるところで
雑談や噂話をしているのを、
子どもたちは、そば耳を立てて聞いていたんですよ。
じつはそれが、結果的に道徳教育になっていた。
- 糸井
- はぁー。なるほど。
- 山極
- スキャンダルをみんな、ひそひそ話でしていました。
「あそこのバカ息子が、こんなことしでかして」ってね。
そういう失敗談を、みんなが笑いながら話す。
それで、自分が同じような境遇に立ったときに、
ああいうバカ息子になりたくないな、と思うんですよ。
それは文字化したルールよりも、身になる情報なんです。
だって、自分の知っている人が
実際におかした過ちであり、経験でしょう?
そういうことが、なくなってしまったんです。
テレビで視覚的な情報が入ってきても、
それは自分の知っている人じゃない。
自分と同じ文化に生きている人でないと、
自分の身にならないわけですよ。
- 糸井
- ああ、まったくそうですね。
いまの話で特におもしろいなと思ったのが、
「罪と罰」ということですね。
罪について語って、罰について語って、
そこにもうひとつ、許しがあるんです。
- 山極
- うんうん。
- 糸井
- 「あのバカ息子」がやったことを、
しょうがねぇ野郎だなと言ってはいても、
なんとか許されたというところまで含めて、
肉体的な言語じゃないですか。
テレビでは「許せませんね!」と言ったら、
罰を与えるまで止まらないんですよね。
- 山極
- うんうん。そうですね。
- 糸井
- ご近所の話なら、許しまで含めてひとつです。
時間が経てば「まぁしょうがないね」と。
- 山極
- そうそうそう。しかも、抜け道まで教えてくれたり。
バカにされているんだけど、一方では愛されているから、
こうしたら許してやれ、みたいなところがある。
- 糸井
- ありますね。
- 山極
- だから、ほっとするわけですよ。
失敗しても、どこかで人間は救われるんだなと思える。
許しがあるからこそ、また共同体に戻っていけるし、
その共同体から離れずにいられる。
もし爪弾きにされたとしても、
誰かが救ってくれる逃げ道が用意されています。
- 糸井
- やり直しの連続ですもんね。
でも、今の社会では、
やり直しまでもルール化されているから、
またこぼれ落ちるんですよね。
- 山極
- そう。しかもバッシングがひどすぎるんですよ。
生の声で「お前はバカだ」と怒鳴られてもね、
どこかで、救われるという気持ちが起こる。
だけど、文字に書かれた罵詈雑言はもう、
言葉の化石ですから。
これ以上、変わらないわけですよ。
与える衝撃の、根が深くなってしまう。
- 糸井
- 消えずに、全部がアーカイブになると、
きっと、褒められたこともアーカイブ化しちゃうんで、
「いつまでも褒められることじゃないよ」
ということでも、昔の栄光にすがっちゃう。
- 山極
- そうなんですよ。
たとえば、メールで来た「よくやったね」を
ずっと残している人がいますが、それは危険です。
生の言葉で言う「よくやったね」は、
次の日には変わるものですから。
- 糸井
- そうです、そうです。
- 山極
- それが人間、それが生物の営みなので。
生物には繰り返しは起こらない。
でも、文字というのは繰り返せるんです。
- 糸井
- まったくそうですね。
- 山極
- 機械もそうで、我々はとんでもないことに、
繰り返しが可能な世界に足を踏み入れてます。
それはね、罵詈雑言が何度でも繰り返して
波のようにやってくるわけですね。
- 糸井
- ほんとですね。
「時間とともに薄くなる」という当たり前のことが、
デジタル表示だと薄くならないんですよね。
その濃さに耐えられるだけの
心臓を持った動物なんていないですよね。
- 山極
- いない、いない。
ルールを全面に出してる社会というのは、
そういう社会なんですよ。
要するに、人の表情とか声音とか、
そういうことを斟酌する必要はない。
そこに情感の入る余地はないわけですよ。
(つづきます)
2016-01-06 WED