『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』『ニュータイプの時代』などの著者で、
「美意識」や「アート」といった切り口から
これからの時代を豊かに生きていくための
思考・行動様式を研究し続けている
山口周(やまぐち・しゅう)さんが、
「会社」についての話を聞きに、
糸井重里のもとをたずねてこられました。
大切に思う部分が似ているふたり。
仕事はもちろん、生きていく上での
「数値化できない部分」の重要性を
あらためて確認するような時間になりました。
ふたりのおしゃべりを、全7回でご紹介します。
- 糸井
- はじめまして。よろしくお願いします。
- 山口
- こちらこそ、はじめまして。
よろしくお願いします。
- 糸井
- もしかしたら、どこかで会ってるかなぁと思って。
- 山口
- 実は、ほぼ日のオフィスが
青山の骨董通りにあったときに、同じビルにある
アメリカのコンサルティング会社で
働いていたことはあるんです(笑)。
あとは(ほぼ日の前CFOの)篠田真貴子さんと
知り合いだったものですから、
オフィスが外苑前にあったときには遊びに伺って、
飾られている『おいしい生活』の書を
見せていただいたりしました。
また、イベントで糸井さんと登壇のタイミングが
近かったこともあったんですが、
なかなか直接お会いする機会はなくて。
今日は非常に光栄です。
- 糸井
- 僕は本を読んだりしております。
- 山口
- どうもありがとうございます。
簡単に自己紹介をしますと、
僕は1994年に最初に入った会社が電通で、
30代の前半ぐらいまで、
8年ぐらい広告の仕事をしていたんですね。
- 糸井
- そんなに長く。
- 山口
- そうなんです。
ですから青春時代には糸井さんが広告領域で
活躍されていて、非常にまぶしく感じていました。
また2001年に糸井さんが出された本の
『インターネット的』にもすごく共感したんですが、
僕もインターネットが出てきたとき、
夜も寝られないぐらい興奮したんです。
- 糸井
- しますよね。
- 山口
- はい。もうほんとにワクワクして。
インターネットのことを考えはじめると興奮して、
気づけば朝になっていたことまでありました。
「自分が20代後半のタイミングで
こういうものが世の中に出て来るなんて、
なんてラッキーなんだ!」と思って。
だけどそうやってインターネットが登場して、
検索エンジンなども出てくるわけですけれども、
一般的にはまだ理解がすすんでない部分もあって。
当時、私が担当をしていた、いまから思えば
千載一遇のチケットだったインターネット関連の案件が、
経営会議で「インターネット?
知ってるよ、ニューメディアってやつだろ」
みたいな声で、ろくな審議もなく
却下されたりしたこともあったんです。
- 糸井
- それはショックですね。
- 山口
- また1999年頃、インターネット関連のベンチャー企業が
渋谷近辺に集まっていたことから、
渋谷が「ビットバレー」と呼ばれて、
盛り上がっていた時期があるんです。
- 糸井
- ありましたね。
- 山口
- 「ビットスタイル」というメーリングリスト発の
飲み会が開催されるようになって、
大勢の人がいろんな可能性や人脈に期待して、
毎週そのパーティーにワーッと集まって。
みんなが興奮してて。
でも、そうやって聞こえてくる話は、
自分が感じているインターネットの面白さとは
違うわけです。
なんだかもう最初から
「これは打ち出しの角度が違うぞ」と思って。
だからインターネットが出て来たときに
自分が大興奮した感じと、
日本のインターネットワールドが、
ちょっと違う方向に行った感じがしたんです。
- 糸井
- まったく違いますよね。
- 山口
- そういった背景がありまして、
なんだか居ても立っても居られなくなって、
30歳のときに電通を辞めたんです。
ただそこまでいろいろ思うんだったら、
自分で何かやるぐらいのバイタリティーが
あればよかったんですけれども、
結局そこからずっとモラトリアムで。
僕はその後、糸井さんと違って、
インターネット関連のビジネスって
全然やれなかったんです。
それでいろいろな会社のお手伝いをしたり、
さまざまな方にお話を聞かせていただいたり、
考えたり、本を書いたりしながら、いまに至ります。
- 糸井
- 強い興味がありながら、
結局インターネットのほうにいかなかった
というのも面白いですね。
- 山口
- そうなんです。
糸井さんは「ほぼ日」のスタートが
98年ですか?
- 糸井
- はい、ウェブサイトの「ほぼ日刊イトイ新聞」を
はじめたのが1998年です。
そのときはまだ社名も「株式会社ほぼ日」ではなく、
僕の個人事務所という形だったんですけれども。
そして当時のインターネットをめぐる状況については、
僕もいま、山口さんがおっしゃったような違和感が
並外れてありました。
自分は全然違うところに目が行ってて、
まったく別のことを考えていたんです。
みんなが言っている「ビットバレー」みたいなほうに
行ってしまうと、その雰囲気にちょっと
酔っ払っちゃうなと思って嫌だったんです。
酔いたくなかったんで。
- 山口
- わかります。
- 糸井
- ただ、盛り上がっている人たちの姿が
逆に自分を勇気づけてくれた部分もあったんですね。
人混みの中で考えていると、
ほかの人の様子を見ながら考えられますから。
あと、自分もはじめてまだ間もないけれど、
当時はインターネットに絡んだことを喋っていると、
いろんな人が話を聞いてくれたんですね。
そのなかで気づいたり考えたりしたことも多くて。
そうやって自分なりに考えたことをまとめて、
2001年に『インターネット的』という本を出したんです。
- 山口
- とても興味深く読みました。
- 糸井
- 僕自身、もともと広告の仕事をしていたときに
「大きな規模でなにかが動く」とかは好きでしたから、
そういうことを否定しているわけじゃないんです。
だけど実際いろんなことをやっていくうちに、
そういったことよりも
「手触りのあるビジョンを重ねていったら、
こんなものができました」という物語のほうに
だんだんと心が向かっていったんですね。
そのずっと延長線上に、いまがあるわけですけど。
- 山口
- 20年以上見ていて、いまのインターネットって
ほんとに「ああ、こうなったか」という感覚が
あるんですけれども。
- 糸井
- ねぇ、「こうなったか」ですよね。
山口さんが考えたり感じたりされてきた
ようなことって、
わりと僕はシンクロしている気がします。
でも、いまのインターネットって
「いいところがあるね」も
「いやなところもあるな」も、
同時にぷつぷつぷつぷつ出てきてて。
「こうなったか」という評論だけでは
済ませられない部分が、やっぱり大きいので。
いまはみんなが「表面に現れてしまうこと」に、
すごく囚われている状態だと思うんです。
- 山口
- 表面に表れてしまうこと。
- 糸井
- いまってみんなが見られる壁に「過剰な善意」も
「過剰な悪意」も「演出としての悪意」も、
全部が書いてあるわけです。
そして、そういう場所にちょっと
「そうだよな」と思えるものがあると、
通行人もみんな見るんですね。
そういう話って昔だと、文学者が
「悪いやつってこういうこと考えるんだよ」
とか書いてればよかった。
だけどいまはそれが日常的にみんなの目に入って
‥‥これが一番の大きな変化だと思うんですね。
- 山口
- ああ、そうですね。
- 糸井
- だから、これから「住み分け」みたいなことが、
だんだんすすんでいくのかな、とは思うんです。
犯罪者がいっぱい住んでいるところに
アパートを借りて住んでいれば
「毎日犯罪だらけだよ」となるけれど、
別の場所に引っ越してしまえば、
そこで見なくても済みますから。
すべてを知り得るかたちとはいえ。
そういう「住み分け」を「偽善だ」と
言う人もいるかもしれないけれども、
やっぱり生物の歴史にしても、
みんながうまく生きるために
「住み分け(棲み分け)」という方法を
使ってきたんで。
だから、ちょっと危なっかしいものと、
ぜんぜん危なくないものがあるとき、
だんだんうまい「橋のかけかた」ができて、
徐々にみんなが
「自分の住みかた」みたいなものを見つけて、
情報との関わり方が
ばらけていくのかなと思うんです。
- 山口
- では、ほぼ日もこれからだんだん
そういうひとつの島というか、
共同体になっていくイメージでしょうか?
- 糸井
- そういう可能性はあると思いますね。
とりあえず、どこの会社も組織も、
自然に年齢は加わっていくものなので、
そこを代謝しながら、
「そのときどきの自分たちを勇気づけるものに
接していく」というか。
そういうことを頭で考えてやるのではなく、
体でできる会社にしたいですよね。
(つづきます)
2023-04-20-THU
(C) HOBONICHI