太郎に壁画制作を依頼したのは
マヌエル・スアレスという人物で、
メキシコでは有名な実業家です。
当時スアレスは、首都のメキシコシティのど真ん中に
「オテル・デ・メヒコ(メキシコホテル)」
というホテルの建設を進めていました。
68年開催のメキシコオリンピックを目指して、
ここで一発、中南米一の立派なホテルを
打ち建てるんだって、そういう野望のもとに
はじめたプロジェクトです。
そのスアレスが直接、太郎に
「ホテルのロビーの壁画を描いてほしい」
と頼んできました。
なぜそんなメキシコの実業家が
岡本太郎を知ってたかというと、
メキシコに日本人の小栗順三さんっていう庭師がいて、
その人が太郎の図録かなにかを持っていて、
「こんな人もいるよ」と見せたらしい。
それをスアレスが一発で気に入って、
「ぜひおねがいしたい」となったようなんです。
しかも太郎自身、もともとメキシコが大好きだった。
自分で本にも書いてるけど、
「世界の政治や経済の中心は、
ニューヨークやロンドン、パリかもしれないけれども、
文化・芸術の中心はメキシコだ。
メキシコであるべきだ」
と言うくらいにね。
そのくらい共感してたわけ。
そういう所から話があって、太郎もうれしかったでしょう。
スアレスはまず、
太郎に会いに日本までやってきました。
実際に最初に会ったのはこの場所
(現岡本太郎記念館の一室/旧岡本太郎邸の応接間)です。
そのとき太郎はスアレスを案内して、
当時すでにあったホテルニューオータニの上の
回転レストランに連れて行ったりしました。
スアレスはそれをたいへん気に入って、
「オテル・デ・メヒコ」の上にも
同じような回転レストランを作るんです。
まずそういうところから、はじまりました。
しばらくして先ほどの中南米旅行があったので、
太郎はそのときにスアレスと再会して、
現場なんかも見て、打ち合わせをしています。
で、帰国直後、もう一気に
『明日の神話』の木炭デッサンを描きあげるわけです。
だけど当時は大阪万博の仕事を引き受けた直後で、
太郎はものすごく忙しかった。
だから合間を縫って、
ときどきメキシコに行っては描いてたんです。
ただ、幅が30メートルもある巨大な作品だから、
普通の場所では描けないんですね。
そこでスアレスは、彼が手広く事業をやっている中に
スーパーマーケットもあったんだけど、
「ヒガンテ(GIGANTE)」という作りかけの
スーパーマーケットの工事を止めて、
そこをでっかい太郎のアトリエにするんです。
その作りかけのスーパーの中に
ちいさな小屋を建てて、まかないのおばさん雇って。
そのおばさんが、中でニワトリとか飼ってて(笑)。
行くと、太郎の面倒見てくれて、
飯も作ってくれたりしてね。
そうやって、最大級のリスペクトを持って
太郎を迎えた。
スアレスは大物実業家だけど、
太郎のことがとても好きになったようで、
「もうメキシコに引っ越せ」
「日本を出て、こっちに来い」
「こっち来ればね、王様のような暮らしができる」
そんなふうに口説いたりもしてたらしい。
太郎のことをすごく買ってて、
たぶん太郎も、それを意気に感じて描くんですよ。
だけど、スアレスのそのホテルが、
いちおう躯体は完成した、
上の回転レストランもできた、
地下のディスコもできた、というところで、
資金繰りに行き詰まって、工事が止まるんです。
そのとき『明日の神話』はほぼ完成していたから、
スーパーのアトリエからホテルの工事現場に運ばれ、
ロビーの指定位置に設置されていました。
その状況を見に行った太郎は、
現場を確認してOKだったらサインを入れて
おしまいにするつもりだったらしい。
でも、まだホテルは工事中で、
足場も残ってるし、電気も来てなくて、
作品がよく見えなかったらしいんですよ。
しょうがないから
「じゃあ、ホテルが完成したら
もう一回見にきて、よければサインを入れ、
手直しが必要だったら、その場で手直しして、
完成させよう」
ということで、日本に帰ったらしいんですね。
それが69年の暮れあたり。
3~4ヶ月後には大阪万博の開幕が控えていました。
だから、日本に帰った太郎はメキシコどころじゃないわけ。
史上最大の万博のテーマ館を
完成させなきゃならなかったから。
ようやく万博の仕事にケリがついて、
溜まっていた仕事を片づけて…。
そうこうするうちに、
太郎は『明日の神話』のことを忘れちゃった(笑)。
もともと完成した作品には執着しない人でしたからね。
だけど、もちろん秘書の敏子は忘れなかった。
「あれはどうなったのかしら」
と、ずっと気になっていたようです。
ずいぶん経って、日本の敏子のもとに
「スアレスのホテルは、
資金繰りの目途が立たずに
立ち行かなくなって、放置されてるらしい」
という噂話が入ってきた。
実際その通りで、ホテルは
完成しないまま人手に渡るんです。
メキシコオリンピックも終わってるし
「いまどき、もうホテルじゃねえな」ってことで、
結局オフィスビルに改装されることになった。
「ワールドトレードセンター」っていう名前で、
今も立派に営業しています。
ただ、このとき『明日の神話』が邪魔になった。
オフィスビルにでっかい吹き抜けロビーは無駄でしょ?
床をつくってテナントに貸した方が得ですからね。
で、改装の際に『明日の神話』は取り外され、
いろいろな所を転々とするうちに
行方がわからなくなっちゃったんです。
そして闇に葬られました。
なにしろ工事関係者以外、だれも作品を見ていないわけで、
作品の存在自体、日本人も知らないし、
メキシコ人も知らない。
話題になることもありませんでした。
でも、あとで聞いたんですけど、
探そうとした人もいたようです。
今から10数年、20年くらい前だったかな。
ひとつは、日本のテレビ番組制作会社。
これは
「岡本太郎の最大の作品が行方不明らしい。
見つかったら面白い番組になるぞ」
ということで。
もうひとつは、アメリカの画商。
「あの太陽の塔を作った芸術家の
巨大な壁画が眠っているらしい」と。
だけど、どちらも探し当てることができなかった。
その後もさらにいろいろあって、
結局、2003年9月にメキシコシティ郊外の
資材置き場で見つかったんです。
でも、それが本当に太郎が描いた
『明日の神話』かどうか、現地の人には判断できない。
だから敏子が、メキシコまで確認しに行ったんです。
「‥‥あった!」
テレビ番組もついていったので、
このシーンはニュースになりました。
ただ、それはもう、悲惨な状態でした。
泥だらけで、縦横にひび割れが走り、
欠損部分もたくさんあって。
それを目の当たりにした敏子は
「この『明日の神話』を
絶対に、日本に持って帰る」
と決心するわけです。
「これは太郎の最高傑作だし、
いまこそ必要な作品だから、
かならず元の状態に戻して、社会に送り返す」
と、強い決意でもって。
「それが私の最後の仕事」
とも言ってました。
だけど、幅30メートルもある巨大な壁画で、
しかも遠いメキシコにある。
そう簡単な話じゃないんですよ。
まずは作品を手に入れなきゃならないし、
海外だし、巨大だし、作品は崩壊寸前まで傷んでるし‥‥。
運ぶことひとつとってもおおごとです。
で、たいへんだろうなあ、って他人事のように見ていたら、
敏子が言うんですよ、
「これ、あなたの仕事よ」って。
「えっ、なんで?」って思ったけど、
彼女の気迫に押されて、逃げられなかった(笑)。
「これをやらなきゃ、私は、死ねないの」とか言うしね。
それでやりはじめたんだけど、
考えてみたら、何も持っていないわけですよ。
経験もないし、方法論もわからない。
自信もなければ、金もない。
あるのは、情熱と使命感だけ。
我々だけでは到底成し遂げられる話ではないので、
いろんな人に力を借りました。
そんななかで応援団もできたんです。
資生堂の福原義春さん、建築家の磯崎新さん、
瀬戸内寂聴さん、三宅一生さん、そして糸井さんの
5人を中心に、日本の第一線にいる
100人の表現者が集まってくれた。
「太郎の船団」という名前も糸井さんがつけてくれました。
ほんとうに、たくさんの人に支えられて、
そういう人たちの善意をエンジンに、
再生プロジェクトは前に進んだんです。
糸井さん個人だけでなく、
「ほぼ日」も一生懸命応援してくれました。
「ほぼ日」は「TARO MONEY」という
ドネーションの仕組みを作ってくれて、
名前を登録してもらった人だけでも
一万三千人以上の人々から寄付が集まったんです。
これはほんとうに嬉しかった。
寄付金をいただいたことももちろんだけど、
こんなに多くの人たちが
『明日の神話』の再生を願っているんだって
実感できたことが、
プロジェクトメンバーの大きな励みになったからです。
「オレたちが後ろについてるからな」って
言ってもらったような気がしてね。
それがどれほど大きな支えになったことか。
ぼくは「TARO MONEY」のご恩を生涯忘れません。
あのとき寄付してくれた多くの人たちのことも。
「TARO MONEY」は最終的に
プロジェクトに約2千万の寄付をしてくれました。
そのお金で『明日の神話』を安全に運ぶための、
輸送用ケースなどを作らせてもらいました。
『明日の神話』は、そういう長い
何十年という物語を背負っている、
特別な作品なんです。
(つづきます)